第17話: 侍女長の末路
朝の鐘が鳴った。
白い祈祷服の少女が、廊下の角で立ち止まっている。
名はアリア。新しい候補の一人。
私は鍵束を鳴らしながら近づいた。
「聖女候補様。朝の祈りが終わるまで、口を利いてはなりません」
少女は、まばたきを一つしただけだった。
「……それ、神官様からは聞いてません」
静かな否定。反抗ですらない。
私の胸の奥で、固い何かがきしんだ。
「神官は聖務を司ります。生活の規律は、侍女長の管轄です」
「ですから?」
「ですから、私の指示に従っていただきます」
私は笑みの形だけを作った。
手の甲を重ね、肩の角度を整える。
凛が見ていたのと同じ姿勢だった。
——凛なら、ここで「はい」と返した。
目を伏せ、肩をすぼめ、息さえ小さくした。
「あなたのためを思って、申し上げているのですよ」
私は声を柔らかく整えた。
「口数は、心の散漫を生みます」
「散漫になるのは、祈りの内容が分からない時です」
「聖女候補様が、質問など——」
「質問していい、って大神官が言ってました」
大神官。
その名が、喉の奥に冷たい針を刺す。
「……祈りの後です」
「分かりました」
「ええ、それでよろしい」
「祈りの後で、必ず答えてくださいね」
私は言い切って、歩みを促した。
拒まれているのに、拒まれていないふりをした。
凛には、それで通った。
凛は、私の「ふり」を現実に変える役目を果たしていた。
アリアは祈りの間でも、背筋を伸ばして正面を見ていた。
私の視線を受けても、縮まらない。
祈祷が終わると、彼女は私の前に立った。
「先ほどの質問、よろしいですか」
「……ええ」
「『心の散漫』というのは、誰が決めるのですか」
「神官と、私です」
「私自身ではなく」
「聖女候補様は、まだ未熟です」
「未熟だと、誰が」
「私が、判断します」
「……分かりました」
分かった、と言いながら、アリアは少しも納得していない目をしていた。
——なぜ。
なぜ、同じ聖女候補なのに、こんなに違う。
昼前。
次の候補は、ミナという。
まだ幼い。だが目がよく動く。
物の位置、人の距離、空気の変化を測る目だ。
凛にも、似た目があった。
けれど、凛は測った結果を口にしなかった。
卓に銀盆が置かれている。砂糖菓子が三つ。
私はそれを取り上げた。
「聖女候補様は、甘いものを控えなさい」
ミナが顔を上げる。
「食欲は、欲望です」
軽い嗜好を一つ奪う。
それだけで、心は言うことを聞く。
凛はそうだった。一度叱った時、彼女は震えた。
「ごめんなさい」を何度も繰り返し、次から手を伸ばさなくなった。
私はその沈黙を「成長」と呼んだ。
だがミナは、私の手元をじっと見て、あっさり笑った。
「じゃあ、いりません」
「……結構です」
「代わりに、パンを一つください」
「……は?」
「祈りって、お腹が減ります。倒れたら困りますよね」
言い方は丁寧だった。
私を責める響きはない。
ただ、当然のことを、当然に言っている。
「聖女候補様は、節制を——」
「節制は、自分で決めます」
「ミナ様」
「大神官に、栄養を取れって言われました」
また、大神官。
背後で、若い侍女が目を泳がせた。
いつもなら、私の言葉に合わせて頷く者たちが。
今は視線を合わせない。
盆の端を握りしめて、床の模様を見ている。
「……ミナ様。これは、規則です」
「規則なら、書面を見せてください」
「書面、ですか」
「はい。誰が、いつ、どんな根拠で決めたか。それが書いてあれば、私は従います」
書面。
