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第9話: 私の口で言います

 ——「お断りします」。震える喉で、私は十二年ぶりに自分を選んだ。


 使者は、村を出ていなかった。


 昨日のうちに引いた背中は、ただ広場から退いただけだった。村の入口の手前、街道脇に天幕を張って、そのまま夜を明かしたらしい。


 朝。


 エルザさんの台所の窓ガラスは、内側が薄く曇っていた。指で拭うと、外の景色がにじんで戻ってくる。村の入口の方角に、黒と白の外套が小さく見える。馬車の屋根。槍の穂先。


 居座っている、と一目で分かる立ち方だった。


「……ほんとに、いるんですね」


 私は呟いた。


 エルザさんが、鍋の蓋を開けながら答えた。


「いるねぇ」


「夜どおし……?」


「だろうねぇ。あたしらに見せつけたいのさ」


「見せつけ……」


「『お前らが折れるまで、ここを動かんぞ』ってね。慣れたやり口さ」


 エルザさんは、当たり前みたいに言った。私のためじゃなく、ただの天気の話みたいに。


 台所には、湯気が満ちていた。


 昨夜エルザさんが煮ておいた根菜のスープ。塩漬け肉の脂が、表面でゆっくり輪を描いている。湯気の匂いの中に、薪の煙が混じる。


 私は両手でカップを抱えていた。


 陶器の縁が、指の腹を温める。手のひらが熱を吸う。それなのに、指先だけが氷みたいに冷たい。


 昨日、私は涙を流した。


 ここにいたい、と認めた涙だった。十二年ぶりに、自分のためだけに流した涙だった。


 でも。


 涙を流したからといって、明日が変わるわけではない。


 使者は、まだ村にいる。


「凛ちゃん、座んな」


「……はい」


「カップ、机に置いていいんだよ」


「……あ」


 言われて、ようやく自分が立ったままだったと気づいた。私はそっとカップを机に置いた。


 手のひらが、急に寒くなる。


 戸口の方で、靴の音がした。


 レオンだった。今朝もいつものように黒い。ただ、外套を羽織っている。冬の風を切ってきた肩に、霜が薄く残っていた。


「……外、見てきた」


「うん」


 エルザさんが鍋の方を向いたまま答える。


「動く気配は」


「ない」


「人数は」


「騎士四。御者一。使者一」


「……六人ね」


「あぁ」


「武器は」


「剣だけだ。弓はない」


「天幕は」


「街道脇に一張。火は焚いてる」


「夜どおし、見張ってたんだろうかね」


「交代でやってた様子だ。半数は仮眠してたな」


「ふぅん。気合は入ってるって話さね」


「……」


「で、馬車の中は」


「布で隠してた。中身までは見えん」


「拘束具かね」


「分からん。けど、空ではないな」


 会話が短い。お互い必要な情報だけを置く。


 レオンの視線が、私の方に流れてきた。一瞬だけ。それから、すぐに鍋の湯気に逸れた。


「……凛」


「……はい」


「飯食ったか」


「……まだ、です」


「食ってからにしろ」


 短い。


 でも、その短さに「行かないでいい」とは入っていない。


 行く前提だ。行く、と分かっていて、その前に温かいものを腹に入れろ、と言っている。


 私はカップを取り直した。スープを一口、口に含む。


 舌が、ゆっくり熱を感じる。


 誰も急かさない。エルザさんは、私が口に運ぶ速さで、隣にいてくれる。


「……怖いんです」


 言葉が、勝手に出た。


 エルザさんはこちらを見なかった。鍋の中の人参を、ゆっくり混ぜながら聞いていた。


「うん」


「戻らなきゃって思うのが、怖い」


「うん」


「戻らないって、言うのも怖い」


「うん」


「どっちも、怖くて」


「そうだろうねぇ」


「……」


「両方怖いってのは、ちゃんと考えてる証拠さ」


 エルザさんはそこでようやくこちらを向いた。


「片方しか怖くないやつぁ、考えてないだけだよ」


「どっちも、ですか」


「どっちも、さ」


「両方、考えていい、ってことですか」


「考えていいし、両方怖がっていい」


「……」


「決めるときに、両方の重さを量ればいい。それだけのことさ」


 私はカップの縁を見た。


 湯気が、私の鼻先で揺れている。


 昨夜、レオンが私に置いていった言葉が、まだ耳の奥にある。


「……それでも、あんたが決めろ」


 命令じゃなかった。慰めでもなかった。おりの鍵を、私の手のひらに戻す言葉だった。


 決める。


 その言葉が、私にはまだ重い。


 “決める”なんて、許されてこなかった。


 でも。


 外には、使者がいる。


 私が決めなければ、誰かが代わりに決める。代わりに決めた人が、私を、村を、レオンを、巻き込んでいく。


 私は息を吐いた。


 白い息が、湯気と混ざって、見分けがつかなくなる。


「……行きます」


 声が、自分でも驚くくらい小さかった。


 でも、出した。


 エルザさんが頷いた。


「うん。行こうかね」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、戸口で半歩、外に踏み出した。私が出てきたら、いつでも隣に並べる位置で。


