表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/39

第14話: 歴代聖女の日記

 かすれたインクが闇の中でまだ濡れているみたいに見えた。


 石の冷たさより先に、その言葉が俺の喉を凍らせる。


 ——大丈夫です。


 指先が震えて、紙が鳴った。




【レオン視点】


 夜明け前のリンデン村は音が少ない。


 俺は外套の留め具を静かに締めて扉の軋みを殺した。

 背中のほうから布が擦れる微かな音がした気がして足を止める。


 ——起きたか。


 振り返らない。

 振り返ったら言わなきゃいけなくなる。


 しもを踏む音がやけに大きい。

 昨夜の祭りの火の匂いがまだ外套に残っていた。


 あんたは笑っていた。

 火の輪の中で、ちゃんと息をしていた。


 旧修道院きゅうしゅうどういんは村から半刻ほど。

 子どもの頃に肝試しで近づいてエルザに耳を引っ張られた場所だ。


 “神の場所に近づくな”


 あの言葉の裏に何があったのか。

 今なら分かる。




 森を抜けると石の影が見えた。


 崩れかけた尖塔せんとう

 こけに覆われた壁。

 風が穴だらけの窓を通り抜けてうめくみたいな音を立てる。


 扉は半分落ちていた。

 中へ入ると空気が変わる。

 湿った土と古い木と冷えた鉄の匂い。

 そして——紙が死ぬ匂い。


 崩れた礼拝堂の奥。

 床の一部が奇妙に沈んでいた。


 昔ここに地下室があると聞いたことがある。

 神官たちが“触れるな”と村に言い残したふうじられた場所だ。


 膝をついて石の隙間を探る。

 指先に冷たい金具が当たった。


 「……あった」


 言葉は石に吸われて消えた。


 びた輪を引く。

 重い。腕の筋が軋む。それでも引く。


 ぎ、と鈍い音がして床が口を開けた。

 下から冷気が吹き上がる。


 燭台しょくだいに火を入れ階段を降りた。

 壁が近い。石が濡れている。

 しずくが一定のリズムで落ちる。


 地下は崩れていた。

 その隅にほこりを被った木箱があった。

 手のひら二つ分の大きさ。

 金具の留め具。薄く残る聖印せいいんの刻印。


 胸の奥が嫌な音を立てた。


 短剣を抜き留め具の隙間に差し込む。

 木が鳴った。

 乾いた音だ。


 ——まるで骨が折れるみたいな。


 「……っ」


 力を入れると留め具が外れた。

 蓋がほんの少しだけ浮く。

 その隙間から古い紙の匂いが溢れ出した。


 中には布に包まれた冊子が何冊も積まれていた。

 革表紙。布表紙。

 角が擦り切れ背が割れかけている。

 それでも丁寧に扱われてきた痕がある。


 ——誰かが隠した。

 ——誰かが守った。


 俺は一冊手に取った。

 表紙に小さく書かれた文字。


 《聖女日誌》


 喉が鳴る。

 それでも開いた。




 最初のページ。

 文字は丸い。子どもみたいな筆跡だった。


 【第十五代聖女せいじょ ミレイユ 記】


 「きょうは、はじめて“だいしんでん”のひとたちに、ほめられました。

  わたしは、やくにたてたみたいです。

  でも、すこしだけ、くらくらします。

  でも、わたしは、せいじょだから」


 俺の指が止まる。

 ページをめくる。


 「きょうも、なおしました。

  まえより、くらくらします。

  でも、だいじょうぶです。

  わたしは、せいじょだから」


 次のページも。

 次のページも。

 同じ言葉がのろいみたいに増えていく。


 もう一冊は紙が黄ばみふちが波打っていた。


 【第十代聖女 エリシア 記(約百年前)】


 「本日、村より負傷者十六名。

  神官らは『まだ居る』とかす。

  胸の内、息が浅い。

  だが聖女は弱音を口にせぬものと教えられた。

  よってこの一行も、何事もなかったことにする」


 俺は別の冊子を掴む。

 革の表紙。整った字。祈りの文句が並ぶ。


 【第十三代聖女 アナスタシア 記】


 「本日、治癒儀式ちゆぎしき十二回。

  神官長より『よく耐えた』とお言葉をたまわる。

  眩暈めまいと微熱。指先の冷え。

  しかし聖女として当然の代価。

  慣れねばならぬ」


 紙の上で息が整いすぎている。

 痛みが文章に押し込められて見えない。


 もう一冊。

 布表紙。文字が乱れている。


 【第十八代聖女 サラ 記】


 「今日、せきが止まらない。

  血が少し出た。

  布でぬぐったら赤い。

  神官様は『祈りが足りない』と言った。

  私は頷いた」


 紙の端に押し殺したみたいな走り書きがあった。


 「ほんとは、こわい」


 その次の行。


 「でも、お務めは果たします」


 俺はページを閉じて息を吐いた。

 吐いたはずなのに肺が苦しい。


 ……百年分。


 箱の中にはまだ何冊もある。

 重なった背表紙が俺を見ている。

 見ろ、と言っている。


 指が勝手に次の一冊を引き出した。


 黒い革。角が擦り切れて手垢てあかが残っている。

 ——知っている。

 この匂いを。


