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第16話: 命を削らない方法

 指先に、まだインクの匂いが残っていた。


 昨日のうちに何度も握り直した羽根ペン。爪の根もとが黒い。

 怖い夢の続きみたいに、夜の途中で何度も目が覚めた。


 でも今朝は違う。

 目を開けた瞬間に、頭の中で線が走った。


 ——治すんじゃない。減らせばいい。




 エルザさんの居間。机の上が、紙の海になった。


「凛ちゃん、紙が泣いてるよ」


「えっ」


「角が、もう曲がってる」


「あ……すみません」


「謝らんでええよ」


「はい」


「ただ、ねえ」


「はい」


「朝ごはんが、冷めてる」


「あ……」


「先に食べる」


「……はい」


「それから、紙のこと」


「はい」


「順番、大事だよ」


「……はい」


 目の前のスープに湯気が立たない。

 私はそっとさじを取った。木のさじが、思ったよりあたたかい。


「美味しい」


「そうかい」


「玉葱、ですか」


「玉葱と」


「うん」


「あとは、塩」


「塩」


「塩しか入っとらん」


「……それだけで」


「それだけ」


「……だから、美味しいんですね」


「だろうね」


「不思議」


「煮るほうが、仕事してる」


「火が」


「うん」


「人間は、待つだけ」


「……待つだけ」


「そういうもんだよ」


 エルザさんは火鉢ひばちの縁を指でなぞって笑った。

 その指のしわが、私の机の地図の線と少し似ていた。




 食べ終わってから、私はもう一度ノートを開いた。


 治癒魔法は〝治す〟。

 傷を閉じる。熱を下げる。血をめぐらせる。

 いきなり結果まで運ぶ魔法。


 その代わりに、私の中の何かが燃料として持っていかれる。


 ——だったら。

 ——治す場面そのものを、減らせばいい。


 前世の私が、いちばん最初に習ったこと。


『予防は、最良の治療』


 手を洗う。水を清潔に保つ。傷をふさぐ前に、まず触らせない。

 眠らせる。食べさせる。冷やさない。


 それは魔法じゃなくて、生活だった。

 でも、ここには魔法がある。

 生活と魔法を、ひとつに編んだら。


 胸の奥が、ぱっと熱を持った。




「凛ちゃん」


「はい」


「楽しそうだ」


「えっ」


「目が、違うよ」


「目、ですか」


「うん」


「どう、違いますか」


「光ってる」


「……そんな」


「今日は、誰のための顔でも、ないね」


「……」


「いい顔だよ」


「……ありがとう、ございます」


「礼を言うことかね」


「あ……」


「ふふ。ま、ええよ」


 私は、何も言えなくなった。

 言葉のかわりに、鉛筆を握り直した。


 誰かのためじゃなく、私のために動いている指。

 その指がふしぎと震えていない。




 まずは小さく。


 私は床に木炭で円を描いた。

 中心に置くのは、水の入ったわん


 水は、病の入口になる。

 前世では煮沸しゃふつが基本だった。

 でも薪は貴重で、村人が毎食やるのは難しい。


 だから、〝水を清潔に保つ〟魔法陣。

 病を治すんじゃない。

 病を、入れない。


清浄せいじょう


 小さく唱える。

 椀の表面が、ふっと光った。


 ……でも、すぐに消えた。


「……弱い」


 声に出してから、原因が分かった。

 意図が曖昧だ。

 清浄って、何を、どこまで。

 泥か。匂いか。それとも、見えない病か。


 私は図を書き足した。


 ——濁りを沈める。

 ——腐敗を進める動きを止める。

 ——虫を寄せない。


 全部を一度に欲張れば、また深く触れてしまう。

 深く触れれば、また私の中の何かが削れる。


 魔法は、言葉の定義がすべてだ。

 前世の〝細菌〟も〝ウイルス〟も、この世界の言葉になっていない。

 なら、現象として切り取る。


 〝腐る原因〟ではなく〝腐る変化〟。


