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プロローグ あの夜の訪問者

 人間の記憶ほど、信用できないものはない。


 見たはずのものを忘れ、聞いたはずの言葉を取り違え、時には存在しなかった出来事さえ、実際に経験したことのように思い込んでしまう。


 ましてや、それが幼い子どもの記憶であればなおさらだ。


 だから、あのときの警察の判断が間違っていたとは思わない。


 証拠がなかった。


 目撃者もいなかった。


 現場の状況は、心中を示していた。


 ただ、それだけのことだ。


 けれど、一つだけ納得できないことがある。


 あの夜、僕が見た人間は誰だったのか。


 もし、あれが単なる見間違いだったのなら、僕は一体何を見たというのだろう。


 十五年以上が経った今でも、答えは出ていない。


 いや、正確には違う。


 答えが出ていないのではない。


 まだ、見つけられていないだけだ。


     


 その日は、ごく普通の一日だった。


 少なくとも、僕の記憶の中ではそうなっている。


 父はいつものように仕事から帰ってきて、母は夕食を作っていた。テレビからは誰かの笑い声が聞こえ、食卓には三人分の料理が並んでいた。


 何を食べたのかは覚えていない。


 父が何を話していたのかも、母がどんな服を着ていたのかも思い出せない。


 ただ、二人とも笑っていた気がする。


 それが本当の記憶なのか、後から自分で作り上げた都合のいい思い出なのかは分からない。


 けれど、少なくとも僕の中にある最後の両親の姿は、笑っている二人だった。


「もう寝る時間よ」


 母にそう言われ、僕は自分の部屋へ向かった。


 布団に入ると、母がいつものように肩まで掛け布団を掛けてくれた。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 母は小さく微笑み、部屋の明かりを消した。


 扉が閉まる。


 それが、母と交わした最後の会話だった。


     


 夜中、ふと目が覚めた。


 部屋は暗く、カーテンの隙間から街灯の光が差し込んでいた。


 時計を見た記憶はない。


 ただ、家の中が妙に静かだったことだけは覚えている。


 僕はベッドから降り、廊下へ出ようとした。


 そのときだった。


 カチャリ。


 小さな音がした。


 玄関の方からだった。


 父が帰ってきたのだろうか。


 そう思いかけて、すぐに違うと気づいた。


 父はもう帰ってきている。


 僕は扉を少しだけ開け、廊下を覗いた。


 玄関に誰かが立っていた。


 暗くて顔は見えなかった。


 その人物は、ゆっくりと扉を閉めた。


 不思議なことに、僕はその人が泥棒だとは思わなかった。


 泥棒なら、もっと慌てているものだと思っていたからだろうか。


 その人の動きは落ち着いていた。


 まるで、何度もこの家を訪れたことがあるかのように。


 僕は声をかけようとした。


 けれど、できなかった。


 知らない人だった。


 父でも母でもない。


 それだけは分かった。


 僕は慌てて扉を閉め、ベッドへ戻った。


 布団を頭までかぶる。


 心臓が速く打っていた。


 どうして怖かったのかは分からない。


 ただ、何となく、見つかってはいけない気がした。


 しばらくすると、廊下の方から足音が聞こえた。


 一歩。


 また一歩。


 そこで記憶は途切れている。


 その後、僕が眠ってしまったのか、それとも何か別のことが起きたのかは分からない。


 次に目を覚ましたとき、僕の人生はすでに変わっていた。


     


「聞こえる? 僕、聞こえるかな?」


 知らない男の声がした。


 目を開けると、見知らぬ大人が僕の顔を覗き込んでいた。


 部屋の明かりが眩しかった。


 何人もの人間が家の中を歩き回り、無線機からは聞き取れない声が流れていた。


 僕は何が起きたのか分からなかった。


「お父さんは?」


 男は答えなかった。


「お母さんは?」


 もう一度尋ねると、男は一瞬だけ表情を曇らせた。


「大丈夫だからね」


 何が大丈夫なのか、分からなかった。


 僕は家の外へ連れ出された。


 玄関の前には警察車両と救急車が停まっていた。


 近所の人たちが集まり、何かを話している。


 その中に、父と母の姿はなかった。


 僕はもう一度、両親の名前を呼んだ。


 誰も答えてくれなかった。


     


 両親が亡くなったことを知らされたのは、それから少し経ってからだった。


 詳しい状況を理解するには、僕はあまりにも幼かった。


 ただ、もう二人には会えないのだと説明された。


 最初は意味が分からなかった。


 昨日まで一緒に食事をしていた人間が、今日から二度と帰ってこない。


 そんなことがあるはずないと思った。


 けれど、大人たちは何度聞いても同じことを言った。


 父と母は死んだ。


 もう会えない。


 それだけだった。


 何日か経って、警察の人が僕に話を聞きに来た。


 優しそうな男の人だった。


 隣には女性も座っていた。


「少しだけ、お話を聞かせてもらってもいいかな?」


 僕は頷いた。


「お父さんとお母さんは、よく喧嘩していた?」


「ううん」


「最近、二人の様子がおかしいと思ったことはある?」


「わかんない」


「お家に知らない人が来たりしたことは?」


 その質問を聞いた瞬間、僕は思い出した。


「あのね」


「うん?」


「知らない人が来た」


 男の手が止まった。


「知らない人?」


「うん。夜に来た」


「いつの夜?」


「お父さんとお母さんが死んだ日」


 男は女性と顔を見合わせた。


「その人の顔は見た?」


「見てない」


「男の人だった? 女の人だった?」


「わかんない」


「何をしていたの?」


「おうちに入ってきた」


「玄関から?」


「うん」


「お父さんかお母さんが、その人と話していた?」


「わかんない」


「その人は何か持っていた?」


 僕は首を横に振った。


 覚えていなかった。


 男はしばらく考え込んだあと、もう一度尋ねた。


「本当に知らない人だった?」


「うん」


「夢だったということはないかな?」


 僕は答えられなかった。


 夢。


 そう言われると、急に自信がなくなった。


 夜中に目を覚ましたことも、玄関に誰かがいたことも、確かに覚えている。


 けれど、それが夢ではなかったと証明する方法を、幼い僕は知らなかった。


 男はそれ以上、深く追及しなかった。


 僕の話を紙に書き留め、最後に頭を撫でて帰っていった。


 それが、僕の覚えている最後の事情聴取だった。


     


