第12話: あの子を思い出す
「凛ちゃん! ミラが……ミラが倒れたんだ!」
戸を叩く音が、冬の静けさを割った。
私は手にしていた木の器を落としそうになって、両手で抱え直す。胸の奥が、ひゅっと縮む。倒れた。熱。子ども。言葉が繋がるより先に、身体が動こうとして——
止まった。
もし、また。
「お願い、治して。聖女様なら」
神殿の床で何度も聞いた声が耳の内側で蘇る。光を出して命を削って誰かのためにと笑って、倒れても口だけで返事をして。
「——代わりは?」
大神官のあの問いが、まだ私の喉に住んでいる。
「凛ちゃん!」
戸の外の男の声は切実で嘘がない。私の足が一歩前へ出た。けれど膝がふるえた。
戸の影が伸びて、黒い騎士服の肩が見えた。
「……行くのか」
レオンの短い声。責めるでも、急かすでもない。事実を置くみたいな声。
「……」
私は息を吸って頷きかけて——そこで台所の奥からゆっくりと足音がした。
「凛ちゃん」
エルザさんの声は、鍋の湯気みたいに温かかった。
「嫌なら、断っていいんだよ」
「……断っていいの?」
私は鸚鵡みたいに繰り返してしまう。
「いいさ。あんたは、もう聖女様じゃないんだから」
「……でも」
「でも、じゃない」
「人が、倒れてるのに」
「倒れてる人がいたら、必ずあんたが行かなきゃ、なんてことはないんだよ」
「……」
「行きたいなら、行く」
「……」
「行きたくないなら、行かない」
「……それだけ、なんですか」
「それだけさ」
その一言が、私の中の縄をほどいた。
断っていい。
断っていい、のに。
神殿では「できません」は罪で「休みたい」は傲慢だった。前世でも同じだ。代わりはいるのに代わりになってしまう癖だけが、私に残った。
「……行きます」
反射みたいに口から出た言葉に、すぐ喉の奥が冷える。違う。これじゃ——
爪が掌に食い込む。痛みで、今ここに戻る。
「……違います」
声が揺れた。
「……お願いされたからじゃなくて」
戸の向こうの声を待つ人へじゃない。
誰かの命令へじゃない。
自分の胸へ向かって、言った。
「……私が助けたいです」
その瞬間、息が通った。
レオンがほんの少しだけ目を細める。エルザさんは何も言わずに私の背中を一度ぽんと叩いた。
「ほら、行っといで。凛ちゃんが“そうしたい”ならね」
「……はい」
「あと、ね」
エルザさんは戸口で振り向き、付け足した。
「無理だと思ったら、戻っといで。怒らないから」
「……怒らない、んですか」
「怒らないさ」
「途中で、帰っても?」
「いいよ」
「失敗、しても?」
「いいよ」
「ミラちゃんが、もし」
「それは、あんたのせいじゃない」
「……」
「全部、あんたのせいじゃないんだよ。凛ちゃん」
その「怒らないから」と「あんたのせいじゃない」が、なぜか、いちばん効いた。
ミラの家は村の端、薪小屋の隣にあった。
中に入った瞬間、熱と汗と、焦げた薬草の匂いが混ざって鼻を刺す。寝台の上で小さな身体が震えている。頬が赤いのに、唇は乾いて白い。
「お願い、凛ちゃん……! ミラが、朝からずっと……!」
母親が私の手を掴んだ。指先まで冷えていた。
「……見せてください」
反射で出かけた「大丈夫です」を、私は飲み込む。今は、嘘をつかない。
「いつから熱が?」
「夜明け前から。咳が止まらなくて、それで」
「水は、飲めましたか」
「ひと口だけ。すぐ吐いてしまって」
私は寝台の脇に膝をつき、ミラの額に触れた。
熱い。呼吸が浅く、速い。胸の上下が小さく刻まれている。喉がひゅう、と鳴っている。寒気で縮こまった手足。汗で濡れた髪。目は開かない。
私の中で、前世の病室が——
いや、まだだ。今は、目の前の子。
「お母さん、何歳ですか、この子」
「六つに、なったところで」
「六歳……」
私の喉が、きゅっと鳴った。
「咳は、いつから?」
「三日前から、少しずつ」
「色は? 痰は出ましたか」
「黄色っぽいのが、ちょっと」
「夜中、急に熱が上がりましたね」
「どうして、わかるの」
「呼吸の、音で」
「凛ちゃん、治癒を……」
縋る声。
