それでも、名前を呼ぶ
朝は、来ていた。
いつも通りに。
何もなかったみたいに。
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机の上には、何もない。
ポケットにも、もう何もない。
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あれだけあった“紙”は、
どこにも残っていない。
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でも、
それでいいと思っている自分がいる。
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「……そうか」
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声が漏れる。
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納得に近いものだった。
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忘れたわけじゃない。
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思い出せないわけでもない。
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ただ、
そこに“いた”という感覚だけが残っている。
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名前は、もう出てこない。
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でも、
空席の場所だけは、
はっきりわかる。
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そこには確かに、
誰かがいた。
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そして、
もういない。
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それだけ。
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教室。
窓際の席。
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そこを見る。
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何もない。
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でも、
視線を逸らせない。
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まるで、
そこに“まだ何かが残っている”みたいに。
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「……お前さ」
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小さく呟く。
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「ずるいよな」
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返事はない。
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当然だ。
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でも、
一瞬だけ。
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空気が揺れた。
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まるで、
笑ったみたいに。
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その瞬間、
頭の奥で何かが形になりかける。
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——名前。
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でも、
そこで止まる。
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思い出せない。
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思い出さない方がいいと、
どこかでわかっている。
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呼べば、
きっと終わる。
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でももう、
終わっている気もする。
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「……それでもさ」
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息を吸う。
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言葉を選ぶでもなく、
ただ出てくる。
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「そこにいたのは、わかってる」
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静か。
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世界は何も返さない。
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でも、
それでいい。
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それで、
十分だと思ってしまう。
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視界の端で、
一瞬だけ揺れる。
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誰かが立っている気がする。
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見えない。
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でも、
確かに“いる”。
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そして、
もういない。
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「……名前、呼んだら終わるんだろ」
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誰にともなく聞く。
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返事はない。
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でも、
それはもう答えだった。
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終わっていい。
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そういうことだ。
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口を開く。
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言葉になりかけて、
止まる。
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それだけで、
世界が少しだけ震える。
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空気が、
ほんの一瞬だけ重くなる。
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でも、
それ以上は何も起きない。
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呼ばなかった。
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ただ、
名前の“形だけ”を残して、
飲み込む。
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その瞬間。
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教室の空気が、
ほんの少しだけ軽くなる。
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まるで、
誰かが安心したみたいに。
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「……じゃあな」
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それだけ言う。
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返事はない。
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でも、
確かにそこにいた。
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最初から、
ずっと。
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そして今も、
残っている。
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——残響として。




