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第一話 差出人不明

午前八時四十二分。


警視庁捜査第一課の刑事、桐生直人は、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に運んだ。


昨夜、帰宅したのは午前三時を過ぎていた。担当する事件の関係者聴取が長引き、ろくに眠ることもできないまま出勤したのだ。


机の上には未処理の書類が積み重なり、パソコンには新着メールの通知がいくつも表示されている。


桐生は小さくため息をつくと、一通ずつ内容を確認し始めた。


その中に、妙なメールがあった。


件名は『十二年前の赤羽の事件について』。


差出人の表示名はなく、本文にはわずか数行の文章が記されていた。


『平成二十六年十一月十七日、東京都北区赤羽で発生した女性殺害事件について、再確認すべき事項があります』


桐生の手が止まった。


その事件には覚えがあった。


十二年前、赤羽駅から少し離れた住宅街にあるアパートで、当時二十一歳の女子大学生が殺害された事件だ。


被害者は一人暮らしで、室内に争った形跡はほとんどなかった。金品が奪われた様子もなく、犯人の侵入経路すら明確には特定されていない。


警察は交友関係を中心に捜査を進めたが、有力な容疑者を絞り込むには至らず、事件は未解決のまま十二年が経過していた。


桐生自身が担当した事件ではない。しかし、過去の捜査資料に目を通したことがあり、概要は記憶していた。


メールには続きがあった。


『当日午後十時十四分、現場から約六百メートル離れた交差点を通過した車両を確認してください』


その下には、車種と色、ナンバープレートの一部が記されていた。


そして最後に、一つのURLが添えられている。


桐生は眉をひそめた。


匿名の情報提供など珍しくない。


事件の報道を見て、自分が犯人を知っていると思い込む者もいれば、単なる嫌がらせで虚偽の情報を送りつける者もいる。


しかし、このメールには妙な具体性があった。


十二年前の出来事について、午後十時十四分という時刻まで指定している。


当時の記録を持っているのか。それとも、事件に関わった人物なのか。


「桐生さん、おはようございます」


背後から声がした。


振り返ると、後輩刑事の三浦航平が立っていた。


「おう」


「何かあったんですか?」


「変なメールが来た」


三浦は桐生の隣に立ち、画面を覗き込んだ。


「赤羽の事件……十二年前ですか」


「知っているか?」


「概要だけなら。女子大学生が殺された事件ですよね」


「ああ」


三浦は本文を読み進め、首を傾げた。


「午後十時十四分って、随分細かいですね」


「そこが気になる」


「当時の目撃者でしょうか」


「だったら、なぜ今になって連絡してきたのかという話になる」


桐生は画面の下部を指さした。


「それに、このURLだ」


「何かの映像でしょうか?」


「分からん。まだ開いていない」


桐生はメールを保全すると、情報管理部門に確認を依頼した。


出所の分からないリンクを、捜査用の端末から不用意に開くわけにはいかない。


しばらくして、隔離された環境でURLへのアクセスが試みられた。


しかし、画面に表示されたのは、目的の情報ではなかった。


『404 Not Found』


「ページが見つからない……」


三浦が呟いた。


「削除されたんですかね」


「可能性はあるな」


桐生は腕を組んだ。


リンク先が見つからないことと、メールの送信者が特定できないことは別の問題だ。


ただ、送信者が何を見せようとしていたのかは、これでは分からない。


「いたずらでしょうか」


「それを決めるのは早い」


桐生は立ち上がった。


「赤羽の事件の資料を出してくれ」


「分かりました」


三浦が足早に部屋を出ていく。


桐生はもう一度、メールを読み返した。


午後十時十四分。


その時刻に、何があったというのか。




午後一時二十分。


会議室の机には、十二年前の捜査資料が広げられていた。


当時の現場写真、関係者の供述、周辺の防犯カメラに関する報告書。


事件から長い年月が経過しているとはいえ、記録そのものが消えたわけではない。


桐生は一枚の報告書を取り上げた。


「三浦、これを見ろ」


「はい」


「事件の三日前、被害者のアパート付近で不審な車が目撃されている」


三浦は報告書に目を通した。


「黒のセダン……」


「ああ。メールに書かれていた車種と一致する」


「偶然でしょうか」


「それだけなら、そう考えるのが普通だ」


桐生は資料をめくった。


当時、車両の所有者を特定するための捜査が行われていたが、目撃情報が曖昧だったこともあり、決定的な成果には繋がっていなかった。


「でも、事件当日の記録はないんですね」


三浦が尋ねた。


「少なくとも、ここには載っていない」


「じゃあ、メールの差出人はどうして……」


「それを調べるんだ」


桐生は地図を広げた。


メールに記されていた交差点は、現場から約六百メートル離れている。


当時の重点的な確認範囲からは、わずかに外れていた。


「防犯カメラの映像は残っているんでしょうか」


「十二年前だからな。民間の映像は、まず期待できない」


「ですよね……」


