第二話 十二年前の映像
翌日、午前九時十七分。
警視庁捜査第一課。
桐生直人は、昨日から机の上に置いたままになっている一枚の紙を見つめていた。
そこには、匿名の情報提供者から送られてきたメールが印刷されている。
『重要なのは、後部座席に乗っていた人物です』
何度読み返しても、意味が分からなかった。
十二年前の殺人事件。
現場から六百メートル離れた交差点を通過した黒いセダン。
そして、その後部座席に乗っていたという人物。
差出人は、なぜそこまで詳しく知っているのか。
「桐生さん」
三浦航平が、書類の束を抱えて近づいてきた。
「昨日の件、当時の捜査資料をもう少し調べてみました」
「何か分かったか?」
「例の交差点なんですが、当時、防犯カメラが設置されていたみたいです」
桐生は顔を上げた。
「どこのカメラだ?」
「交差点の手前にあった電柱です。道路管理用のカメラだったそうで、ちょうど車道を斜め上から撮影する位置にありました」
三浦は資料の一枚を差し出した。
そこには、十二年前に撮影された現場周辺の写真があった。
交差点の角に立つ電柱。
その上部に、小さなカメラが取り付けられている。
「映像は?」
「当時、警察も確認しています。ただ、画質が悪くて、車のナンバーすら判別できなかったそうです」
「記録は残っているのか?」
「確認したところ、当時の捜査で保存された複製があるようです。今、取り寄せています」
桐生は写真を見つめた。
「なるほどな……」
匿名の情報提供者が指定した交差点。
そこに設置されていた防犯カメラ。
偶然と片づけるには、少しずつ材料が揃い始めていた。
「ちなみに、そのカメラは現在どうなっている?」
「数年前の道路工事に伴って撤去されています。管理主体も変わっていて、当時の録画設備は残っていないそうです」
「つまり、今から同じ映像を取りに行くことはできないわけか」
「はい」
桐生は椅子に深く腰掛けた。
十二年前の映像が、今になって事件を動かす。
そんなことが本当にあるのだろうか。
そう考えた瞬間、パソコンから短い通知音が鳴った。
新着メール。
件名は『映像資料』。
差出人の表示名は、昨日と同じく空欄だった。
桐生は思わず三浦と顔を見合わせた。
「……また404か」
「みたいですね」
昨日、三浦が冗談半分で付けた呼び名だった。
だが、こうして再びメールが届くと、不思議とその数字がしっくりくる。
桐生はメールを開いた。
本文には、こう記されていた。
『平成二十六年十一月十七日、午後九時五十二分から午後十時二十一分までの映像を送付します』
『撮影地点は、被害者宅向かいの電柱に設置されていた防犯カメラです』
『映像には独自の補正処理を施しています。元データと処理内容も併せて確認してください』
その下には、複数のファイルが添付されていた。
「……被害者宅の向かい?」
三浦が呟いた。
「昨日の交差点とは別のカメラですね」
「ああ」
桐生はメールを読み進めた。
『午後十時十四分に交差点を通過した車両と、被害者宅付近で確認された車両は同一である可能性が高いと考えられます』
『重要な場面は、映像の十八分四十二秒付近です』
桐生は時計を見た。
午前九時二十分。
昨日と同じように、情報管理部門へ連絡する。
「三浦、関係者を集めろ」
「はい」
「それと、十二年前の映像の保存状況を至急確認してくれ」
三浦が走り出した。
桐生は画面に表示されたファイル名を見つめた。
十二年前の映像。
それが、今になって送られてきた。
しかも、警察が当時確認できなかった情報を含んでいるという。
桐生の胸に、得体の知れない違和感が広がっていた。
一体、何者なのだ。
この404という人物は。
午前十一時三十八分。
会議室には、桐生と三浦のほか、情報解析を担当する職員二名と、当時の事件を知るベテラン刑事が集まっていた。
壁面の大型モニターには、赤羽の住宅街を映した映像が表示されている。
「まず、こちらをご覧ください」
解析担当の職員が操作を始めた。
映像は夜間に撮影されたものだった。
街灯の光が道路を照らしているものの、全体的に暗く、画面には細かなノイズが走っている。
建物の輪郭は分かる。
しかし、人の顔や服装を判別するのは難しい。
「これが、当時保存されていた映像です」
職員が説明した。
「被害者のアパート向かいに設置されていたカメラの記録です。当時の捜査でも確認されています」
桐生は画面を見つめた。
「このカメラ、当時は何も映っていないと判断されたんじゃなかったのか?」
ベテラン刑事が頷いた。
「正確には、人影らしきものは確認されていた。ただ、暗すぎて誰なのか分からなかった。犯人と結びつけられる材料もなかったんだ」
「補正は試みたんですか?」
三浦が尋ねた。
「もちろんだ。明るさやコントラストを調整したし、当時使える画像処理も試した。だが、限界があった」