 その背中の角度が、ありがたかった。


 ◇


 広場の井戸の脇に、使者は立っていた。


 昨日と同じ場所。同じ姿勢。違うのは、その手に巻物が握られていることだった。


 赤い封蝋ふうろう。金色の紋。王都の印。


 昨日は出さなかった。今日は、出してきた。


 村人たちは、もう集まっていた。昨日と違って、誰も使者の前には出ない。代わりに、広場の縁に沿って、ぐるりと立っている。


 守る背中はある。


 ただ、今日は、私の背中のために前へ出ない。


 それが、怖い。


 そして、嬉しい。


「凛ちゃん、ゆっくりおいで」


 籠を抱えたおばさんが言った。


「ゆっくりでいいからね」


「急いだら、足がもつれるよ」


「ほら、息も吐いて」


「吸ってからね」


「吐いて、吸って、ね」


「うちの孫もよくこれで落ち着くんさ」


「孫はまだ三つだろ」


「同じこったよ。怖いときは、息からだ」


 別の老人が、杖を地面につきながら頷いた。


「足、震えてんね」


「すみません」


「謝るな」


「……はい」


「震えるのは普通だ。震えねぇやつぁ、感覚がないだけだ」


 ハンスさんが、鍬の柄を地面に立てて、それに肘を乗せた。


「凛ちゃん」


「……はい」


「俺らはここにいる」


「……はい」


「前には出ねぇ。出ねぇけど、いる」


「……はい」


「使者が剣抜いたら、別だ。そんときは俺らが出る」


「……はい」


「だから、安心して怖がんな」


「安心して……怖がる、ですか」


「そう」


「矛盾してます」


「矛盾しててもいいんだよ」


「……」


「人間ってのは、矛盾してる方が、ちゃんと生きてるんだ」


 矛盾した言葉なのに、私の足の力が、わずかに戻った。


 使者が、私を見つけた。


「聖女リーネ」


 その呼び名だけで、身体が一瞬、昔の形に戻りそうになる。背筋が伸びる。口角が上がる。頷こうとして——。


 止まった。


 隣に、レオンがいた。


 剣に手をかけるでもなく、ただ立っている。立ち方だけで、空気が違う。


「……凛」


 レオンが、短く私の名前を呼んだ。


「ここにいる」


 それだけ。


 それだけで、私の足は、今の地面に縫い留められた。


 使者は、巻物を広げた。


「正式な令状である。聖女リーネは、直ちに王都ルミエールへ出頭せよ。王太子セドリック殿下の御前へ、引き出されよ」


「……」


「拒めば反逆。隠匿した者は、村ぐるみで処罰の対象となる」


「ふん、また処罰か」


「お得意の言葉だねぇ」


「俺らの村、何度処罰されても、まだ残ってるぞ」


「税が重くなっただけだろ、いつも」


「黙れ、平民」


「平民で結構」


「貴族さんの言葉、ありがたく聞いとくよ」


「ほんと、ありがたくてねぇ」


 処罰。


 その言葉が、村人たちの息を一瞬、揺らした。


 私の胸の中で、「戻らなきゃ」が暴れた。


 ほら、言ったでしょう。私が従わないと、誰かが——。


 唇を噛んだ。噛まないと、勝手に「はい」が口から出る。


 でも。


 昨夜、レオンは言った。「決めろ」と。


 エルザさんは、今朝、言った。「両方怖いのは考えてる証拠」と。


 ハンスさんは、今、言った。「安心して怖がれ」と。


 誰も、私を動かさなかった。


 動くなら、私の足で。


 私は、一歩、前へ出た。


 膝が笑う。足首がぐらつく。指先が氷みたいに冷える。


 それでも、前へ。


「……私が、お答えします」


 声が震えた。情けない震え方だった。聖女様の声じゃない。


 でも、これが、今の私の声だ。


 使者が眉をひそめた。


「当然だ。聖女は国に帰る。分かっているだろう」


「……いいえ」


 言った。