胸の奥が痛む。治せる。光を出せばたぶん熱は引く。けれどその代わりに私が削れる。それだけじゃない——魔法は“全部”を奪ってしまう。家族が自分たちで守る力を持つ機会を。
私は首を横に振った。ゆっくり、はっきりと。
「……今日は魔法を使いません」
「えっ……」
母親の目が大きく揺れた。拒絶に見える。怖い。嫌われる。必要とされなくなる。——その恐怖が、私の喉を締める。
でも、言い直した。
「使わない、じゃなくて……私が、別の方法で助けたいんです」
「別の方法?」
「お湯と、塩と、蜂蜜と、布。それと、外の雪を」
「……それで、治るのかい」
「私が、治します」
指先が震える。逃げたい震えじゃない。踏ん張る震えだ。
「お母さん、まず手を洗ってください」
「手?」
「井戸の水で、いいです」
「私の手が、汚れてるってこと?」
「悪い、ものが、つくんです。目に見えない、小さな」
「……はい」
「それから、お湯を沸かしてください。布は、一度、煮てから使います」
「煮るのかい?」
「悪い、小さなものが布に残るんです。熱で、殺せます」
菌、という言葉を飲み込んで別の形で渡す。説明がこの世界の言葉になっているか不安で、でも止まらない。
「ぬるい湯に、ひとつまみの塩」
「ひとつまみ?」
「指の先で、つまむくらい」
「これくらい?」
「もう少し、少なく」
「これで?」
「ちょうどです。次に、蜂蜜を、ちょっとだけ」
「どれくらい?」
「ティースプーン一杯……ええと、木の匙で、半分くらい」
「うん」
「少しずつ、唇を濡らすところから」
「甘いものを、こんなときに?」
「身体の水を戻すほうが、今は大事なんです。吐いたら止めます。無理には、入れません」
私はミラの身体を横向きにし、嘔吐したとき喉に詰まらないように向きを整えた。背中に丸めた布を当て、呼吸が楽になる姿勢を作る。
自分の手が、自然に動くのがわかった。
“聖女”じゃない手。
柊木凛の手。
「……レオンさん」
戸口に立った影へ、声を投げる。
「薪、足りますか」
「足りる」
「あと、外の雪を、布に包んで持ってきてください」
「どこを冷やす」
「脇の下と、首筋」
「冷やしすぎは?」
「触って、子どもが嫌がったら、外します」
「どれくらい」
「拳ふたつ分くらい。とけたら、また」
「わかった」
レオンは一度頷いただけで、すぐに外へ出た。
言い訳しないで動いてくれる。
そのことが、胸の奥を静かに温めた。
私はミラの額の汗を拭き、乾いた唇を濡らし、呼吸の音を聞き続ける。
夜が深くなるにつれて、家の中の音は減った。
鍋の湯の沸く音。
薪が爆ぜる音。
布の擦れる音。
その合間に、ミラの苦しそうな息。
「凛ちゃん、寒くない?」
「……平気です」
「上着、貸そうか」
「お母さんが、着ててください」
「でも」
「ミラちゃんが、お母さんを見て安心するように」
「……うん」
「……熱、下がらないね」
母親が、震える声で言った。
「下がります。汗をかき始めれば」
「凛ちゃんは、こういうの、知ってるの」
「……前に似たような子を看ていたことがあって」
「お医者様、だったのかい」
「……そういうものに、近い仕事を」
「遠い、土地で?」
「……ええ。とても、遠い」
「もう、戻れない場所?」
「……はい」
「そう、かい」
母親はそれ以上聞かなかった。代わりに、ミラの足の指を、布で優しく擦った。
私は何度も思った。
——魔法なら、早いのに。
でも、早さだけが救いじゃない。
奪うんじゃなく手渡したい。命令じゃなく意思で。自分の寿命を差し出すんじゃなく、知識と手で。
その選択を、私は自分で肯定したかった。
レオンが雪を持ち帰る。布に包んで、ミラの脇の下にそっと当てる。小さな身体が一度、びくっと震えて、また落ち着いた。
「強い子ですね」
私は、思わずそう呟いた。
「……ありがとう」
母親が、嗚咽を一度だけ漏らした。
「お母さんも、座ってください。倒れますよ」
「でも」
「ミラちゃんが目覚めたとき、お母さんが元気じゃないと、心配します」
「……うん」
「ね」
「うん。……ありがとうね、凛ちゃん」
お礼を、また飲み込む。
「まだです」
「まだ?」
「まだ、お礼は、早いです」
