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第15話: あの人たちも私だった

 レオンが、重い表情をしていた。


 灯りの下のその顔は、いつもより影が濃い。

 言葉にした瞬間に崩れるもの。

 それを唇の裏で支えている。

 そんな顔だった。


 「……これだ」


 机に置かれたのは、布で巻かれた束。

 ひもの結び目が、固く締まっている。

 指の跡が、白く残るほどに。


 紙の匂いがした。

 乾いたほこりと、わずかな鉄の匂い。

 古い本の匂いじゃない。

 誰かの息が、何度も染みた匂いだ。


 私は、両手でそれを受け取った。

 思ったより重い。

 紙の重さじゃない。

 黙っていた時間の重さだ。


 「……日記、ですよね」


 声が遠かった。

 自分の声なのに、どこかから借りてきたみたいに。


 「ああ」


 レオンは、それだけ言った。

 視線は私から逸れない。

 逃げ道を塞ぐためじゃない。

 落ちていく私を、見失わないために。


 「先に、見るか」

 「……はい」

 「読み終わるまで、いる」


 短い言葉だった。

 でも、その三つで、部屋の温度が少しだけ上がった。




 結び目をほどく指が、震えた。


 「凛」

 「……はい」

 「怖いなら、明日でいい」

 「いえ」


 首を振った。

 怖いのは、中身じゃない。

 そこに書かれた“私”が、私を見返してくることだ。


 「読みます。今夜、読まないと」

 「わかった」


 布をめくる。

 冊子が、何冊もある。

 革の背表紙、布張り、薄い木の板。

 焼け焦げた角、波打った紙、欠けたページ。


 一番上の、小さな冊子を手に取った。


 表紙に名前はない。

 触れた瞬間に、わかった。

 誰かが、これを胸の上で握って眠っていた。

 祈りみたいに。


 息を吸う。

 紙が擦れる音が、夜に響いた。


 最初のページをめくった。




 字が、古い。

 でも、読めた。

 丁寧で、静かな筆跡。


 『本日も祈りを捧げました。皆様が無事でありますように』


 その下に、小さく添えられている。


 『私は大丈夫です』


 ……胸の奥が、きゅ、と縮んだ。


 「……レオン」

 「ああ」

 「最初の一行が、もう……」

 「ああ」


 レオンは、それしか言わない。

 でも、その「ああ」が、ちゃんと隣にあった。


 次の冊子を開く。

 今度は荒い字。

 墨が跳ねて、行が曲がっている。

 息を切らしながら、書いたみたいに。


 『熱が下がらない子がいる。今夜も持ちこたえさせる』

 『私なら平気です』


 別の一冊は、女の子の字に見えた。

 丸い、可愛い字。

 内容は、可愛くなかった。


 『兵が門の外に倒れていた。治癒ちゆを使った』

 『これで誰かが救われるなら』


 違う時代。

 違う言葉遣い。

 違う暮らしの匂い。


 なのに、最後の一行だけが、同じ形で並ぶ。


 大丈夫です。

 私なら平気です。

 これで誰かが救われるなら。


 「……同じ、なんです」

 「ああ」

 「みんな、同じ言葉を、置いていく」

 「ああ」


 ページをめくるたび、私は同じ場所に戻された。

 大神殿だいしんでんの白い廊下。

 祈りの間。

 「聖女は笑っていなさい」と言われた日。

 私が、笑った日。


 大丈夫です、と言って。




 紙は、正直だった。


 “正直”なのに、そこには嘘が書かれていた。

 自分を守る嘘じゃない。

 他人を安心させるための嘘。

 自分の痛みを、見えない場所へ追いやる嘘。


 ある日記には、震える線で書かれていた。


 『指先がしびれて、はしを落とした』

 『それでも私は大丈夫です』


 別のページには、墨が滲んでいる。

 涙か、雨か、血か。


 『眠ると、声がする』

 『私なら平気です』


 もっと古い日記は、文字が少なかった。

 一行ずつ。

 息をするみたいに。


 『今日も誰かが救われた』

 『だから私は大丈夫』


 「……レオン、これ、違うんです」

 「何が」

 「大丈夫じゃ、ないんです。みんな」

 「ああ」

 「行間が、叫んでるんです」


 声がかすれた。

 胸の奥の何かが、ひび割れた。

 その音を、私は聞いた。


 「私と、同じ……」