 たった三文字。それだけのことなのに、喉が痛んだ。


 使者の眉が、ぐっと上がった。


「いいえ、だと?」


「はい」


「『はい』『いいえ』のどちらだ。はっきりしろ」


「……いいえ、と申し上げました」


「ふざけるな」


 使者が一歩、踏み込んだ。


 その一歩で、私の心臓が跳ねた。


 跳ねたけれど、私の足は動かなかった。


 レオンが、私の半歩横で、わずかに肩を入れた。それだけ。剣を抜かない。声も上げない。


 ただ、入った肩の角度が、使者の足を止めた。


「……アッシュフォード」


「凛が話している」


 レオンの声は、低くて平らだった。


「最後まで、聞け」


 四文字。


 使者の喉が、小さく動いた。


 私は息を吸った。胸が痛い。胃がきしむ。


 それでも、続けた。


「私は、凛と申します」


「リーネだろう」


「凛、です」


「同じだ」


「違います」


「同じだと言っている」


「リーネは、神殿が私につけた名前です」


「だから、お前は聖女リーネだ」


「いいえ」


「いいえ、ばかり言うな!」


 使者の声が、初めて高くなった。


 私は、もう一度、息を吸った。


 言葉を、整える。十二年分の鎖を、一本ずつ、外していくように。


「私は、お断りします」


 言った。


「王都には、戻りません」


 言った。


「私はもう、あなたたちの道具じゃありません」


 言ってしまった。


 言葉が、空気を切って落ちた。


 その瞬間。


 世界が終わると思った。


 怒鳴られる。殴られる。村が焼かれる。レオンが連れていかれる。


 いくつもの想像が、頭の中を駆けた。


 でも。


 起きなかった。


 起きたのは、使者の顔が固まることだけだった。


「……は?」


「お断りします、と申し上げました」


「お前——」


「同じ言葉、二度言わせないでください」


「貴様」


「貴様、では呼ばないでください」


「では何と呼べと」


「凛、です」


「ふざけるな」


「ふざけていません」


 使者の顔色が、白くなった。次に、赤くなった。


「正気か。聖女が国の命を拒むなど——」


「正気です」


「正気の人間が言う言葉ではない」


「正気だから、言えるんです」


「殿下の慈悲だぞ? お前ごときが——」


「慈悲ではありません」


「なんだと」


「慈悲なら、断れます」


「断れぬから命令だ」


「断れないものは、慈悲じゃありません」


「屁理屈を——」


「屁理屈ではありません。言葉の意味の話です」


 言いながら、私は自分の口に驚いていた。


 こんな言葉、どこから出てきたのだろう。


 ずっと、胸の奥にあった。


 ずっと、ずっと、言えなかった。


 使者は、唇を噛んだ。


 巻物を握る指が、わずかに震えた。


「……アッシュフォード。貴様もだ。騎士が、命令に逆らうのか」


 使者は、矛先をレオンに向けた。


 レオンは、返事をしなかった。


 ただ、私の隣に、もう半歩、並んだ。


 それだけで、空気が変わった。剣を抜かないのに、抜いたみたいに。


 レオンの視線が、使者を刺した。


「……俺はここにいる」


 低く、短く、それだけ。


 でも、私は、泣きそうになった。


 “俺がいる”じゃなかった。


 “俺はここにいる”だった。


 昨日エルザさんが言った言葉と、同じ形。同じリズム。


 ここにいる、と、ふたりとも言ってくれた。


 私の足が、地面に根を張った気がした。


 使者の喉が動いた。


「……村ごと、処罰されても、いいのだな」


 脅し。


 昨日なら、その言葉で私は崩れた。


 今日も、崩れかけた。


 でも。


 私は、後ろを見た。


 村人たちは、ただ立っていた。顔は怖い。でも、押しつけない。


