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第11話: 庭の小さな花壇

 頼まれてもいないのに、私の手は土を掘っていた。


 爪の先に黒い線。指の腹にひんやりと冬越しの土。

 怖いはずなのに胸の奥がくすぐったい。




 その朝、エルザさんは台所で芋を剥いていた。


「凛ちゃん、今日もええ天気だねえ」


「……はい」


「庭、見といで」


「えっ」


「あんたの足の向くほうへ、好きに」


「いいんですか」


「土に許しを取るのは、土だけだよ」


「……あの、何かお手伝いを」


「いらん。芋しか剥かないからね、今日は」


「……はい」


「凛ちゃん」


「はい」


「〝はい〟が、まだ多いねえ」


 エルザさんはしわだらけの手で芋の皮を一筋に剥いていく。

 目は皮に落ちたままだった。


「……すみません」


「謝らんでええ。今日は、ぼうっとしておいで」


「……はい」


「ほら、また」


「あ……」


「ふふ。ま、ええよ。行っといで」


「行ってきます」


「ゆーっくり」


 〝ゆっくり〟。神殿では聞いたことのない言葉だった。




 裏庭は思っていたより広かった。

 雑草交じりの地面に踏み固められた細い小道。低い果樹が何本か。奥のほうからちょろちょろと小川の音。


 私はいつものように歩幅を小さくして庭の端へ端へと歩いた。


 けれど足が止まったのは低いかきの向こうだった。


 整然と並んだ緑。野菜でも花でもない。少し尖った葉、丸い葉、銀色がかった葉。

 土の匂いに混じって——私の記憶がひりとうずいた。


「……カモミール?」


 口から出た言葉に私自身が驚いた。


 前の人生で夜勤の休憩室に置いてあったティーバッグ。眠れない子の枕元にこっそり置いた香り。


 私は垣を回って薬草畑へ足を踏み入れた。


 〝土に許しを取るのは土だけ〟。


 しゃがむと土の色が濃かった。冬を越えた株。その間に小さな芽。


 指先が勝手に動いた。


「ラベンダー……鎮静、安眠」


「カレンデュラ……傷、軟膏なんこう


「ミント……胃、吐き気」


 声に出していた。確かめるみたいに。


 知っている。覚えている。

 でも今、胸の奥で跳ねるのは〝役に立てる〟じゃない。

 ただ懐かしい。嬉しい。


 畑の端に空いた場所があった。土だけが広がっている。


 そこを見た瞬間に頭の中へひとつの形が浮かんだ。


「……作りたい」


 また声が出ていた。

 誰に言ったのでもない。土に言ったのかもしれない。


 円。小さな円。

 真ん中に低い花。周りを薬草で囲って香りで守るみたいに。


 気がつけば両手が土を掘りはじめていた。

 スコップなんてなくてもいい。指で。爪で。


 息は白い。なのに頬は熱い。




 背後で足音がした。

 重いのに静かな歩幅。土を踏んでも音が暴れない。


 レオンだ。


「……何をしてる」


「あ……」


「これ」


花壇かだん、です」


「花壇」


「……作りたくて」


「ふうん」


 レオンは私の横にしゃがんで手袋を外した。

 無言で土の中の石を拾いはじめる。

 大きいものだけ。脇へ置く。


「……あの、いいんですか」


「何が」


「勝手に、土を……」


「あんたの庭でもないし、俺の庭でもない」


「でも」


「婆さんは、放っとけって言うほうだ」


「……エルザさん?」


「ああ」


「さっき、〝好きに見といで〟って」


「いつもだ」


「あの、本当に……」


「凛」


「えっ」


「あの婆さんが〝好きに〟って言ったら、本当に〝好きに〟だ。気にするな」


「……はい」


 名前を呼ばれたと後から気づいた。

 〝あんた〟ではなく〝凛〟と。

 胸の奥がこっそりひとつ跳ねた。


「……薬草の、匂いが」


「うん」


「カモミール、ラベンダー、ミント……名前が、思い出せて」


「分かる」


「分かるんですか」


「落ち着く匂いだ」


「……はい」


「あんた、詳しいのか」


「……少しだけ。前に、勉強したことが」


「ふうん」


 レオンはそれ以上聞かなかった。

 代わりに次の石を拾った。


「……教えてくれるか」


「えっ」


「どれが、何に効くのか」


「……教える、んですか」