 言葉が、勝手に漏れた。


 私が口癖みたいに言ってきた言葉。

 誰かに求められた瞬間、すぐに差し出した言葉。

 差し出せば、褒められた。

 差し出さなければ、困らせた。


 その言葉で、彼女たちは生きてきた。

 その言葉で、彼女たちは、消えていった。




 手が震えて、ページの角を掴めない。


 文字が、滲んでいく。

 目が悪くなったわけじゃない。

 涙が、勝手にあふれてくる。


 おかしい。

 私は、自分のためには泣けない人だった。

 「つらい」と言えない代わり。

 「大丈夫」と言ってきた。

 泣きたいときほど、笑ってきた。


 なのに。


 この日記の中の彼女たちの言葉は、胸の底に刺さった。

 私の身体に刺さったんじゃない。

 私の“見ないふり”に刺さった。


 「……レオン」

 「ああ」

 「季節が、変わるんです」

 「ああ」

 「日記の中で。雪、砂嵐すなあらし、海の塩、焦げた麦」

 「……ああ」

 「ぜんぶ、別の国だ」


 『祈りの光が弱い。夜が長い。怖い』

 『それでも大丈夫です』


 『腕が上がらない。治癒のあと、息が白い』

 『私なら平気です』


 『笑うと、唇が裂ける』

 『これで誰かが救われるなら』


 ——助けを求める言葉のすぐ隣。

 そこに、蓋をする言葉が置かれている。

 蓋をして、鍵をかけて、笑って、祈って。

 そうして“聖女”が出来上がっていく。


 私はその仕組みの中で、何度も同じ言葉を磨いた。

 角を丸めて、血が見えないように布で包んで。


 渡しやすい形にして、誰かの手のひらに置いた。


 あの人たちは、私より上手に嘘をついた。

 私より長く、嘘で誰かを守った。


 私より静かに、嘘で自分を壊した。


 「……レオン、これ、誇りじゃ、ないですよね」

 「ああ」

 「じゃあ、何ですか」

 「孤独だ」


 即答だった。

 私が、ずっと、名前をつけられずにいた感情だった。


 「孤独……」

 「ああ」

 「そう、ですね。きっと、ずっと、孤独でした」

 「みんな、そうだ」

 「みんな、ですか」

 「あんたも、こいつらも」

 「……レオンも、ですか」

 「俺は、別だ」

 「ほんとに、ですか」

 「……いや」

 「やっぱり」

 「ばれたか」

 「ばれます」

 「そうか」

 「私、レオンの『問題ない』、もう、覚えました」

 「……そうか」

 「同じ顔、しますもん。あなたも」


 「……ごめんなさい」


 小さく言っても、紙は返事をしない。

 返事をしないことが、いちばん苦しい。


 「ごめんなさい……気づいてあげられなくて……」


 声が崩れた。

 息がつかえて、喉が痛い。


 「凛」

 「……はい」

 「謝るな」

 「でも」

 「あんたが謝る相手じゃない」


 レオンの声は、いつもより、少しだけ低かった。


 「謝るのは、こいつらを使い潰した連中の仕事だ」

 「……レオン」

 「あんたは、泣け」


 指が、紙を濡らした。

 しずくが、古い墨に滲む。


 私が今、彼女の文字を、また少し、薄くしている。


 「あ……薄く、なって」

 「いい」

 「えっ」

 「滲んだぶんは、あんたが覚えた」

 「……」

 「それで、足りる」


 短い言葉だった。

 でも、その三つで、私は、日記を抱きしめ直せた。


 紙が折れるのも構わずに。


 「……私、ずっと、自分だけだって思ってた」


 苦しいのは私だけだと。

 つらいのは私だけだと。

 だから、誰にも言えないのだと。


 「違った。私の前に、何十人もの“私”がいた」

 「ああ」

 「何百人かも、しれない」

 「ああ」

 「同じ役目、同じ言葉、同じ沈黙」

 「……ああ」

 「知らないまま、私は同じ道を踏んでた」




 音がした。

 椅子が引かれる音。


 レオンが、隣に座った。

 何も言わない。

 肩に手を置きもしない。

 ただ、そこにいた。


 その沈黙が、冷たくなかった。

 壁じゃない。

 床だ。

 崩れた私を受け止める、動かない床。


 「……ありがとう」

 「礼はいらん」

 「でも」

 「いる、と決めた」


 「……レオン」

 「ああ」

 「隣に、いてもらって、いいですか」

 「いる」

 「ずっと、ですか」

 「ずっとだ」


 即答だった。

 考える間もなかった。