解析担当の職員が別のファイルを開いた。
「次に、今回送られてきた補正済みの映像です」
画面が切り替わった。
その瞬間、三浦が息を呑んだ。
「……え?」
先ほどまで暗闇に埋もれていた道路の輪郭が、明瞭に浮かび上がっていた。
建物の外壁。
電柱の影。
道路脇に停車している車。
そして、アパートの入口。
細かなノイズが抑えられ、映像全体が驚くほど見やすくなっている。
「これ、本当に同じ映像ですか?」
三浦が尋ねた。
「現時点では、同一の記録を元に処理したものと考えられます。ただし、改変の有無は慎重に調べる必要があります」
職員はそう答えた。
「送信者は、複数のフレームを比較しながらノイズを除去し、動いている対象の輪郭を抽出する処理を行ったようです」
「そんなことができるのか?」
桐生が尋ねる。
「条件が揃えば可能です。元の映像に残っている情報を、時間方向も含めて解析する方法ですね。ただし、記録されていない細部を作り出すことはできません」
職員は画面の一部を拡大した。
「今回の映像は、比較的情報が残っていたようです。少なくとも、単純に画像を拡大しただけのものではありません」
「……なるほど」
桐生は腕を組んだ。
「続けてくれ」
映像が再生された。
午後十時十一分。
画面の右端から、一台の黒いセダンが現れた。
車はゆっくりと道路を進み、アパートから少し離れた場所で停車した。
数秒後、後部座席のドアが開いた。
一人の人物が降りてくる。
黒っぽい上着。
帽子を深くかぶり、顔の上半分は影になっている。
体格から成人とみられるが、性別までは断定できない。
「止めてくれ」
桐生が言った。
映像が停止する。
「後部座席だな」
「はい」
三浦が答えた。
昨日のメール。
『重要なのは、後部座席に乗っていた人物です』
その意味が、ようやく分かった。
「再生してくれ」
映像が動き出した。
人物は車から降りると、周囲を見渡した。
そして、アパートの入口へ向かって歩き始める。
そのときだった。
「……待て」
桐生が身を乗り出した。
「今、右手に何か持っていなかったか?」
職員が映像を巻き戻した。
再び再生する。
人物の右手。
街灯の光を受けて、何かが一瞬だけ反射した。
「拡大できますか?」
三浦が尋ねた。
職員は別の補正映像を開いた。
画面には、人物の右手付近が大きく表示された。
誰も声を発しなかった。
そこには、細長い金属製の物体が映っていた。
柄のような部分。
そこから伸びる、刃物を思わせる輪郭。
「……包丁?」
三浦が呟いた。
「刃物の可能性が高いですね」
解析担当の職員が答えた。
「ただし、映像だけで種類を断定することはできません」
桐生は画面から目を離さなかった。
人物は右手の物体を上着の内側に隠すようにして、アパートの入口へ向かっている。
そして、そのまま建物の中へ消えた。
「時刻は?」
「午後十時十二分三十八秒です」
桐生は資料に目を落とした。
被害者の死亡推定時刻は、午後十時前後から十一時過ぎまで。
十分に重なる。
「……おい」
それまで黙っていたベテラン刑事が、低い声を漏らした。
「こんなものが映っていたのか」
誰も答えなかった。
十二年前、警察はこの映像を確認していた。
しかし、当時の技術では、暗闇に埋もれた人物の姿を十分に判別できなかった。
その結果、事件と結びつく重要な場面が、記録の中に眠り続けていたのだ。
「まだ続きがあります」
解析担当の職員が言った。
映像が再生される。
午後十時十九分。
先ほどの人物が、再びアパートの入口から現れた。
今度は、右手に何も持っていないように見える。
人物は足早に車へ向かい、後部座席に乗り込んだ。
そして、車は走り去った。
桐生は映像が終わっても、しばらく口を開かなかった。
十二年前の事件。
凶器は刃物とみられていた。
だが、現場からは発見されていない。
そして今、事件当夜に刃物らしきものを持って被害者宅へ入る人物が映し出された。
「……三浦」
「はい」
「これは大きいぞ」
三浦は無言で頷いた。
桐生は続けた。
「ただし、まだ犯人と決まったわけじゃない。映像の真正性も確認しなければならん」
「分かっています」
「だが、少なくとも捜査をやり直す理由にはなる」
桐生は画面に映る人物を見つめた。
十二年間、誰も正体を突き止められなかった殺人犯。
その候補となる人物が、今、目の前にいる。
「……一体、どうやって見つけたんだ」
桐生の問いに、答える者はいなかった。
午後二時十五分。
解析担当の職員が、検証結果の一部を報告した。
「送信された元データと、警察が保管していた映像を照合しました」
「結果は?」
「一致しています。少なくとも、送信者が提示した元データは、当時の保存記録と同一のものです」
三浦が驚いたように顔を上げた。
「ということは、本当に十二年前の映像を使っているんですね」