「教えてほしい」


 〝教えろ〟ではなくて〝教えてほしい〟。

 頼まれている。命令ではなくお願い。


「……これは、ラベンダーに似てます。眠れない夜に、枕元に置くと、楽になります」


「ふうん」


「こっちは、カレンデュラ。傷を洗ったあとに塗る軟膏に」


「軟膏」


「はい。油と混ぜて、薄く伸ばして」


「ふうん」


「あ、こっちはミントで、胃が重いときに」


「胃」


「お湯に葉を浮かべて、飲んだり」


「ふうん」


「……あの、〝ふうん〟ばかり、ですね」


「悪いか」


「いえ、その」


「覚えてる。あとで、繰り返す」


「えっ」


「ラベンダー、枕元。カレンデュラ、軟膏。ミント、胃」


「……はい」


「合ってるか」


「合ってます」


 その確認の仕方がなんだか可笑おかしかった。


 レオンが土のついた指でラベンダーの葉先にそっと触れた。

 大きな手だった。剣を握る手だ。

 その手が葉を折らないようにぎりぎりの力で触れている。


「……あんたが触ると、葉が起きるな」


「えっ」


「俺が触ると、寝るのに」


「……それ、冗談ですか」


「半分」


「半分」


「半分は、本当だ」


「……ふふ」


 こらえきれずに息が漏れた。


「笑った」


「……すみません」


「謝るな」


「は、はい」


「いい音だ」


 短くそう言ってレオンは次の石を拾った。




 私は薬草の苗をそっと掘り起こして空いた場所の外側へ移した。

 根が細い。切らないように土ごと両手で抱える。


「中心に、何を置く」


「白い、花」


 私は畑の隅の名前を知らない白い花を指した。


「あれを」


「持ってくる」


 レオンが立ち上がって白い花のところまで歩いていく。

 苗を踏まないように歩幅を変えているのが分かる。


「ほら」


「……ありがとうございます」


「根が、崩れてない」


「すごい、ですね」


「畑仕事は、ガキの頃にやらされた」


「エルザさんに?」


「婆さんに」


「同じことを、二回」


「同じだからだ」


 今度はもうこらえきれなかった。

 口元からふっと笑い声が漏れた。


「また笑った」


「……すみません」


「謝るな、って」


「あ……はい」


「凛」


「はい」


「謝るのは、踏んだときだけにしろ」


「……踏んだとき」


「足、苗、人」


「はい」


「笑ったときは、いらない」


「……はい」


 手のひらの中で苗の根が土の重さで沈んだ。


 輪の中心に穴を掘る。

 土の中は少し冷たくて湿っていて生きている。

 苗を置き土を寄せる。手のひらでそっと押さえる。


 ——その瞬間、治癒ちゆ魔法まほうが指先に集まった。


 いつもなら誰かの傷口に向けて流れる光。

 今は根に向かってあたたかく染みていく。


 違う。

 これは命令じゃない。誰かを救うためじゃない。

 私がこの苗をここに根づかせたいから。


 光は淡くすぐ消えた。

 それで十分だとなぜか思えた。


 レオンがふっと息を吐いた。


「……いい光だ」


「いい?」


「あんたの治癒は、いつも、誰かの痛みの色をしてた」


「……痛みの色」


「赤と、青と、銀の」


「……」


「今のは、違う色だ」


「違う、色」


「土の色だ」


「……土」


「茶色と、緑と、白の」


 レオンはまた石を一つ脇へ置いた。


「いい色だ」


 灰青の目がまっすぐ花壇に向いていた。


 褒められたというより——私の手がここにあっていいと言われた気がした。


 手のひらの土を軽く払う。

 爪の間に黒い線が残った。


 神殿ならすぐに叱られた。〝聖女様の手が汚れる〟と。


 でも今、汚れが誇らしい。


「……楽しい」


「うん」


「楽しい、です」


「うん」


「……言って、いいんですか」


「他に、何を言う」


「えっ」


「楽しいときに、楽しい、で、何が悪い」


「……」


「楽しい、で、いい」


 その短い言葉が胸の奥の固いところをほどいた。


 私はもう一度花壇を見た。

 小さな円。中心の白。周りの緑。

 まだ整っていない。雑でいびつで土もこぼれている。


 でも——私が作った。

 頼まれたわけじゃないのに。


「これ、頼まれたわけじゃないのに、楽しい」


