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第10話: 王太子の焦燥

 断られた——。


 側近の声が執務室の空気を切った。


 ペン先が止まる。


 黒いインクが紙の上で小さく滲んだ。


「……今、何と言った?」


 僕の声は、自分でも驚くほど低かった。


 側近は一礼したまま、言葉を繰り返す。


「使者より、帰還報告です。聖女リーネ殿は、王都への帰還要請を——拒否されました」


 拒否。


 拒否だと。


 僕は椅子の背に身体を預け、指先で机を叩いた。


 木の響きがやけに大きい。


「断られた、ね。……理解できない」


 たしかに拒否と言った。


 けれどそれは言葉の選び方の問題ではないか。


 使者が余計な感情を挟んだのではないか。


「彼女は状況を理解していないんだろう。国の宝が外に出ていいはずがない」


 側近は視線を上げずに答える。


「使者は丁重に伝えたとのことです。殿下のご意向。神殿の事情。王都の混乱。すべて」


 丁重に。


 それでも拒否。


 胸の奥で何かが小さく軋んだ。


 軋みはすぐに理屈で塗り潰せるはずなのに妙に残る。


「返答は」


「『私はもう、戻りません』と。……さらに、『私はもう、あなたの道具じゃありません』と」


 言葉が耳に刺さった。


 道具。


 彼女は自分をそんなふうに思っていたのか。


 いや違う。


 彼女は混乱しているだけだ。


 彼女の役目は彼女自身よりも重い。


「言い方の問題だね。感情的になっているだけだ。……すぐに説得の第二便を」


 言い終える前に側近がわずかに息を吸った。


 躊躇。


 だが、それも許容してやる。いまは。


「殿下。説得では、難しいかと」


「難しい。どうして」


 側近はようやく顔を上げた。


 その目は報告書の数字を見るときの目だった。


 人の心ではなく欠損を数える目。


「使者は……村人に阻まれました。武装した騎士団でさえ、村の総出で」


「村人」


 僕は笑いかけて失敗した。


 口元が引きつる。


「辺境の二百人程度の村人が。王国騎士団を」


 冗談だろう。


「はい。使者は撤退を余儀なくされました。令状を携えた正式な部隊編成が必要です」


 馬鹿げている。


 けれど報告は淡々と積み上がる。


 馬鹿げているほど現実の形をしている。


「……令状を、書け」


「は」


「いや。待て」


 僕は机上の書類に視線を落とした。


 治癒依頼の山。


 各領からの嘆願。


 貴族院からの圧力。


 そして、三日後に迫った「隣国との会談」の予定表。


「……時間がない」


 側近が頷く。


「はい。ゆえに、代替案を進めております」




 代替案。


 その響きは本来、安心のはずだった。


 僕は最初から理解していた。


 聖女はひとりではない。


 制度は連続している。


 “次”は必ず用意されている——そういう仕組みでなければ国家は運用できない。


「候補を出して」


 側近が用意していた別紙を広げる。


 そこには少女たちの名前と経歴が整然と並んでいた。


「第一候補。神殿付属の治癒師見習い。資質は良好。ただし出力は聖女リーネ殿の一割程度です」


「一割」


 僕は眉を寄せた。


 側近は続ける。


「第二候補。地方の修道院より。……聖印せいいんへの反応なし。光は出ますが傷が塞がりません」


「反応なしね」


「第三候補。貴族の家の私生児。資質はあると申告されましたが、測定では——虚偽でした」


 紙の上の言葉が冷たい。


 数字と同じだ。


 嘘をつかない。


 ただ僕の予定だけを破壊する。


「……待ってくれ。聖女というのはそんなものなのか。神殿は何年も何十年も制度を回してきたはずだ」


 側近の返答は短い。


「はい。しかしここ数年は聖女リーネ殿の出力が突出しており、他の育成が……停滞していたと」


 停滞。


 それはつまり僕の政治計算が“ひとり”に依存していたということだ。


「神殿は何をしていた」


 言葉が強くなる。


 側近は怯まない。