 その短さが、いちばん泣けた。


 私は袖で目元を拭った。

 拭っても、止まらない。


 日記の束を見た。

 束の端から、一枚だけ紙片が覗いている。

 誰かが挟んだ、しおり代わりの紙だ。


 引き抜く。

 震える字で、短く書かれていた。

 でも、最後だけは整っている。


 『いつか、誰かが嘘をやめてくれますように』


 息を、止めた。


 「……レオン」

 「ああ」

 「この人、知ってたんです」

 「何を」

 「自分の言葉が、嘘だって」

 「……ああ」

 「嘘を続けることが、祈りじゃなくて、呪いになるって」


 レオンは、頷いた。

 長く、ゆっくりと。


 「託したんだな」

 「はい」

 「誰に」

 「……知らない、未来の誰かに」


 私に。


 涙が、また落ちた。

 今度のは、自分のためじゃなかった。

 彼女たちのために、落ちた。


 たぶん、生まれて初めて。

 私は、自分の外の誰かのために、泣いていた。


 「……レオン」

 「ああ」

 「初めて、なんです」

 「何が」

 「他人のために、泣くの」

 「……そうか」

 「変、ですよね」

 「いや」

 「変じゃ、ないですか」

 「真っ当だ」




 「凛」


 レオンが、ようやく名前だけを呼んだ。

 それだけで、胸の糸が切れた。

 私は息を吐いた。


 「レオン、私……嫌なんです」


 声が掠れる。

 止めない。

 止めたら、また“いつもの嘘”に戻る。


 「私だけが耐えて、誰かが救われるなら、って」

 「ああ」

 「そうやって、自分を消して」

 「ああ」

 「それを、美談びだんみたいにされるのが」


 日記の束に、指をかけた。

 紙の角が、少し痛い。

 その痛みが、今はありがたい。


 「この人たち、みんな、私だった」


 私の過去じゃない。

 私の未来でもない。

 私の“構造”だ。

 役目を与えられて、言葉を選べなくなっていく構造。

 優しさが、逃げ道を塞いでいく構造。


 膝の上で、こぶしを握った。

 震えが、指先に残っている。


 「だから……もう、終わりにします」


 レオンは、何も言わない。

 でも、隣で呼吸をしていた。

 私の言葉が空中で消えないように、重しみたいに。


 顔を上げた。


 「この人たちのためにも……もう、嘘の『大丈夫』は、終わりにします」


 声は、まだ泣き声だった。

 でも、嘘じゃなかった。


 「凛」

 「はい」

 「俺も、嘘の『問題ない』を、やめる」


 レオンの声が、低く揺れた。

 私は、目を見開いた。


 「レオン、も……ですか」

 「ああ。あんたの前でだけは」

 「……約束、ですか」

 「約束だ」

 「私も、レオンの前でだけは」

 「ああ」

 「『大丈夫』、もう、言いません」

 「言うな」

 「言ったら、怒ってください」

 「怒る」

 「……ありがとう、ございます」

 「礼は、いらん」

 「ふふ」

 「笑うのは、いい」

 「はい」


 短い、約束だった。

 でも、それが、今夜の二つ目の灯りになった。


 机の上で、日記の束が、まだ少し開いている。

 濡れた指の跡が、ページの端に残っていた。

 古い文字の上に、新しい雫がひとつ、まだ乾かずに光っている。




**あとがき**


EP15「あの人たちも私だった」、お読みいただきありがとうございます。


凛が、初めて「自分以外の誰か」のために泣いた回でした。

百年分の「大丈夫です」を、一冊ずつ手に取りながら——どの時代の聖女も、同じ言葉で、同じように消えていった。その事実が、凛の中の最後の蓋を、静かに外してくれた気がしています。


レオンは、ほぼ何もしません。

ただ、隣に座って、「ああ」と返すだけ。

でも、その沈黙が、崩れた人を受け止める「床」になる——そんな関係を書きたかった回でもあります。


「あんたの前でだけは」

最後のレオンの一言は、彼にとっても初めての自己開示でした。凛だけじゃない。彼もまた、ずっと「問題ない」と言い続けてきた人なのです。


次話、凛は日記の宛先について、自分なりの答えを持ち始めます。

引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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