「だが、当時の捜査で確認した映像や聞き込みの記録なら、何か残っているかもしれん」


桐生は地図に印を付けた。


「この交差点を中心に、当時の資料をもう一度洗い直す」


「分かりました」


三浦が頷いた、そのときだった。


桐生のパソコンに、新着メールの通知が表示された。


件名は『補足』。


差出人の表示名は、先ほどと同じく空欄だった。


「また来ましたよ」


三浦が声を上げた。


桐生はメールを開いた。


本文は短かった。


『車両の所有者を調べる必要はありません』


『重要なのは、後部座席に乗っていた人物です』


桐生は画面を凝視した。


「……後部座席?」


三浦も顔を近づける。


「最初のメールには、そんなこと書いてありませんでしたよね」


「ああ」


「この人、車の中まで見ていたんでしょうか」


「それなら、目撃者ということになるが……」


桐生は言葉を止めた。


十二年前の夜。


交差点を通過した車両。


その後部座席に乗っていた人物。


メールの差出人は、一体どこまで知っているのか。


「桐生さん」


三浦が声を潜めた。


「もしかして、犯人なんじゃ……」


「可能性の一つではある」


桐生は慎重に答えた。


「だが、今の段階で決めつけるな」


匿名の情報提供者が犯人であるとは限らない。


当時の目撃者かもしれないし、事件の関係者から話を聞いた第三者かもしれない。


あるいは、警察が把握していない記録を手に入れた人物という可能性もある。


「とにかく、裏を取るしかない」


桐生はメールを印刷した。


「後部座席の人物について、当時の資料に何か記載がないか確認してくれ」


「はい」


三浦が席を立つ。


桐生は再び画面に目を向けた。


匿名の情報提供者。


警察が知らないはずの情報。


そして、開くことのできないURL。


一つひとつは、まだ何の証拠にもならない。


しかし、それらが偶然に重なっただけだとも思えなかった。




午後六時四十七分。


三浦は情報管理部門から戻ると、疲れた顔で椅子に腰を下ろした。


「どうだった?」


桐生が尋ねた。


「送信者の特定には至っていません。引き続き確認するそうです」


「そうか」


「それと、例のURLなんですが、何度確認しても同じエラーが出るそうです」


「404か」


「はい。Not Foundです」


桐生は腕を組んだ。


送信者の正体は不明。


情報の入手経緯も不明。


リンク先は存在しない。


それなのに、メールの内容には、事件の捜査記録と一致する部分がある。


「……面倒な相手だな」


桐生が呟くと、三浦が苦笑した。


「困りますね」


「何がだ」


「毎回『匿名の情報提供者』って言うのも長いじゃないですか」


「好きに呼べばいい」


三浦は少し考えた。


「じゃあ、404なんてどうです?」


「404?」


「例のエラーです。調べても肝心なものが見つからない。ちょうどいいかなって」


桐生は呆れたように息を吐いた。


「くだらん」


「でも、覚えやすいでしょう?」


「正式な捜査資料には書くなよ」


「もちろんです」


三浦は笑った。


こうして、正体不明の情報提供者には、捜査員たちの間だけで使われる呼び名が付いた。


404。


見つからないものを示す数字。


その呼び名が、やがて警察の未解決事件捜査を大きく揺るがすことになるとは、このとき誰も想像していなかった。




同日、午後十一時十三分。


東京都内の高層マンション。


照明を落とした部屋で、一人の青年がパソコンの画面を見つめていた。


机の上には複数のモニターが並び、事件に関する資料や古い新聞記事が表示されている。


青年は、赤羽の事件について整理していた情報を閉じた。


警察に伝えるべきことは伝えた。


あとは、彼らが動くかどうかだ。


青年にとって、それは数ある未解決事件の一つに過ぎなかった。


彼が本当に知りたいことは、別にある。


画面を切り替えると、一件の古い新聞記事が表示された。


『住宅で夫婦死亡 警察は心中と判断』


青年は記事を見つめた。


そこに記されているのは、幼い頃に亡くした両親の事件だった。


警察は心中だと結論づけた。


しかし、青年は今も納得していない。


あの夜、自宅を訪れた見知らぬ人物。


その姿を、確かに見たはずだった。


それなのに、当時の捜査では第三者が立ち入った痕跡は確認されなかった。


自分の記憶が間違っているのか。


それとも、誰かが真実を隠しているのか。


青年は何度も資料を読み返してきた。


何百回、何千回と。


それでも、答えは見つからない。


他人の事件なら、見落とされた手掛かりに気づくことができる。


警察が長年解決できなかった事件でさえ、新たな視点から調べ直せば、別の可能性が浮かび上がる。


だが、自分の両親の事件だけは違った。


調べれば調べるほど、分からないことが増えていく。


青年は椅子の背にもたれ、静かに目を閉じた。


そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……あの夜、誰が来たんだ」


返事はない。


ただ、パソコンの冷たい光だけが、青年の顔を照らしていた。


**第一話 了**

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