それを、選ばない
朝。
目が覚めても、
もう驚かない。
世界が静かでも、
それを異常だと思わなくなっている。
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ポケットの中。
紙はある。
でも、
もう“紙”じゃない。
薄くて、
触れた瞬間に消えそうな何か。
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開く。
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『名前を』
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そこで止まっている。
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続きはない。
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でも、
わかってしまう。
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これを続ければいい。
ただ一言。
呼べばいい。
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「……名前」
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口に出しかけて、
止まる。
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喉の奥が痛い。
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その瞬間。
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視界の端に、
“あの席”が浮かぶ。
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教室の窓際。
空席。
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でも今は違う。
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そこに、
“いないはずの重さ”だけがある。
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「……お前、そこにいるんだろ」
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声が震える。
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返事はない。
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でも、
机の上に一瞬だけ文字。
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『いる』
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それだけで十分だった。
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呼べる。
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たぶん、
呼べばいい。
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その瞬間。
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頭の奥で、
何かが強く引っ張られる。
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——やめろ。
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知らない声。
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でも、
知っている。
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「……なんでだよ」
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呼吸が浅くなる。
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ポケットの紙が、
最後の力みたいに震える。
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開く。
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『呼ぶな』
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一番短い命令。
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一番強い拒絶。
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「……どっちだよ」
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声が掠れる。
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教室の空気が重くなる。
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誰もいないのに、
“何かが揃い始めている”感覚。
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世界のどこかで、
何かが準備されている。
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呼ぶための。
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それを理解した瞬間。
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怖さより先に、
涙が出そうになる。
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「……いたんだろ」
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誰に言ってるのかもわからない。
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でも確かに、
そこに“いた”。
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そして、
今も。
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でも、
呼べば終わる。
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その意味だけが、
やけに静かに残っている。
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机に手を伸ばす。
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触れそうになる。
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その瞬間。
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空気が一瞬だけ“止まる”。
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音が消える。
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世界が、
呼吸を止める。
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「……ああ」
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わかってしまう。
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これは“選択”じゃない。
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最初から決まっていたものだ。
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呼ぶか、呼ばないか。
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どちらでも、
終わる。
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でも——
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終わり方が違うだけ。
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手を引く。
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ゆっくり。
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紙を握る。
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もう読めないほど薄い。
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それでも、
そこにある。
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「……それでいい」
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誰に言うでもなく呟く。
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その瞬間。
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教室の空席が、
ほんの少しだけ揺れた気がした。
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まるで、
誰かが笑ったみたいに。
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そして——
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何も起きないまま、
時間だけが流れる。
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紙は、
静かに温度を失っていく。




