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第13話: 居場所

 火の輪の中に、自分の名前が落ちてきた。


 「凛ちゃん、こっち!」


 逃げるはずだった足が、笑い声のほうへ引っ張られる。




 ミラの熱が下がってから、村は少しずつ祭りの支度に染まっていった。


 わらを編む手。薪を割る斧の音。窯から漏れる甘い湯気。


 「凛ちゃん、ちょっと手ぇ貸して」


 井戸端で、エルザが籠を抱えながら呼んだ。


 「はい、何でしょう」


 「藁の端、こっち押さえてくれるかい」


 「こう、ですか」


 「そう、上手だね」


 「重くないですか」


 「平気平気。さ、結ぶよ」


 藁の束が、ぎゅっと音を立てて締まる。


 「今年も冬至祭だねえ」


 「冬至祭、ですか」


 「うん。一年で一番夜が長い日。だから一番大きな火を焚いて、村のみんなで朝まで暖めるのさ」


 「朝まで、ですか」


 「凛ちゃんも来るよ。決まりだよ」


 「あ……はい」


 「お邪魔、なんて言わないでね」


 「ええと」


 「言おうとしたでしょ」


 エルザが笑う。

 しわの寄った口元から、湯気みたいに息が立ち上る。


 “決まり”という言葉が、いつもよりずっと柔らかく耳に入った。


 大神殿だいしんでんで聞かされてきた“決まり”には、いつも罰の影が付いていた。

 守らなければ罰、遅れれば罰、笑えば罰。


 でもエルザの“決まり”は、毛布の端みたいに温かい。




 冬至祭は、夕暮れの匂いから始まった。


 畑の土の湿り気が昼のあたたかさを残している。

 そこへ焼いた麦と甘い果実酒の香りが重なる。


 広場の真ん中には、大きな篝火かがりび

 炎が揺れるたび、村人たちの影が踊った。


 太鼓の音が心臓のリズムと重なる。

 笛の高い音が空の青を夜へ塗り替える。

 笑い声があちこちで弾けて足元の土まで柔らかくなる。


 凛は広場の端に立っていた。

 外套の襟を、指でつまむ。


 熱に近づきすぎたら焦げてしまう気がして、でも離れすぎたら、また凍えてしまう気がして。


 「凛ちゃん、寒くないかい」


 籠から丸いパンを取り出しながらエルザが言った。

 焼きたての表面が火の光でつやつやしている。


 「あ……ありがとうございます」


 「ほら、まだ熱いよ」


 「いい、匂いですね」


「焼きたてだもの」


 「ふわふわです」


 「ふふ。ちゃんと味わってるね」


 「あったかい」


 「冷えた手に、いちばん効くからね」


 「指まで、ぽかぽかします」


 「ね」


 “大丈夫です”が、形を変えて落ちた。

 それだけで、胸が少し騒ぐ。


 「無理して端っこにいなくていいんだよ」


 ぽんと肩を叩かれる。


 叩く力は弱いのに言葉のほうが強い。


 “許可”でも“命令”でもない。

 ただ当たり前みたいに、輪の中へ戻そうとする手だ。


 「でも——」


 「でも、じゃないよ」


 「あの、私」


 「いいから、おいで」


 理由を探す癖が、まだ残っている。


 そのとき、背中に小さな手が二つ、三つ、まとわりついた。


 「凛ちゃん、踊ろう」

 「ねえ、踊ろうよ」


 ミラと、その友達らしい子たちだった。

 頬がりんごみたいに赤い。


 「踊り、ですか」


 「うん。みんな踊るんだよ」


 「私、踊ったこと、ありません」


 「教えてあげる」


 「えっ、わ、私は——」


 「いいから、いいから」


 「足、踏むかもしれません」


 「踏んでいいよ」


 「いいんですか」


 「踏まれるのも、お祭りだもん」


 子どもの目は、篝火みたいにまっすぐで、断り方を知らない目をしていた。