あの子は、凛が一度も言わなかった言葉を、息をするように口にする。
私は唇の裏を噛んだ。
紙が必要なのではない。
私の「声」だけでは足りない、と言われているのだ。
「……後で、用意します」
「はい。じゃあ今は、パンを」
ミナは引き下がらない。
私は盆を持つ侍女に目を向けた。無言の命令。
しかし侍女は、私の視線を受けて一瞬だけ固まり、すぐにミナの方を見た。
「……パンを、追加でお持ちしますね」
敬語は変わらない。
なのに、主語が私ではない。
胸の中で、何かが鈍く崩れた。
午後。
セシルは、祈りの後の回廊で私を呼び止めた。
呼び止めた、のだ。
凛は、追いかけてこない。
凛はいつも、追われる側だった。
「侍女長。一つ、確認させてください」
彼女は礼儀正しく頭を下げた。
だが、その後に続いた言葉が刃だった。
「私たちの行動範囲は、どこまで許可されていますか」
「聖女候補様は、神殿の外へ出てはなりません」
即答した。
私の中で、それは当然の枠だった。
外は危険。誘惑。混乱。
凛を閉じ込めた時も、同じ理屈を使った。
「庭もですか」
「庭は——監督の下で」
「監督って、侍女長ですか」
「ええ、私が」
「常にですか」
「常に、です。お一人での外出は、認めません」
「では、私たちには、一人になる時間がないのですか」
「必要ありません。聖女候補に、一人の時間は」
私は頷いた。これも当然。
凛は、私が見ていれば安心した。
……安心したように、見えた。
セシルは、ふっと目を細めた。
怒ってはいない。困ってもいない。
ただ、距離を測り直す目。
「私は、大神官から伺いました」
「……何を」
「『息が詰まるなら庭へ出なさい』と」
「息が詰まる、など。甘えです」
言った瞬間、回廊の空気がわずかに硬くなった。
近くの侍女たちが、足を止めずに通り過ぎる。
通り過ぎるふりで、逃げた。
——凛なら、ここで笑った。
怯えた笑い。許しを乞う笑い。
「ごめんなさい、私が悪いです」と言って、自分の胸を押さえ、息苦しさを罪に変えた。
それを異常だと、私は考えなかった。
異常なのは、今、目の前にあるものだ。
「侍女長」
セシルの声が、静かに低くなる。
「私は、聖女候補です。囚人ではありません」
穏やかな言葉だった。
その穏やかさが、私の足元を崩した。
囚人。
私が、凛に与えた日々の名前。
「……あなたのためです」
「いいえ」
「外は、あなたを壊します」
「壊れるかどうかは、私が決めます」
「……っ」
「侍女長」
「何ですか」
「これ以上、私たちを子ども扱いするのは、やめてください」
「私は——」
「お願いします」
セシルは深く礼をして、去っていった。
残されたのは、私の掌の汗と、回廊に残る自分の声。
「壊します」だなんて。
私が、そんな言葉を口にする側だなんて。
……それでも、私は間違っていない。
間違っていないのに、なぜ誰も頷かない。
夕刻。
侍女たちは、私の周りを避けるようになった。
視線が合うと、仕事があるふりをする。
布を畳む手が、急に忙しくなる。
廊下の角の私語が、私を見ると消える。
凛がいた頃は違った。
私が廊下に立てば、空気が整った。
侍女たちは私の背中に従い、凛はその先に押し込められていた。
私の言葉は規則になり、規則は正義になった。
正義は、こんなに脆いものだったか。
私は執務室に戻り、過去の「指導記録」を開いた。
凛の文字。震えているのに、丁寧に書かれた反省文。
「私は未熟です」
「ご迷惑をおかけしました」
「次からは、必ず」
紙が、私を落ち着かせるはずだった。