夜明け前。
ミラの呼吸が、変わった。
浅く刻んでいた息が、少しずつ長くなる。喉のひゅう、という音が弱まる。汗が増えて、熱が身体の外へ逃げているのがわかる。
私は布を替え、濡れた髪を結び直し、首筋を拭いた。
そのとき。
ミラのまつげが震えた。
「……みず……」
かすれた声。生きている声。
私は慌てず、でも胸の奥で何かが弾けるのを感じながら、塩と蜂蜜の湯を小さな匙で唇に触れさせた。
「少しずつ。……うん、上手」
看護師の頃の癖みたいな褒め方が、自然に出た。
ミラは苦しそうに眉を寄せながらも、少しだけ飲み込む。喉が動く。胸が上下する。
「……もう一口いける?」
「……ん」
「えらい」
母親が、声にならない声を漏らして私の肩にしがみついた。
「凛ちゃん……!」
「ええ、戻ってきました」
「あぁ、神様」
「お母さん、お水を、もう少し」
「はい、はい」
「目が覚めたら、欲しがるので」
「すぐ、すぐ用意するから」
「……まだ油断はできません。でも、山は越えました」
頬が熱くなった。泣きそうになるのを堪える。今は、やることがある。
ミラの目が、ゆっくり開いた。
焦点の合わない瞳が、私の顔を探して——見つけた瞬間、小さな手が私の指を掴んだ。
「……りん……ねえちゃん……」
その呼び方に、胸の奥が痛くなる。
聖女様、じゃない。
役割、じゃない。
私が、ここにいる“私”のまま。
「……ねえちゃんがいたから」
ミラは掠れた息で、途切れ途切れに続けた。
「……こわく、なかった」
「……」
「……ありがとう」
たったそれだけ。
なのに、その短い言葉は、今まで聞いてきたどんな「ありがとう」と違っていた。
神殿で浴びせられた「ありがとう」は、次の命令の前置きだった。
前世で言われた「ありがとう」は、次の夜勤の依頼の合図だった。
でも今のは、何も要求していない。
ただ、私の手がそこにあったことを、受け取っている。
私は、息ができなくなった。
胸の奥の硬いものが、ゆっくり、ひび割れていく。
——間に合った。
その言葉が、遅れて降りてきた。
私は笑おうとして、唇が震えた。
「……よかったね、ミラちゃん」
声が掠れる。涙が滲む。ミラは弱々しく笑って、また眠りに落ちた。今度は、穏やかな寝息だ。
「ありがとう、凛ちゃん。本当に、本当に……」
母親が何度も頭を下げる。私はそれを止めることができなかった。ただ、手を握って、頷いた。
ありがとう、が。
私の中に、落ちた。
——前世の、あの夜の病室。
白い天井。蛍光灯の青白い光。アルコールの匂い。
規則正しい心電図の音。点滴の落ちる、ぽたり、ぽたり、という間隔。
あの子は、七歳だった。
肺炎が悪化して、呼吸が苦しくて、酸素のマスクをつけても、顔色が戻らなかった。
私は夜勤で、ベッドの横にいた。
小さな手が、私の指を探して、握ってきた。
「ねえ、りんさん」
マスクの内側で、声が湿っていた。
「ぼく、なおる?」
「……」
私は、笑って言った。
「大丈夫だよ。先生も、みんなも、いるからね」
「ほんと?」
「ほんと」
本当は、怖かった。
呼吸の音が、すでに“危ない音”だったから。
——もっと早く気づいていたら。
——もっと早く、医師に強く伝えていたら。
——もっと早く、親御さんに。
でも私は、優しい嘘を選んだ。
自分が泣かないために。
子どもが怖がらないように、という言い訳を持って。
朝、交代の看護師が来た頃には、その子の手は冷たくなっていた。
「ありがとうございました」
泣きながら言う母親に、私はただ頭を下げた。
ありがとう、を受け取れなかった。
受け取ったら、私の中の罪が暴れてしまうから。
——あの子は、もう戻らない。
——私がどれだけ悔いても、やり直せない。
だからずっと、私は「助ける」ことでしか生きられなかった。
救えなかった穴を、別の誰かで埋めようとして。
埋まらないのに。
——戻ってきた。
白い天井は、煤けた梁に変わっていた。
蛍光灯の代わりに、薪の赤い火。
点滴の音の代わりに、寝息。
ミラは、眠っている。
胸が、上下している。
生きている。
私は壁に背を預けて、両膝を抱えた。