「そうなります」
「補正映像の方は?」
桐生が尋ねた。
「こちらはまだ検証中です。ただ、問題の人物や手に持った物体については、元映像の複数フレームにも対応する変化が確認できます。完全な創作映像という可能性は低そうです」
「なるほど」
桐生は頷いた。
「つまり、元の映像にあった情報を、何らかの方法で引き出したわけか」
「そう考えられます」
職員は少し間を置いた。
「それにしても、かなり高度な処理です。単なる市販ソフトの自動補正では、ここまで安定した結果を得るのは難しいでしょう」
「専門家の仕事か?」
「少なくとも、映像処理に相当詳しい人物だと思います」
三浦が口を挟んだ。
「404って、もしかして研究者なんでしょうか」
「分からん」
桐生は短く答えた。
「だが、一つ確かなことがある」
「何ですか?」
「こいつは、十二年前の捜査記録を手に入れている」
会議室が静まり返った。
警察が保存していた映像と同じデータ。
それを、警察の外にいる何者かが所持している。
問題は、映像の内容だけではなかった。
「どうやって入手したんでしょう」
三浦が尋ねた。
「それも調べる必要がある」
桐生は資料を閉じた。
「情報提供者だからといって、何をしても許されるわけじゃない。映像の入手経路も、加工の過程も、すべて確認する」
「はい」
「それと、映像に映った人物の特定を急げ」
桐生は立ち上がった。
「十二年前の事件を、もう一度洗い直すぞ」
その声には、昨日までとは明らかに違う力があった。
午後十一時四十八分。
東京都内の高層マンション。
青年は、パソコンの画面に表示された処理結果を確認していた。
赤羽の事件。
十二年前の防犯カメラ映像。
彼がその映像を初めて見たのは、数週間前のことだった。
当時の警察が見落とした情報が、そこにあると気づいたのは偶然ではない。
映像を一枚ずつ確認し、複数のフレームに残されたわずかな変化を比較する。
光の反射。
輪郭の揺らぎ。
暗部に埋もれた色の差。
青年は、それらを解析するためのプログラムを自ら組み上げていた。
既存の画像処理技術を組み合わせ、何度も処理条件を変えながら、元の映像に残っている情報を取り出していく。
簡単な作業ではなかった。
処理に失敗すれば、輪郭が崩れる。
ノイズを除去しすぎれば、本来存在していた細部まで消えてしまう。
逆に補正を強くかけすぎれば、実際には存在しない形が浮かび上がることもある。
だからこそ、青年は慎重だった。
自分の推測を映像に押し付けてはいけない。
見たいものを見るのではなく、そこに記録されているものを見なければならない。
その作業を何日も繰り返した結果、ようやく人物の姿が浮かび上がった。
そして、右手に握られた刃物らしきものも。
青年は映像を停止した。
画面には、黒い上着を着た人物が映っている。
「……これで、動くだろう」
小さく呟いた。
警察が犯人を特定できるかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも十二年前には見えなかったものが、今は見えている。
それだけで、捜査をやり直す価値はあるはずだった。
青年は赤羽の事件のフォルダを閉じた。
そして、別の資料を開く。
そこには、古い住宅の間取り図が表示されていた。
幼い頃に暮らしていた家。
両親が亡くなった場所。
青年は、間取り図の玄関付近を拡大した。
あの夜、誰かが来た。
自分は確かに、その人物を見たはずだった。
だが、その記憶を裏付ける映像は存在しない。
写真もない。
目撃者もいない。
残されているのは、幼い自分の記憶だけだった。
青年は静かに息を吐いた。
他人の事件なら、記録の中から手掛かりを見つけられる。
十二年前の映像でさえ、見直せば新たな事実が浮かび上がる。
それなのに、自分の事件には、解析するための映像すらない。
青年は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
そして、ふと思った。
もし、あの夜の記憶そのものが間違っていたら。
もし、本当に誰も来ていなかったとしたら。
自分は、一体何を探しているのだろう。
その疑問を、青年はすぐに打ち消した。
まだ、結論を出すには早い。
証拠が見つからないことは、何もなかったことの証明にはならない。
青年は再びキーボードに手を伸ばした。
モニターには、十二年前の事件とは別の、さらに古い記録が表示されている。
そこに記されていたのは、両親の死亡推定時刻だった。
青年はその数字を見つめ、眉をひそめた。
何度も確認してきたはずの記録。
だが、今夜になって、一つの疑問が浮かんでいた。
......あの夜、自分は本当に、両親が亡くなる前に訪問者を見たのだろうか......
それとも......
青年の指が、キーボードの上で止まった。
**第二話 了**