けれど今は違う。
反省文は、私の手の中で軽すぎる。
この軽さは、何だ。
凛の「はい」が軽かったのか。
私の言葉が、軽かったのか。
机の引き出しに、聖具の小さな札がある。
聖女の部屋へ出入りを許可する札。
以前は、私の名で通った。
私はそれを握り、立ち上がった。
聖女の部屋の扉は、閉じていた。
白い扉に刻まれた紋が、淡く光っている。
私は札をかざした。
いつもの手順。いつもの権限。いつもの私。
紋が、冷たく瞬いた。
——拒絶。
光が、私の指先を押し返す。
まるで魔法が「違う」と言っているみたいに。
「……なぜ」
札を、もう一度。
もう一度、もう一度。
光は、同じ反応を返すだけだった。
背後で、足音。
振り向くと、大神官ヴェルナーが立っていた。
長い外套。灰色の瞳。表情の動かない顔。
彼の前では、私の言葉がいつも少し遅れる。
「侍女長。そこは、現在封印区画だ」
「封印……? 私は、侍女長です」
「だから?」
「管理のために——」
「管理のために、か」
ヴェルナーは、私の手元の札を見た。
見ただけで、私の胸が縮む。
「新しい候補のために、環境を整えねばなりません」
「不要だ」
「いいえ、必要です。規律がなければ、聖女は——」
「規律?」
声は低かった。
問いではなく、刈り取る刃だった。
私は言葉を継ぐ。
正しい言葉を、正しい順番で。
いつもそうしてきた。
「聖女候補様は、弱いのです」
「ほう」
「外の刺激、甘え、欲望。放置すれば、すぐに——」
「放置?」
ヴェルナーが一歩、近づく。
「君は、彼女たちを『放置』していない、と言うのか」
一瞬、言葉が止まった。
放置していない。放置していないから、私がいる。
私は、必要だ。
必要でなければ——
「私は、あなたのためを思って——」
口をついて出た。
凛に何百回も言った言葉。
言えば、相手が黙った言葉。
言えば、相手が自分を悪者にした言葉。
しかしヴェルナーは、黙らなかった。
「その言葉を、凛に何度言った」
名を出された瞬間、胃が反射で縮んだ。
「……凛様は、特別に未熟で」
「特別、か」
「はい。だから私は——」
「君が作った『特別』だ」
胸の内が、ざわつく。
否定したい。
だが、言葉がすぐに形にならない。
私が、作った?
そんなはずはない。
私は、ただ正しく導いた。
聖女が道を外れないように。
外れたら、戻るように。
ヴェルナーは扉の紋に手をかざした。
淡い光が彼の指に吸い付くように集まり、紋が静かに沈む。
「この区画への出入りは、大神官権限に限定した」
「……なぜ、そこまで」
「君が、候補たちに同じことを始めたからだ」
「同じこと、とは」
「『従わせる』ことだ」
「私は、規律を——」
「アリアが、ミナが、セシルが、私に告げた」
「……告げた」
「『侍女長が、私たちを囚人扱いする』と」
「そんな、私はただ——」
「君の『ただ』が、凛を七年間沈めた」
私の背中に、冷たい汗が流れた。
見られている。把握されている。
今まで、凛だけが私を見ているはずだった。
「私は、神殿の秩序を守っているだけです」
「秩序は、聖女を壊す免罪符ではない」
壊す。
さっき自分が口にした言葉が、今度は頭上から落ちてくる。
「……私が、壊したと?」
声が震えた。
怒りではない。恐怖でもない。
理解が追いつかない時の、あの空白の震え。
ヴェルナーは、表情を変えないまま告げた。
「侍女長マティルダ・ヘンドリクス。君は、候補への直接指導から外れる」
耳が、音を拒んだ。
外れる? 私が?