「ごめんね」
誰に言うでもない声が、床に落ちた。
「間に合わなくて、ごめんね」
あの夜の七歳に、言えなかった言葉。
「……でも、今回は」
喉が、引きつる。
「……今回は間に合ったよ」
次の瞬間、堪えていたものが溢れた。
最初は、ひと粒だった。
頬を熱いものが伝う。続けて、もうひと粒。
息が、震える。
肩が、震える。
「……っ、う」
声を、押し殺そうとした。
神殿で覚えた癖。誰にも聞かれないように、布団を噛んで泣くやり方。
でも、今夜は——
「……うっ、……うう」
喉が、勝手に開いた。
十二年、噛んで殺してきた音が、ぼろぼろと外へ出ていく。
私は、泣いた。
声を出して、泣いた。
あの夜の七歳のために。
神殿の床で「代わりは?」と問われた自分のために。
倒れても「大丈夫です」と笑っていた私のために。
全部、まとめて、泣いた。
背中に、そっと重みが触れた。
レオンの手だ。
大きくて、無言で、逃げ道を塞がない手。
「……泣け」
短い言葉。命令じゃない。
許可でもない。
ただ、隣にいるという宣言みたいだった。
「……レオン、さん」
「俺は、ここにいる」
「……」
「どこにも、行かない」
その一言で、堰が、もう一段壊れた。
私は、レオンの黒い騎士服の袖を、子どもみたいに掴んだ。掴んでから、慌てて離そうとした。
「……ごめん、なさい」
「謝るな」
「だって……」
「掴んでいい」
短い、低い声。
私は、もう一度、袖を掴んだ。
今度は、強く。
頬を流れる涙が、レオンの袖の上に落ちた。黒い布が、湿った跡を呑み込んだ。
しばらく、私たちは何も話さなかった。
薪が、爆ぜた。
ミラの寝息が、穏やかに続いていた。
外で風が一度、強く鳴った。
「……レオン、さん」
「ん」
「……いて、くれて」
「ああ」
「……ありがとう」
「礼は、いらない」
「……でも」
「ここに、いたいから、いる」
「……」
「それだけだ」
「……重く、ないですか」
「軽い」
「うそ」
「軽い。骨と、皮しかない」
「ひどい」
「事実だ」
「事実、でも」
「食べてないだろう」
「……今日は」
「昨日も」
「……はい」
「一昨日も」
「……はい」
「明日は、食え」
「……はい」
「俺と、食え」
「……はい」
濡れた頬で、私は少しだけ笑った。
笑えた、ということに、また泣いた。
「……笑え」
「無茶、言わないで」
「両方やればいい」
「……はい」
涙が、少しずつ、落ち着いていく。
頬が、まだ熱い。
でも、胸の奥の硬いものは、確かに、小さくなっていた。
窓の外が、白み始めていた。
ミラの寝顔。
濡れた私の頬。
冷えた湯の椀。
卓の上の三つを、私はぼんやり眺めた。
もう少し眠らせよう、と思ったとき。
外で——硬い音がした。
雪を踏む、複数の足音。
規則正しく、迷いのない歩幅。
ぴたり、ぴたり、ぴたり。
子どもの足音じゃない。
村人の歩き方でもない。
レオンの手が、私の背中で止まった。
呼吸が変わるのがわかった。
「……来た」
短い、低い声。
私の涙が、喉の奥で凍りついた。
ミラの寝息だけが、家の中で続いていた。
## あとがき
第十二話「あの子を思い出す」をお読みいただき、ありがとうございました。
この話は、本作で一番書きたかった話のひとつでした。
凛が「助けたい」と自分の意思で口にする。魔法ではなく手当てで小さな命を引き寄せる。前世で救えなかった七歳の子に、十二年越しに「今回は、間に合ったよ」と渡す——感謝を、初めて受け取る、その瞬間。
書いていて、ずっと、ミラの寝息が聞こえていました。
凛が声を殺さず泣く場面は、何度も書き直しました。布団を噛んで泣くやり方しか知らなかった人が、初めて誰かの前で声を出す。あの「うっ、うう」の二音が出るまでに、十二年かかった。レオンが「泣け」の一言で隣に在るのも、無言の重み一発で支えたかったところです。
そして、夜が明ける直前——雪を踏む、規則正しい足音。
第一アークの終わりが、もうすぐそこまで来ています。次話「居場所」と、それに続く第十三話の引き。
どうか、もう少しだけ、凛の隣にいてあげてください。
歩人