 私は円の外側に、もう一本線を足した。

 内側は水の状態。

 外側は侵入の遮断。

 結界けっかいの記号を、ほんの少しだけ借りる。


「……もう一度」


 息を整える。


「清浄。変質を遅らせ、侵入を防ぐ」


 今度は、光が消えなかった。

 薄い膜が、椀の縁にそって、静かに張る。


 胸の奥を確かめた。

 冷えはない。

 視界も遠のかない。


「……っ」


 声にならない、ちいさな勝ち。

 涙が一粒だけ落ちて、紙ににじんだ。




「凛、これをどこに置く」


 戸が開いた。


「あ、レオン」


「重い」


「……ごめんなさい」


「重いとは言ったが、嫌だとは言ってない」


「……はい」


「どこだ」


「机の下」


「机の下」


「今、床が、実験場で」


「実験場」


「うん」


 レオンは目を丸くして、床の炭の線を見た。

 それから、線を踏まないようにつま先立ちになる。


「凛」


「はい」


「これ、踏んだら、危ないか」


「……たぶん、しない」


「たぶん、は怖いな」


「……ですよね」


 自分で言って、しまったと思った。


「凛ちゃん、からかうのはそこまで」


「すみません、エルザさん」


「ふふ」


「爆発はしません」


「ほう」


「水が、ちょっと長持ちするだけです」


「……水が、長持ち」


「腐りにくくなる、って言えばいいかな」


 レオンは首をかしげて、それでも頷いた。


「分からんが、すごいな」


「……まだ、小さいです」


「小さくても、ある」


「えっ」


「ない、と、ある、は、違う」


「……」


「これは、ある」


「レオン」


「ん」


「うまく、説明できなくて」


「いい」


「いいんですか」


「いつか、分かる」


「いつか」


「俺が、追いつく」


「……ふふ」


「笑うな」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「は、はい」


 うまく言えないことを、こんなふうに、ちゃんと受け取ってもらえる日が来るなんて。




 昼が、過ぎていく。

 茶が一度淹れ替わるあいだ、私はノートに大きな字を書いた。


 〝防疫ぼうえき〟。


 村全体に、病が広がらない仕組み。


 前世の私は、流行りゅうこうの怖さを知っている。

 ひとりの咳が、家族に移る。

 家族から、隣に移る。

 隣から、村に移る。


 そのたびに治癒魔法を振るうのは、火事に水をかけ続けるのと同じだ。

 燃え広がらない壁を作るほうが、合理的。


 でも、村全体の結界はとても大きい。

 ひとりの魔力でずっと支えたら、結局、私が削れる。


 ——だから、三つの柱を立てる。


「魔法陣は、術者じゃなく、場所に固定する」


 声に出して、紙に書いた。


「維持に必要な力は、地脈ちみゃくと日光から、少しずつ借りる」


 もうひとつ。


「効果は、〝治す〟ではなく、〝広げない〟に絞る」


 絞る。

 これが、いちばん大事だ。

 欲張らないほど、私の寿命じゅみょうから遠ざかる。




「エルザさん」


「うん」


「お訊きしていいですか」


「ええよ」


「人が集まる場所の、空気を、よくする」


「うん」


「そういう、薬草の使い方って」


「あるよ」


「ある、んですか」


「昔から、ある」


「……どうやって」


「戸口に吊るす。煮出す。袋に入れて懐に。流行はやりが来た年は、子に持たせる」


「……それです」


「うん」


「そこに、魔法陣を、重ねたい」


 エルザさんは、皮を剥く手を止めた。

 私のほうを見て、ゆっくり頷いた。


「凛ちゃんは」


「はい」


「命を守るために、考えてるんだね」


「……はい」


「いいね」


「もう」


「うん」


「削りたくないんです」


「うん」


 短いやり取りが、紙の上で記号になるみたいに、胸の奥に積まれていく。




 夕方になった。