 怯む必要がない立場の者だけが持つ冷静さだ。


「殿下もご存じの通り、神殿は『効率』を重んじます。出力の高い資源があるならそこへ集中させる」


 資源。


 頭の中で同じ語が反響する。


 資源は管理される。


 管理されている限り離反しない。


 ふと声が漏れた。


「……彼女は管理されていた。神殿で。王城で。僕の言葉で」


 そうだ。


 彼女は僕の求めに、はい、と答えてきた。


 疲れていても青白くても。


 倒れそうでも。


 それが役目だから、と。


 だから拒否などありえない——はずだった。


「候補者の試験は続行して。結果が悪いなら神具を使え。儀式を増やせ。何でもいい」


「殿下。神具の使用には代償が——」


「代償。今さら何を言う。国のためだろう」


 言い放ってから胸の奥がまた軋んだ。


 代償という言葉が唐突に“誰かの身体”を連れてくる。


 僕はそれを追い払うように机を指で鳴らした。


「報告を続けて」


 側近は頷き、淡々と新しい紙を差し出した。


「貴族院より。『治癒の停滞により冬季の疫病が広がる恐れ』。商会より。『街道の負傷者が増え物流が停滞』」


 紙の束は重くない。


 なのに机が沈む錯覚がある。


「大神官は」


「『聖女は巡礼中』という発表を維持しております。民の前では沈着ですが内部は混乱しております」


 混乱。


 神殿が混乱するなど許されない。


 許されないというより——利用できない。


 僕は立ち上がり、窓辺へ歩いた。


 王都ルミエールの屋根が冬の光に鈍く光っている。


 あの街は彼女の光で保ってきた。


 僕はその光を“持っている”と思っていた。


 持っている、と。


 その語が喉に引っかかる。


 答えはまだ出さない。


 出したら何かが崩れる気がした。




 午後、外交部からの使者が来た。


 執務室は、今日は人が途切れない。


 誰もが「殿下」と言いながら、僕の時間を奪っていく。


「隣国の使節団が、明後日に到着します」


 外交官の声は、丁寧だ。


 だが、その丁寧さが危険信号でもある。


 丁寧な者ほど、内心で最悪を数えている。


「予定通りだね」


 僕は、笑顔を作った。


 作れる。


 僕はそういう訓練を、受けている。


「問題は、会談の“演出”です。隣国は、今年の国境紛争で負傷者を抱えております。彼らは治癒魔法ちゆまほうの提供を条件に、鉱山の利権を——」


 要するに、こうだ。


 聖女の力を見せれば、交渉は優位に進む。


 見せられなければ、こちらの弱みを嗅がれる。


「聖女の同席は」


 外交官は一瞬だけ、言葉を選んだ。


 選ぶ時間があるのが、逆に答えだ。


「……現状では、確約できません」


 胃が、きり、と鳴った気がした。


 胃が鳴るなど、子どもみたいだ。


 けれど、身体は正直だ。


 盤面が崩れる音を、先に聞いている。


「確約できない、では困る。聖女は国の象徴だ。国境の問題は、聖光神教の加護を示せば——」


「隣国は、聖光神教を国教としておりません。ゆえに、彼らは『加護』を信じません」


 外交官は淡々と言う。


 そして淡々と、致命的な一文を足した。


「信じるのは、力です。目の前で、腕が再生するほどの力」


 リーネの光。


 あの、誰もが息を呑むほどの白さ。


 治癒の瞬間に、貴族たちが“涙を流すふり”をする、あの場面。


 僕はいつも、その反応を当然のものとして見ていた。


 聖女がいるから、彼らは頭を垂れる。


 聖女がいるから、僕の言葉に重みが乗る。


 ——聖女が、いないなら。


 想像しただけで、背中が冷える。


 それは恐怖ではなく、権威の欠損だ。


 僕の手元から、最も便利な札が抜け落ちた状態。


「代替の演出を準備して。神官の祈祷でも、聖具でも」


「殿下。隣国は、我が国の噂をすでに掴み始めております。『聖女が王都を離れた』と」


 噂。


 嗅ぎつけられた。


 大神官の言葉が、脳裏をよぎる。


 隣国が嗅ぎつける、と。


 僕は机の端を、指で掴んだ。


 力が入る。


 木が、軋む。


「……噂は潰せ」