 【第二十代聖女 リアナ 記】


 「レオンは今日も黙っていた。

  でも、私が立ち上がるときだけ、手が伸びる。

  あの手は優しい。

  優しいのに私は怖い。

  優しい手まで神殿に汚される気がするから」


 視界が揺れた。

 燭台の火が滲んで二つになる。


 次のページ。


 「今日、倒れた。

  起き上がった。

  いつもの言葉を口にした。

  レオンがまゆを寄せた。

  だから笑った」


 最後のページ。

 日付の欄が空白になっている。

 文字が震えている。


 「——大丈夫です」


 たったそれだけ。


 俺の手が止まった。

 指が勝手に紙をでる。

 撫でても温度は戻らない。


 怒りが遅れて来る。

 熱いのに冷たい。

 腹の底から静かに湧いて全身の骨をむ。


 俺は箱を外套の内側に押し当てた。

 心臓の音が箱の木に伝わる。

 まるで死んだ紙に血を流しているみたいだった。




 地上へ戻る階段がやけに長い。

 冷気が背中にまとわりつく。

 滴の音が追ってくる。


 地上に出ると朝の光が眩しかった。

 森の匂いがする。

 生きている匂いだ。


 村への道を歩きながら俺は何度も口の中で繰り返した。


 ——あんたに見せていいのか。

 ——でも見せなきゃあんたは気づかない。


 歩幅が自分でも分からなくなる。




【凛視点】


 戸を細く開けたら霜の匂いが頬を撫でた。


 「あの、レオンさん。どこへ行っていたんですか」


 「……すまない。心配かけた」


 「いえ。心配はしてません。匂いが、いつもと違うので」


 「匂い」


 「土と、苔と、古い紙の匂いです」


 「……お前は、鼻がいいな」


 「看護師ですから、たぶん」


 戻ってきたレオンの外套には、確かにその三つの匂いがしみついていた。

 森の奥より、もっと奥の匂い。


 「凛」


 「はい」


 「先に、座ってくれるか」


 「座ります」


 「炉のそばがいい」


 「はい」


 炉の前に二人で並ぶ。

 エルザは朝の井戸へ出ていて家には誰もいない。

 薪がぱち、と一度だけ鳴った。


 レオンが外套の内側から布に包まれた木箱を取り出した。


 「これは」


 「日誌だ」


 「日誌、ですか」


 「歴代の、聖女のだ」


 息が止まった。

 ほんとうに、肺がひとつ、誰かに掴まれたみたいに。


 「……どこにあったんですか」


 「旧修道院の地下だ」


 「旧修道院……」


 「神官たちが、村に近づくなと言い続けた場所だ」


 「だから、夜明け前に行ったんですね」


 「……そうだ」


 「私を、起こさずに」


 「起こしたら、ついてくると思った」


 「行きました、たぶん」


 「だから、起こさなかった」


 箱の蓋をレオンの指が押さえている。

 壊さないように、けれど開けさせる用意がある手だ。


 「凛」


 「はい」


 「見るか」


 「……見ます」


 「無理ならいい」


 「無理じゃないです」


 「無理だったら、すぐ閉じろ」


 「はい」


 声がちゃんと出たかどうか自信がなかった。

 でもレオンは頷いてくれた。


 蓋がゆっくり開く。

 古い紙の匂いが湯気みたいに立ち上った。


 私はいちばん上の一冊を両手で受け取った。

 革の表紙が思ったより冷たい。


 ページをめくる。

 ぱり、と乾いた音がした。


 《きょうも、なおしました》


 《まえより、くらくらします》


 《でも、わたしは、せいじょだから》


 ひらがなが丸い。

 まだ字を覚えたばかりの子どもの、まっすぐな線。


 私の指がページの上で固まった。


 「……この子」


 「うん」


 「いくつ、ですか」


 「分からない。けど、たぶん十代の前半だ」


 「そう、ですよね」


 「字の握り方が、まだ硬い」


 「……ほんとですね」


 めくる。次のページ。


 《きょうも、がんばりました》


 めくる。


 《きょうも、がんばりました》


 めくる。めくる。めくる。

 同じ言葉が何枚も何枚も、紙の上で行儀よく並んでいた。


 「……あ」


 声が変な形で漏れた。


 「凛」


 「平気、です」


 言ってしまった。

 言ってから、唇を噛む。


 レオンが何も言わずに指先を私の指の横に置いた。

 触れない。重ねもしない。

 ただ指一本ぶんの距離に置く。


 ——それで、息がようやく一回吸えた。


 別の冊子を手に取る。

 布の表紙。文字が乱れている。


 《血が少し出た》

 《神官様は『祈りが足りない』と言った》

 《私は頷いた》


 ページの端の、押し殺したみたいな走り書き。


 《ほんとは、こわい》


 その次の行で、その人はまた神殿が望む言葉に戻っていた。


 私はその「ほんとは、こわい」を指の腹でなぞった。

 なぞっても紙の温度は戻らなかった。


 戻らないのに、私の喉だけが熱い。


 「レオンさん」


 「うん」


 「この人たちは、誰にも本当の言葉を預けられなかったんですね」


 「……そうだな」