 日が窓枠を一つ越える頃には、試作の防疫結界が、玄関ひとつぶんの大きさになっていた。


 戸口の上に薬草の束を吊るす。

 足元に、小さな石を三つ置く。

 石は、くいのかわり。

 魔法陣を、地面に固定するためのアンカー。


「凛」


「はい」


「これ、結界か」


「……うん」


「俺は、どこに立てばいい」


「中、で」


「中」


「外側に病、内側に人」


「分かった」


 レオンが戸口の内側へ動いた。

 私はそれを見届けてから、炭の線をなぞった。


 最後に、結界の〝向き〟を指で示す。


 内側の人を守る。

 外側の病を、薄める。

 〝押し出す〟ではない。

 〝入れない〟。

 攻撃ではなく、選別。


 手を胸に当てて、呼吸を数える。

 いち、に、さん。

 四つめで、息を吐いた。


「防疫。侵入を遅らせ、滞留たいりゅうを減らす」


 空気が、すっと澄んだ気がした。

 目に見えない膜が、戸口の形にゆっくり立ち上がる。

 薬草の香りが、少しだけ強くなった。


「……あれ」


 レオンが、鼻をひくつかせた。


「いい匂い」


「うん」


「でも、ちょっと、冷たい」


「感じるんですか」


「冷たい」


「……ふふ」


「笑うな」


「ごめんなさい」


「うれしい顔をするな、と、言ってない」


「……はい」


 私は胸の奥をもう一度確かめた。

 冷えはない。

 遠のく視界もない。

 寿命を削る代償も、ない。




「凛ちゃん」


「はい」


 エルザさんが私の頭に、そっと手を置いた。

 大きくて、あたたかい手。


「小さくても」


「はい」


「ちゃんと、ある」


「……はい」


「あんたが、作ったね」


「……はい」


「誰の指示でもなく」


「……はい」


「自分の指で」


「……はい」


「いい音だね、それは」


「音、ですか」


「うん」


「結界、鳴ってますか」


「鳴っとらん」


「えっ」


「あたしの胸んなかが、鳴っとる」


「……」


 その言葉が、紙のいちばん上に書きたい言葉だった。

 私は、頷くことしかできなかった。




 夜。

 本を閉じても、頭の中の線は消えなかった。


 治癒魔法は、最後の切り札。

 その前に、守れるものがある。


 水。空気。手。傷。眠り。

 そして、魔法陣。


 私は今日のページの最後に、結論を書き足した。


『命を削らない方法は、〝治す〟のかわりに〝防ぐ〟を、積み上げること』


 胸が、まだ熱い。

 怖さは消えていない。

 でも、怖さの上に、細い道ができた。


「これなら……削らなくて、済む」


 ちいさく呟いた、その瞬間。


 玄関のほうで、ぱちり、と何かが鳴った。


 立てたばかりの結界の膜が、揺れる。

 外の闇が、ほんの一瞬だけ、〝指〟の形にゆがんだ。


 私は息を止めた。


 ——今、誰かが、結界に、触れた?


 机の上で、インクの匂いがする羽根ペンが、転がって止まった。



第十六話「命を削らない方法」をお読みいただき、ありがとうございます。


凛がはじめて、〝治す〟ではなく〝減らす〟という方向に、自分の足で踏み出した話でした。前世の看護の知識が、辺境の薬草と魔法陣と編み合わさっていく感覚を、書きながら私自身もわくわくしていました。


劇的なシーンはありません。床に炭で円を描いて、椀の水に膜を張って、戸口に薬草を吊るすだけ。でも凛にとってはそれが、誰かに頼まれたわけでもないのに、自分の意思で世界に手を伸ばした、はじめての作業だったと思います。


そして最後に、結界に触れた〝指〟。

凛のささやかな勝利の隣で、ちいさな影が動きはじめます。


次話、第十七話「侍女長の末路」では、視点が王都に戻り、凛がいなくなった神殿の歪みが噴き出します。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。


歩人あゆと

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