 凛は、足がすくむのを感じた。


 神殿では、祭りの輪に入ることなど一度もなかった。

 聖女は“見られる側”で、“混ざる側”じゃない。

 混ざってしまったら、汚れる。汚れたら、役に立たなくなる——そう教え込まれた。


 でも、掴まれた袖は、優しかった。


 引く力が、強引じゃない。

 「おいで」と言っているだけ。


 迷っているあいだにも、太鼓の音は止まらない。

 世界は許可を待たないのに、置いていかない。


 「凛ちゃん、楽しんでおいで」


 エルザがもう一度言った。


 その笑い方は、“頑張り”に褒美をくれる笑いじゃない。

 ただ、今夜の火を一緒に見るための笑いだ。


 「……少しだけ、なら」


 「やった」


 「ねえ、行こう」


 頷くまでが、自分でも驚くほど遅かった。


 ミラが「やった」と叫んで、手を引いた。


 熱の輪のほうへ。

 笑い声の渦のほうへ。




 輪の中は、思っていたより足元が安定していた。


 誰かの肩がぶつかる。

 誰かの掌が一瞬触れる。


 でも押しのける触れ方じゃなくて、支える触れ方だ。


 「こう、こう」


 ミラが見本を見せる。

 右、左、くるり。


 「右、左……くるり、ですね」


 「上手だよ」


 「上手じゃ、ないです」


 「上手だってば」


 「迷惑、かけてませんか」


 「迷惑って何さ」


 「えっと」


 「踊ってるだけでしょ」


 大人たちが笑って、同じ動きを繰り返した。


 「ほうら、もう一回」


 「右、左」


 「いいぞ凛ちゃん、その調子」


 ハンスじいさんが、酒杯を片手に手拍子を取った。


 「練習したのかい」


 「いえ、今、覚えたばかりで」


 「だったら大したもんだ」


 「そんな、大したもの、では」


 「いいや、大したもんだよ。なあ、エルザ」


 「ねえ。覚えるの早いって」


 「先生はミラかい」


 「ミラもいい先生だね」


 「凛ちゃん、笛も吹けるかい」


 「いえ、笛は……」


 「教えてやろうか」


 「酔ってるくせに、いい加減なこと言うんじゃないよ」


 「酔ってるからだよ、エルザ」


 「ふん」


 「凛ちゃん、気にしないでね。じいさんはいつもこうだから」


 「は、はい」


 「踊り、もう一回」


 ミラが袖を引いた。


「ねえ、いける」


 「い、いきます」


 「やった」


 「ねえ、凛ちゃん、笑った」


 「えっ」


 「いま、笑ったよね」


 「……笑った、かも、しれません」


 「笑った笑った」


 「うふふ。ほら、もう一回」


 「右、左」


 「くるり」


 「上手」


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 “今ここにいる凛”を、丸ごと肯定する声。


 それでも。


 太鼓の音に背中を押されて。

 火の光に頬を撫でられて。


 凛は、ほんの少しだけ口角を上げた。


 笑った。


 大神殿では一度もできなかった笑い方で。


 「——」


 ふと、輪の外を見た。


 火の光が届くぎりぎりの場所に、黒い影があった。


 レオン。


 腕を組んで、いつもの無表情で立っている。

 でも、目が合った瞬間、口元がほんのわずかに緩んだ。


 ——気のせいじゃない。


 彼の頬の傷の上で、火明かりが揺れる。

 その光を誤魔化すように視線がふいと夜空へ逸れていく。


 胸の奥で、何かがふわりとほどけた。


 凛はもう一度、笑ってしまう。


 笑ったせいで、目の奥が熱くなって。

 慌てて瞬きをして、涙を落とさないようにした。


 “ここで泣いたら、台無しだ”