「はい。しかし、治癒が止まれば止まるほど、民の口は塞げません。病人は増えます。葬列は隠せません」


 葬列。


 その単語は、僕の耳に馴染まない。


 王城の窓から見る王都は、常に整然としているべきだ。


 そこに、死の列が続くなど。


「殿下。会談は、聖女の同席が前提で組まれております。彼らが求めるのは条文ではなく、即時の“治癒提供”です」


 僕は外交官を退室させた。


 必要な言葉は、すべて受け取った。


 これ以上聞けば、僕の中で“計算”が追いつかなくなる。




 扉が閉まったあと、執務室に残ったのは側近だけだった。


 そこへ、もう一人の足音が混じる。


 硬く、ゆっくりとした、神殿の長靴の音。


「殿下」


 大神官ヴェルナーが、入ってきた。


 白い祭服。


 穏やかな目元。


 その目元の奥に、薄く曇った濁りが沈んでいる。


「ヴェルナー。聖女の件は」


「神殿としても、最善を尽くしております」


 大神官は、ゆっくりと頭を垂れる。


 頭を垂れることそのものが、彼の防御だ。


「……だが、結果が出ていない」


「殿下。元はと言えば、聖女リーネ殿の処遇は、王宮のご判断でございました」


 来た。


 責任の押し付け。


 予想はしていた。


 予想はしていたが、こうも早いとは。


「神殿が、彼女を磨り減らしたんだろう」


「神殿は、与えられた資源を、運用したまでです」


 資源。


 また、その言葉だ。


 僕の口からも、彼の口からも、同じ語が出る。


 同じ語で人をくくった者同士は、結局、責任を譲り合うしかない。


「ヴェルナー。今、責任の話をしている場合ではない」


「ええ。ですから私は、神具の使用許可を、殿下に求めております」


 神具。


 代償を伴う、最後の札。


「許可するよ。ただし、結果を出せ」


「結果は、神の御心にございます」


 神の御心。


 便利な言葉だ。


 失敗したときに、人間が責任を逃れるための言葉。


 僕も、同じ言葉を使ってきた。


 “国家のため”という名前で。


「下がっていい」


 大神官は、再び頭を垂れて、出ていった。


 扉が閉まる。


 長靴の音が、廊下の奥へ消える。


 残ったのは、煮詰まった空気と、白い書類と、僕の手のひらの汗。




 夜。


 候補の聖女との接見が組まれた。


 聖具室。


 壁には聖光神教の紋章。


 中央に、聖鈴せいれい——治癒の儀式に用いる、銀の鈴。


 扉が開き、一人の少女が入ってきた。


 第一候補。


 神殿付属の、治癒師見習い。


 歳は、十六か。


 顔色は青く、首筋に細い汗が浮いている。


「殿下に、ご挨拶申し上げ……ます」


 声が、震えている。


 脚が、震えている。


 彼女が緊張するのは当然だ。


 けれど、それ以上に——彼女は、ここに立つ資格を、自分で疑っている。


「楽にして。試験を始める」


 僕は、できる限り柔らかい声を出した。


 訓練のたまものだ。


 少女はぎこちなく一礼し、聖鈴の前に立った。


 深呼吸。


 もう一度。


 そして、鈴に手をかざす。


 淡い、淡い光が、指先に灯った。


 光は、ある。


 ある。


 だが、それだけだ。


 鈴は、鳴らない。


 神殿付属の、十六の少女。


 手のひらの光は、薪の燃えさしのよう。


 あの白い、息を呑むほどの光ではない。


 少女が泣きそうな顔で、僕を見た。


「……申し訳、ありません」


「いや。続けて」


 僕は声を変えない。


 変えれば、少女が崩れる。


 少女は、もう一度手をかざす。


 光は、ほんの少しだけ強くなり——そして、すぐに途切れた。


 彼女の指先から、力が抜ける。


「殿下。これが、限界かと」


 神官のひとりが、横から告げた。


 限界。


 その語が、僕の頭の中に重く落ちる。


「下がりなさい」


「は……はい」


「君のせいではない」


 僕は少女に告げた。


 彼女は、深く頭を下げて、出ていった。


 扉が閉まる音が、聖具室の天井に吸い込まれる。