 「日記にも、本当のことは半行しか書けなかった」


 「だな」


 「残り、ぜんぶ、いい子の言葉で塗ってあります」


 「……塗らないと、書けなかったんだろう」


 「半行を書いた指は、震えてたと思います」


 「……だろうな」


 声が揺れていた。

 でも止まらなかった。


 レオンが隣でほんの少しだけ俯いた。


 「俺は、聞いてやれなかった」


 「レオンさん」


 「リアナの、半行も。聞いてやれなかった」


 彼の声は低かった。

 責めているのは自分だけだった。


 私は首を横に振った。


 「聞こうとしてくれる人がいるって、それだけで、半行は書けたんだと思います」


 「そうか」


 「そう、思います。たぶん」


 「……ありがとう」


 「私が、お礼を言われるところじゃないです」


 「いや、いま、礼を言いたかった」


 私はもう一冊を引き寄せた。


 黒い革。角が擦り切れて、手垢てあかの跡が、撫でられた猫の毛みたいに残っている。


 表紙を見て息がもう一度止まった。


 《第二十代聖女 リアナ 記》


 「……これ」


 「あんたが、開けるべきやつだ」


 「いいんですか」


 「あんたが、いちばん、読むべきだと思った」


 「重い、ですよ」


 「分かってる」


 「ほんとに、いいんですか」


 「分かってて、渡してる」


 ページをめくる手が震えた。

 震えたまま、めくった。


 《レオンは今日も黙っていた》

 《でも、私が立ち上がるときだけ、手が伸びる》

 《あの手は優しい》


 私の隣にいる人が、別の誰かの隣でも、同じ手を伸ばしていた。


 その事実は悲しいのに、なぜか、ほっとした。


 「……レオンさん」


 「うん」


 「あなたは、ちゃんと、そこにいた人なんですね」


 「そこに、いただけだ」


 「いただけ、じゃないです」


 「……」


 「いてくれた、です」


 彼は何も答えなかった。

 ただ薪がぱち、ともう一度、鳴った。


 最後のページに文字が一行だけ残っていた。


 《——大丈夫です》


 日付の欄は白いままだった。


 私はその一行をしばらく見つめていた。


 息が深く吸えなかった。

 でも吐けた。


 吐きながら、私は彼女に小さく頭を下げた。

 会ったことのない、先輩に。


 ——ありがとうございます。


 ——あなたが残してくれた半行のおかげで、私は、自分の半行を、書けるかもしれません。


 心の中だけで、伝えた。




 しばらく私もレオンも、何も話さなかった。


 無音が炉の前にゆっくり降りた。

 薪のはぜる音だけがその重さを支えていた。


 私はリアナさんの日記を丁寧に元の布に包んだ。


 「レオンさん」


 「うん」


 「これ、私が預かっていいですか」


 「あんたが決めてくれ」


 「預かります」


 「分かった」


 「いつか、たぶん、これを誰かに見せる日が、来ると思います」


 「来るだろうな」


 「来てほしくないけど、来てしまったら、私は逃げません」


 言ってから自分の声に驚いた。

 いつも、何かに「すみません」と頭を下げる声しか、出てこなかったのに。


 レオンがようやく、ちょっとだけ、口の端を上げた。


 「……あんたは、強いな」


 「強くは、ないです」


 「強い」


 「弱いから、震えてます」


 「震えながら預かるやつを、強いと言うんだ」


 「そんなの、初めて聞きました」


 「初めて言った」


 「……ずるいです」


 「なにが」


 「そんな短い言葉で、人を救うのは、ずるいです」


 「救ってない」


 「救ってます」


 彼の言葉はいつも短かった。

 短いのに、長く残った。


 炉の中で薪が最後にひと声、明るく鳴った。

 火の粉が一つ煙突のほうへ吸われていく。


 私の膝の上にリアナさんの日記がそっと載っている。


 革の冷たさが布越しに、少しずつ、私の体温に近づいていく。


 ——百年ぶんの沈黙が、ここにある。


 冷たかった紙が、私の膝の上で、ようやく、温度を持ちはじめていた。



第二アーク「偽りの神殿編」の入口は、レオンの一人の朝から始まりました。


 歴代聖女たちが残した日記には、いつも同じ言葉だけが行儀よく並んでいて、その下に、半行だけ、本当の声が押し込められていました。「ほんとは、こわい」——それを書き残してくれた誰かがいたから、凛は今、彼女の半行を、自分の指でなぞることができたのだと思います。


 凛がリアナさんの日記を「預かります」と言えたこと。「来てほしくないけど、来てしまったら、私は逃げません」と、震えながらでも口にできたこと。第一アークで「お邪魔します」しか言えなかった彼女が、ここまで来ました。


 次話、凛は百年ぶんの沈黙を、もう一度、自分の中で泣きほどきます。過去の聖女たちのために流される涙——それは、十二年ぶんの自分のための涙の、もう半分でもあります。


 引き続き、お付き合いいただけたら、これ以上の喜びはありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