 そう思った自分が、どこか懐かしくて、可笑しくて。


 息を、ちゃんと吐けた。

 許可を取らずに。怒られる心配をせずに。




 祭りがひと段落すると、輪はゆっくりほどけていった。


 肉の串を手にする者。酒杯を回す者。子どもを膝に乗せる者。

 篝火の前には木の丸太が並べられて、座る場所が増えていく。


 「凛ちゃん、こっち空いてるよ」


 ミラの母が、丸太の端を叩いた。


 「ありがとうございます。でも、少し離れたところで」


 「冷えるよ」


 「もう少しだけ、火から離れたいんです」


 「凛ちゃんも頑固だねえ」


 「すみません」


 「謝らなくていいよ」


 凛は少し離れた丸太を選んだ。


 すると、隣に静かな影が落ちた。

 レオンが、何も言わずに腰を下ろす。


 近い。

 近いのに、息が苦しくならない距離。


 外套の端が袖にそっと触れた。

 布越しに彼の体温が伝わってくる。


 輪の中で誰かが触れた“支える触れ方”と同じ温度だった。


 レオンは、串を一本、こちらへ差し出した。

 焼いた芋に、塩がきらきらしている。


 「……食え」


 「いただきます」


 受け取って、一口。


 熱い。甘い。

 土の味がするのに、幸せの味がする。


 「おいしい」


 「焼けてたな」


 「ほくほくです」


 「冷えるぞ、はやく食え」


 「はい」


 「踊ってたな」


 「はい。手を、引かれて」


 「似合ってた」


 「えっ」


 「踊り。似合ってた」


 「……ほんとに、ですか」


 「嘘は言わない」


 思わず顔を上げる。

 レオンは、こちらを見ていなかった。


 炎を見つめている。耳のあたりが、火明かりのせいか、少しだけ赤い。


 「……似合うかなあ、私」


 「似合う」


 「あんまり、踊れてなかったような」


 「踊ってた」


 短い断定が、頬まで熱を運んでくる。


 凛は視線を、自分の指先へ落とした。

 芋の湯気が、指の輪郭を白くにじませる。


 炎は、空へ伸びながら、何度も形を変える。

 形を変えても、火であることは変わらない。


 ——私は、何にでもなってきた。

 聖女。道具。国の宝。


 でも、今夜の私は。


 ただ、凛ちゃん、と呼ばれている。


 「……火、きれいですね」


 「ああ」


 「ずっと、見てられそう」


「冷えるぞ」


 「平気です」


 「無理するな」


 「……はい」


 息を吸って、言葉を探した。

 謝罪でも、報告でも、祈りでもない言葉。


 「……レオンさん」


「なんだ」


 「ここに、いてもいいんでしょうか」


 声が震えた。

 自分で自分が情けなくなるくらい、小さな声。


 レオンは、すぐには答えなかった。

 一度、炎を見つめる。


 それから、決めていたみたいに、短く言った。


 「ここが、あんたの場所だ」


 「……私の」


 「あんたの場所だ」


 「役目じゃ、なくて」


 「役目じゃない」


 「戻らなくても、いいんですか」


 「戻らなくていい」


 胸の奥の、固いところが音を立てて割れた。


 “場所”。

 役割じゃない。

 檻じゃない。

 戻らなきゃいけない場所じゃない。


 居ていい、と言われた場所。


 息を呑んで、視界が滲むのを感じた。


 でも今夜は、無理に止めなかった。

 落ちてもいい。落ちても、誰も怒らない。誰も「迷惑」と言わない。


 「……ありがとう、レオン」


 “さん”が、ひとつ落ちた。

 落ちたのに、怖くない。

 むしろ、胸の奥にすとん、と収まる。


 レオンの肩が、ほんのわずかに揺れた。


 驚いたのか、照れたのか。

 彼はいつものように視線を逸らして、短く息を吐いた。


 「……ん」


 それだけ。

 それだけで、十分だった。


 篝火がぱちり、と音を立てて弾ける。

 火の粉が星みたいに舞って、夜空へ消えた。


 ——帰る場所が、できた。


 心の中で、そっと呟く。


 その呟きが、胸のいちばん深いところに、灯のように置かれた。




 宴が静まりかけた頃のことだった。


 広場の端、街道に続く道のほうから、馬の鼻息と霜を踏む音がした。


 ハンスじいさんが、酒杯を置いた。


 「おや、こんな夜分に」


 「お客さんかね」


 「さあて」


 子どもを膝から下ろした母親が、振り返る。


 現れたのは、外套を深く被った旅人だった。

 馬の毛並みが、思ったよりずっと上等。

 鞍に結わえられた革袋の留め金が、火明かりで一度だけ光った。


 「いやはや、迷うかと思った」


 「迷うって、こんな夜更けに」


 「街道を外れてしまってな」


 「ふうん」


 「夜分にすまない。湯と、馬の水を、少し分けてもらえぬか」


 旅人の声は、村の言葉とは違う訛りだった。

 どこか、王都の人間に近い響き。