 残された僕の前で、聖鈴は静かに、銀の輪を保ったまま、鳴らなかった。


 鈴は、待っている。


 誰かの白い光が、また、戻ってくる日を。




 執務室に戻ったとき、夜はもう深くなっていた。


 側近が、静かに立っている。


「殿下」


「分かっている。……分かっているよ」


 僕は笑顔を作ろうとして、作れなかった。


 喉の奥が、乾く。


 胸の奥が、ざらつく。


「彼女は、戻る。戻させる。令状を出せばいい。騎士団を出せばいい。村人など——」


 言葉が、途中で切れた。


 側近が、こちらを見ている。


 その視線が、僕の焦りを“報告対象”として測っている。


 僕は息を整える。


 王太子は、取り乱してはならない。


 取り乱せば、周囲がもっと混乱する。


 混乱は、権威を削る。


 ——それでも。


「……なぜ、彼女は拒否した」


 側近が、静かに答えた。


「殿下。聖女も、人です」


 その一言が、僕の頭の中の前提を揺らした。


 人。


 人だ。


 分かっている。


 分かっている、はずだ。


 彼女は笑う。


 泣く。


 倒れる。


 震える。


 それでも僕は、最後に“人”として扱っただろうか。


 僕は机の引き出しを開け、薄い箱を取り出した。


 婚約の印として用意させた、指輪。


 贈ったとき、彼女は「ありがとうございます」と言った。


 目は、どこか遠かった。


 僕はそれを、恥ずかしいとは思わなかった。


 “役目”だから、受け取ったのだと理解していた。


 理解していた、つもりだった。


 指輪の冷たさが、指先に染みる。


 冷たいのは、金属だけではない。


 僕の計算も、僕の言葉も。


 側近が、小さく言う。


「殿下。会談まで、残り二日です」


「分かっている」


「……」


「分かっている」


 二日。


 たった二日で、国の札を取り戻せるのか。


 村人を排除して、聖女を連れ戻して、神殿を再稼働させて、隣国に“力”を見せる。


 そんな芸当が、できると本気で思っているのか。


 僕は思っている、と言いかけて、飲み込んだ。


 喉の奥で、別の言葉が膨らむ。


 リーネ。


 彼女の名だけが、なぜか、重い。


 いつもは便利な呼称のはずなのに。


 僕は指輪を箱に戻し、蓋を閉めた。


 閉めた瞬間、音が、やけに大きく響いた。


「……リーネは、僕のものだ」


 そう言い切れば、落ち着くはずだった。


 いつものように。


 なのに、胸の軋みは消えない。


 むしろ、細い亀裂が広がっていく。


 僕の唇から、堪えきれずに漏れた言葉は、命令ではなかった。


 計算でも、なかった。


「リーネ。……君がいないと、僕は」


 その先は、口にできなかった。


 扉の外で、夜風が窓を叩く。


 風は答えない。


 窓辺の卓には、空のグラス。


 その横に、銀の聖鈴の予備——音を立てないまま、夜の闇に沈んでいる。


 鈴は、鳴らない。


 今夜も。


 明日も。


 白い光が戻らない限り。



王太子セドリック視点回でした。彼は「悪人」ではなく「人の心がわからない人」——という設定を、地の文の語彙そのもので表現してみました。「資源」「運用」「札」「演出」「機能」。彼が無意識に使うこれらの言葉が、彼の人間としての歪みを物語っています。


それでも、彼の中にも亀裂は走っています。「持っている、と思っていた?」——その問いを、彼はまだ最後まで言葉にできない。胸の軋みを、計算で塗り潰そうとして、塗り潰しきれない。


この亀裂が、ざまぁ第二波の入り口です。


凛が「私の口で言います」と言った瞬間、王都の聖鈴は鳴らなくなりました。物理的にではなく、構造として。便利な札を一枚失った王太子は、これから次々と、自分が「持っていた」と思っていたものが、実は「貸与されていただけ」だと知ることになります。


次回、舞台は再び辺境へ。凛が、自分の意思で動き始めます。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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