「うん」


「変、ですか」


「変じゃない」


「……はい」


「変、なのは、楽しくないのに、ずっと笑ってるほうだ」


「……」


 言葉が出なかった。

 神殿で私がずっとやってきたことそのものだった。


 レオンは私を見ていない。

 石をまた一つ脇へ置いていた。


 見ていないからこそその言葉はまっすぐ届いた。




 花壇を仕上げる間、私たちはほとんど話さなかった。


 時々レオンが石を脇へ置く音。私が苗を植える土の小さく崩れる音。風が枝を揺らす音。


 でも沈黙ちんもく大神殿だいしんでんのそれとは違った。

 縛る沈黙じゃない。隣に置かれている沈黙だ。


 水をくときぽとりと土が跳ねた。

 その小さな音が私の心臓のリズムと重なっていく。


 いつの間にか空の色が変わっていた。


 夕暮れ。

 金色が庭の端からにじむ。

 花壇の中心の白い花が最後の光を受けて薄く透けた。


「……綺麗」


「うん」


「綺麗、です」


「うん」


 私は立ち上がって膝の土を払う。

 腕が少し疲れている。でもそれが嬉しい。


「飲め」


 レオンが、自分の水筒を差し出してきた。


「……いいんですか」


「冷えてる、手が」


「あ……」


「飲め」


 受け取ろうとするとレオンは視線を逸らしたままほんの少しだけ距離を詰めた。

 指が触れないぎりぎり。

 触れたら何かが変わると分かっていて変えないようにするぎりぎり。


 水筒はあたたかかった。

 喉を通る白湯さゆが身体の内側にぽっと灯をつける。


「……ありがとう、ございます」


「うん」


「……あの」


「ん」


「手袋」


「いい」


「でも、汚れて」


「明日、また使う」


「明日……」


「明日も、ここに来る」


「……」


「あんたが来るなら」


「……来て、いいんですか」


「あんたが、来たいなら」


「……」


「凛」


「は、はい」


「来たいか」


「……来たい、です」


「うん」


 レオンが短く頷いた。

 肩がわずかに緩むのが分かった。


「うん」


 私ももう一度繰り返した。




 夕日が沈んでいく。

 影が同じ方向へ長く伸びて花壇の縁で重なった。


 花壇の真ん中の白い花はもう光を抱いていなかった。

 代わりに薄い影を自分の周りに広げていた。

 影の中で根が眠るように土に抱かれている。


 風が花の匂いを運ぶ。

 カモミールの甘さとラベンダーの澄んだ匂い。


 遠くでエルザさんが何かを煮ている匂いが風にまじった。


「夕飯だな」


「……はい」


「帰るか」


「はい」


 レオンが置いていた手袋を拾い上げる。

 土の粒が指の間からぱらぱらと落ちた。

 拾った手袋をレオンは自分の腰の帯に挟んだ。明日もすぐ取り出せる場所に。


 私はもう一度花壇を振り返った。


 爪の中の黒い線。

 手袋の上に残った土の粒。

 花壇の縁の小さな影。


 全部、私が今日ここにいた証拠だった。


 その全部を抱えて、私はレオンの背中に並び、台所の灯に向かって歩いた。


「凛ちゃーん」


 エルザさんの声が、遠くから届いた。


「はーい」


 私の返事はいつもの〝はい〟より少しだけ長く伸びた。



第11話、お読みいただきありがとうございました。


 今回は、凛が初めて〝自分のやりたいこと〟を見つける回でした。

 誰かに頼まれたわけじゃない。役に立つわけでもない。それでも、勝手に手が動いてしまう——そういう瞬間が、人にはあると思います。凛にとっては、それが薬草の花壇でした。


 レオンは、相変わらず多くを語りません。けれど、〝あんたが触ると葉が起きるな〟という不器用な冗談や、〝楽しいときに、楽しい、で、何が悪い〟という直球の肯定に、彼なりの精いっぱいの優しさが滲んでいたら嬉しいです。


 手袋を腰に挟んで、明日もすぐ取り出せる場所に置くレオン。

 爪の間の土を、誇らしく感じる凛。

 二人の距離は、まだ指が触れないぎりぎり。けれど、その〝ぎりぎり〟こそが、いちばん甘いところなのかもしれません。


 次話、凛の花壇は、村の人々を少しずつ巻き込んでいきます。

 どうぞ、続きもお付き合いください。


 歩人

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