 警察は、両親の死を心中と判断した。


 室内に第三者が侵入したことを示す決定的な痕跡はなく、現場の状況も外部の人間による犯行を積極的に示すものではなかったという。


 僕が話した訪問者についても、裏付けとなる証言や証拠は見つからなかった。


 結果として、事件性は認められなかった。


 その判断がどのような証拠に基づいていたのか、当時の僕には知る由もなかった。


 両親の葬儀が終わると、僕は児童養護施設へ預けられた。


 それからの日々は、驚くほど普通だった。


 学校へ通い、勉強をして、友達と遊ぶ。


 施設の職員たちは親切だったし、同じ境遇の子どもたちとも仲良くなった。


 少なくとも、僕は不幸な毎日を送っていたわけではない。


 ただ、家族の話題になると、いつも少しだけ居心地が悪かった。


 授業参観。


 運動会。


 家族について作文を書く授業。


 そんなとき、僕は決まって両親のことを思い出した。


 そして、あの夜のことも。


 不思議なことに、時間が経つほど記憶は薄れていったのに、疑問だけは大きくなっていった。


 なぜ、父と母は死んだのか。


 なぜ、僕だけが生き残ったのか。


 そして、あの人は誰だったのか。


     


 中学に入って間もないころ、僕は初めて両親の死について自分で調べた。


 きっかけは、授業で使ったパソコンだった。


 インターネットを使えば、昔の出来事も調べられる。


 そんな当たり前のことを知り、僕は施設へ帰ってから共用のパソコンを借りた。


 検索欄に父の名前を入力する。


 何も出てこなかった。


 母の名前でも同じだった。


 そこで、住んでいた地域と両親が亡くなった日付を組み合わせて検索した。


 何度か言葉を変えるうちに、古い新聞記事が見つかった。


『住宅で夫婦死亡 無理心中か』


 短い見出しだった。


 記事には、両親が自宅で死亡しているのが発見されたこと、当時幼かった子ども一人が保護されたこと、そして警察が無理心中の可能性を調べていることが書かれていた。


 僕は何度も読み返した。


 そこに書かれていたのは、僕の知っている事実だった。


 父と母が死んだ。


 僕だけが生き残った。


 警察は心中と判断した。


 それだけだった。


 あの夜の訪問者については、一言も書かれていなかった。


 僕は画面を見つめながら考えた。


 もしかすると、本当に夢だったのかもしれない。


 両親が死んだという衝撃から、存在しない記憶を作り上げてしまったのかもしれない。


 そう考えた方が、ずっと自然だった。


 警察が調べて、事件ではないと判断したのだ。


 ならば、それが真実なのだろう。


 けれど、どうしても納得できなかった。


 僕はあの人を見た。


 少なくとも、見たと信じている。


 その記憶を疑うことはできても、なかったことにはできなかった。


 だったら、確かめるしかない。


 警察の判断が正しかったのか。


 それとも、何かが見落とされていたのか。


 僕は検索欄に新しい言葉を入力した。


『過去の事件 調べ方』


 いくつもの検索結果が表示された。


 新聞の縮刷版。


 図書館のデータベース。


 古いウェブサイト。


 公的な記録。


 僕の知らない世界が、画面の向こうに広がっていた。


 その日から、僕は少しずつ調べ物をするようになった。


 最初は検索の仕方を覚えるだけだったが、やがて大量の情報を整理するためにプログラミングを学び始めた。


 一つ覚えると、また新しいことが知りたくなった。


 ネットワーク、データベース、暗号技術、情報セキュリティ。


 知識が増えるほど、今まで見えなかったものが見えるようになった。


 そして同時に、あることにも気づいた。


 世の中には、解決されていない事件が驚くほど多い。


 犯人が見つからなかった事件。


 事故として処理された不審な死。


 行方が分からないまま、何年も経過した失踪事件。


 その中には、僕の両親のように、すでに捜査が終わっているものもあった。


 僕はそれらを見ながら、ふと思った。


 もし、警察が見落としたものを見つけられたら。


 もし、誰も気づかなかった事実を発見できたら。


 過去の結論を変えることはできるのだろうか。


 その疑問が、後に僕の人生を大きく変えることになる。


 もっとも、このときの僕はまだ知らなかった。


 数年後、自分が警察にとって極めて厄介な存在になることを。


 誰にも頼まれていない事件を勝手に調べ、証拠を見つけては一方的に送りつける。


 警察からすれば、正体も目的も分からない不審な情報提供者。


 けれど、僕にとっては違った。


 すべては、たった一つの事件を解決するための延長にすぎなかった。


 僕が知りたいのは、昔も今も変わらない。


 あの日、何が起きたのか。


 両親は本当に心中したのか。


 そして、もし心中ではなかったのなら――。


 あの夜、僕の家に入ってきた人間は、一体誰だったのか。


 僕はまだ、その答えを知らない。


 ただ一つ、確かなことがある。


 誰も調べてくれないのなら、自分で調べるしかない。


 たとえ、それが十五年以上前に終わった事件だったとしても。


 僕にとって、あの夜はまだ終わっていないのだから。

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