 エルザさんが、うん、と小さく頷いた。


 その頷きが、言葉に見えた。


 “凛ちゃんが決めな”。


「……罰は、あなたたちが決めるんですか」


 私は、使者に向き直った。


「罰を与える側の言葉で、私を動かさないでください」


「な——」


「動かしたいなら、剣で動かしてください。言葉では、もう動きません」


 言った。


 言えた。


 使者は、私を見た。村人を見た。レオンを見た。


「……お前ら、後悔するぞ」


「後悔は、こっちの仕事だ」


「ああ、後悔ぐらい慣れてるよ」


「後悔して生きるのが、平民さね」


「……」


 計算する目。昨日と同じ目。


 でも、昨日と違うのは——私が、逃げていない。


「……今日のところは、退く」


 使者の声が、低く落ちた。


「だが、次は違う」


「……」


「王都は、黙ってはいない。聖女を国に戻す。必ずだ」


 言い捨てて、使者はきびすを返した。騎士たちが、慌てて従う。馬車が軋み、ひづめの音が広場から遠ざかる。


 本当に。


 退いた。


 世界は、壊れなかった。


 私は、足の力が抜けて、その場で膝をつきそうになった。


 レオンの手が、私の背中に触れた。


 触れて、支える。


 強く掴まない。私が倒れない分だけ。


 その温度で、ようやく息ができた。


「……言えました」


 自分の声が、かすれていた。


 言えた。


 たった一言のことなのに、十二年分の鎖が、一本ずつ外れていく気がした。


 涙が落ちた。


 悔しい涙じゃない。怖い涙でもない。


 “自分で選んだ”ことが、胸の奥に落ちてくる涙だった。


 エルザさんが、私の前まで来て、そっと肩を抱いた。


「よく言ったよ、凛ちゃん」


「……はい」


「あんた、自分の声で、ちゃんと『いいえ』って言ったね」


「……はい」


「『大丈夫です』じゃなかったね」


 その一言で、私はもう一度、泣いた。


 昨日エルザさんに言われたわけじゃない。レオンが言ったわけでもない。


 私の口から、出なかった。


 「大丈夫です」が、今日は、出なかった。


 いつもなら、咄嗟に出る言葉。神殿で、十二年、私を縛り続けた言葉。


 その言葉が、今日は、私を素通りした。


 代わりに出たのは、「お断りします」だった。


「……大丈夫って、嘘、つかなくて、よかった」


 私は、絞り出した。


 エルザさんは、頷いた。


「うん。嘘つくな、って、昨日レオンに言われたんだろ」


「……はい」


「ちゃんと、覚えてたねぇ」


「……はい」


 覚えていた。


 レオンの「もう大丈夫って嘘つくな」が、私の中で、ずっと鳴っていた。


 あの言葉がなかったら、今日の私は、また「はい、戻ります」と笑っていた。


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、私の隣に、まだ立っていた。


 その沈黙が、いちばん優しかった。


 ◇


 村の外れ。


 使者は、馬を急がせながら、何度も後ろを振り返った。


 あり得ない。


 聖女が、拒むなど。


 しかも、あの目。あの声。


「……王都に、報告だ」


 かすれた声で呟き、使者は胸元の封蝋に指を当てた。


 次は、令状だけでは済まない。


 王太子が動く。大神殿が動く。


 “聖女を取り戻す”ために、本気の鎖を持ってくる。


 蹄の音が、雪のない道を切り裂いていった。


 ◇


 夜。


 エルザさんの家の台所で、私はもう一度、カップを両手で抱えていた。


 昼間と同じ姿勢。同じスープ。同じ湯気。


 違うのは、私の指先が、もう冷たくないことだった。


 握っていた拳が、いつの間にかほどけていた。指の一本一本が、自分のものだと、ようやく分かる。