 凛の指先が、ひやりとした。


 レオンの肩が、ほんの少しだけ動いたのが、隣で分かる。

 彼は立ち上がらない。動かない。


 ただ、外套の内側へ、片手をすっと忍ばせた。


 ハンスじいさんが、よっこらせと腰を上げる。


 「水と湯くらい、構わんさ。今夜は祭りでな」


 「ありがたい」


 「礼なんざいらん」


 「いや、礼はする」


 「ほう」


 「祭りの邪魔をしたくないが、一晩、軒先を借りられないか」


 「軒先くらい、いくらでもあるさ」


 「助かる」


 「王都の方角から、ちと急ぎの便りでね」


 ハンスじいさんの背中が、わずかに固まった。


 「便りかい」


 「ああ。ここから三日ほど先の街で、ちょっとした騒ぎがあってな」


 「騒ぎ」


 「神殿の使いが、村々を回りはじめてる」


 「神殿の」


 「探しもんがあるそうだ」


 「ほう」


 「人を探しているらしい」


 「物騒な話だね」


 「明日にでも、村の長に話したい」


 「……ふむ」


 “騒ぎ”という言葉が、火の温度を、ふっと一段下げた。


 凛の指先が、冷たくなる。

 レオンの腕が、外套からゆっくり戻ってくる。

 抜ける位置にあった指の形を、凛は見てしまった。


 「……レオン」


 「黙ってろ」


 「はい」


 「あんたは、ここにいろ」


 囁き声。

 責める色は、欠片もない。


 ただ、隣に立つ気配だけが、いつもより一段、深くなった。




 旅人が井戸のほうへ案内されていく頃には、宴は自然と片づけの時間に変わっていた。


 子どもたちは眠そうに瞼を擦り、大人たちは笑いながら残った串を分け合う。


 「ほら凛ちゃん、冷えるよ」


 エルザが凛の肩に毛布をかけてくれた。


 「ありがとうございます」


 「家まで、レオンが送ってくれるよね」


 「送る」


 「頼んだよ」


 「任せろ」


 エルザは、何も言わずにレオンのほうを見た。


 レオンは咳払いを一つして、凛の歩幅に合わせて歩き出す。

 その歩幅が、今夜は少しだけ、ゆっくりだった。


 家の前まで来たとき、レオンが立ち止まる。


 「……明日」


 「はい」


 「見せたいもんがある」


 「何を、ですか」


 「明日になったら、わかる」


 「……はい」


 言い終えた瞬間、彼はまた視線を逸らした。

 照れたみたいに、言葉が途切れる。


 “明日”という言葉が、今日は二回鳴った。


 「……明日って、いい言葉ですね」


 「そうか」


 「今までは、ちょっと、こわい言葉でした」


 「もう、こわくないか」


 「……はい。今日は」


 「そうか」


 でも凛は、毛布の端を握って、頷いた。


 「楽しみに、しています」


 言ってから気づく。

 “楽しみ”なんて言葉を、自分が使えるなんて。


 レオンは、ほんの一拍だけ、こちらを見た。


 「……そうか」


 「おやすみなさい」


 「おやすみ」


 短いやり取りが、空に薄く残る。


 レオンは何も付け足さず、ただ踵を返した。

 闇へ溶けていく背中に、祭りの火の匂いがまだ残っている。


 戸を閉める前に、もう一度だけ夜空を見上げた。


 「星、きれい」


 「ね、きれい」


 いつのまにかエルザが、戸の内側から覗いていた。


 「凛ちゃん、入っといで」


 「はい」


 「今夜は、よく眠れるよ」


 「……はい」


 その下で、凛は今夜、ちゃんとここにいた。


 扉を閉める。

 戸の隙間から、最後にひとすじの火の匂いが流れ込んで、消えた。


 炉の上で、エルザが先に置いてくれた湯飲みが、湯気を立てたまま、静かに待っていた。



第一アーク「聖女の逃走編」、これにて完結です。


 第一話で大神殿の床に倒れていた凛が、十三話目の今夜、自分の足で輪の中へ入り、レオンの隣で湯気の立つ湯飲みを受け取れるようになりました。「ここにいてもいい」を凛が自分の口で問い、そして自分の耳でその答えを聞き届けた——書き手として、この一夜にたどり着けたことが本当に嬉しいです。


 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、宴の終わりに街道から訪れた旅人は、第二アーク「偽りの神殿編」の入口に立つ影です。大神殿は、凛を失ったまま冬を越せません。王都はもう、辺境のリンデン村のことを“ただの寒村”として見てはいない——その予兆だけを今夜の火の温度に乗せました。


 次話より第二アーク開幕。凛が今度は“逃げる”のではなく、“選んで進む”物語へ。引き続きお付き合いいただけたら、これ以上の喜びはありません。


 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

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