 戸口で、レオンが立ち止まった。


 外を見回ってきたらしい。肩に、夜の冷気が乗っている。


「……戻った」


「うん」


 エルザさんが、もう一つカップを出した。


「あんたも飲みな、レオン」


「……いただく」


「冷えただろ」


「指の感覚が、戻らんな」


「火、近くに寄りな」


「ここで十分だ」


「外、雪降ってきたかい」


「まだだ。雲は重いがな」


「明日には降るね」


「ああ、降る」


 レオンは、椅子に腰を下ろした。私の斜め前。手を伸ばせば届く距離。届かないまま、置いておかれる距離。


 その距離が、ありがたい。


 私は、カップの縁を見た。


 昼間、私はこの縁に指をかけて、震えていた。今は、震えていない。


 でも、安心はしていない。


 使者の最後の言葉が、まだ耳の奥にある。


「次は違う」と、彼は言った。


 次は、令状ではなく、剣を持ってくるかもしれない。


 大神殿の人が、来るかもしれない。あの大神官の声が、また、私の名前を踏むかもしれない。


「……怖いです」


 言葉が、また勝手に出た。


「うん」


 エルザさんは、頷いた。


「うん」


 レオンも、同じ音で頷いた。


 二人の「うん」が、台所の湯気の中で重なった。


 私は、息を吐いた。


「でも」


「うん」


「言えた、ってこと、忘れたくないです」


「うん」


「言えたから、次も、言える、って」


「……あぁ」


 レオンが、そこで初めて、口を挟んだ。


「凛」


「……はい」


「言えたんだ」


「……はい」


「だから、もう、戻らんでいい」


 短い。


 でも、その短さに、私の十二年が、ほどけていく音がした。


 涙が、また落ちた。


 今度の涙は、悲しくも、嬉しくもなかった。


 ただ、温かかった。


 カップの中の湯気が、私の鼻先で揺れていた。


 窓の外で、犬が一度、低く吠えた。


 いつもの、村の音だった。


 その音の中に、まだ、王都の足音は混じっていなかった。


 でも、いつか、混じる日が来る。


 そのときも、私は、自分の口で言う。


「お断りします」と。


 カップの中で、湯気が、もう一度、ゆっくり、形を変えた。



第9話「私の口で言います」をお読みいただきありがとうございます。


 凛が、ついに自分の口で「お断りします」と言いました。


 第8話では、村人とレオンが代わりに「うちの子だ」と言ってくれました。第9話では、凛が、自分の足で前に出て、自分の声で「いいえ」と言いました。誰の代弁でもない、震える「いいえ」です。


 書きながら気にしていたのは、「大丈夫です」を凛に言わせない、ということでした。十二年、彼女を縛り続けた言葉が、今日は、彼女を素通りする。それだけで、第9話の役目は半分果たせたと思っています。


 もう一つは、レオンの「俺はここにいる」です。第8話でエルザさんが言った「凛ちゃんは、ここにいるよ」と同じ形・同じリズムにしました。凛にとっては、二人から同じ言葉をもらった、ということになります。彼女の足が地面に根を張るには、それくらいの厚みが要った気がします。


 でも、使者は最後に「次は違う」と言い残しました。次に来るのは令状ではなく、もっと重いものです。王太子セドリックが、大神殿が、本気の鎖を持って動き始めます。


 次話、第10話「王都、揺れる」。視点は王都に移ります。聖女が拒んだという報せに、王太子の宮廷が、大神殿が、それぞれの思惑で動き出します。凛の見えないところで、世界が回り始めます。どうぞ、見届けてください。


 お読みくださり、本当にありがとうございました。

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