なら、私は何をする。
誰のために、何を整える。
整える相手がいなければ、私は——
「待ってください。私は、必要です」
「もう一度言うが、不要だ」
「彼女たちは、まだ——」
「まだ、何だ」
「……まだ、従い方を、知らないのです」
「『従い方』」
「はい」
「君が教える、と」
「はい。それが、私の——」
「もう、いい」
「……お願いです」
「終わりだ、と言った」
「私から、この役目を取らないで」
「君から取るのではない。候補から取り返すのだ」
「……取り返す」
「彼女たちの、時間と、声をだ」
言ってしまった。
口の中が、鉄みたいな味になった。
ヴェルナーは、ほんの少しだけ目を細めた。
怒りではない。哀れみでもない。
ただの、確定。
「従わせる仕事は、もう終わりだ」
その日の夕刻。
侍女詰所は、私の足音に沈黙した。
誰も、顔を上げない。
私は机に手をついて、立ったまま言った。
「明日からの候補の予定表を——」
「侍女長」
若い侍女が、紙束を胸に抱いたまま、私を遮った。
遮ったのだ。
「大神官から、新しい指示が来ています」
「……新しい、指示」
「はい。本日付で」
紙束の一番上に、大神官の封蝋が見えた。
私の名前は、そこになかった。
「……私の、承認は」
「必要ありません、と」
侍女は視線を落とした。
罪悪感の動きではない。
ただ、これ以上踏み込まないという線引き。
彼女の肩が、凛のように縮まないことが、私を苛立たせる。
「あなたたちは、誰のお給金で——」
「侍女長」
「……何」
「その先は、言わない方がいいです」
「私に、命令するのですか」
「いいえ。お願いです」
言いかけて、飲み込んだ。
凛に言ったことはない言葉だ。
ここで言えば、私が汚れる。
汚れるのが怖い。
正しさだけが、私の服だ。
私は踵を返した。
背中に、誰も追ってこない気配がした。
かつて、凛が私の背中を追ってきたようには。
夜。
私は、封印区画の前に立っていた。
昼に拒まれた扉。
誰にも見られない時間なら、光は私を通すのではないか。
——そんな理屈のない期待に、縋っている自分が嫌だった。
札をかざす。
光が、冷たく瞬く。
拒絶は、昼と同じ。
扉の向こうは、静かだ。
凛がいた頃は、呼吸の気配があった。
小さく「はい」と返す声が、壁越しに滲んでいた。
私は、その声で、自分が必要だと確認できた。
今は、何もない。
手の中の札が、ただの木片みたいに軽い。
「……なぜ、言うことを聞かないの」
声が漏れた。
闇に吸われて、返ってこない。
「私は、あなたのために——」
言い終える前に、空気が冷えた。
答える相手がいない言葉は、こんなにも惨めなのか。
私は扉に額を寄せた。
石の冷たさが、頭の熱を奪っていく。
不意に、思い出が刺さった。
凛が扉の内側で、同じように壁に寄りかかっていた姿。
私が近づくと、彼女は反射で背筋を伸ばした。
「聖女様は、泣いてはなりません」
「……はい」
「涙は、神への不信です」
「……はい、マティルダ様」
「お分かりですね?」
「……ごめんなさい」
「謝るのも、不要です」
「……はい」
引っ込められない時は、謝った。
謝るほど、私の言葉は強くなった。
強くなって、何を守った。
誰を守った。
——違う。
私は、守った。
守ったから、ここまで来た。
私が間違っているなら、私は何だった。
背後で、紙が擦れる音がした。
振り向くと、廊下の端に誰かが立っている。
侍女か。神官か。
暗くて顔が見えない。
だが手元の白い封筒だけが、やけに目立つ。
大神官の封蝋だ。
その人物は、こちらへ歩き出した。
封筒を差し出す距離が、どんどん縮まる。
私は息を止めた。
私の名がそこに書かれているのか、いないのか。
次の一行で、私の役目が、終わるのか。
封筒が、指先に触れた。
冷たい蝋の感触が、告げている。
——まだ、終わっていない。
終わっていないのに、もう戻れない。
札が、掌から滑り落ちた。
石の床に当たって、乾いた音を立てる。
誰も、それを拾わなかった。
ご覧くださりありがとうございます。
第17話「侍女長の末路」は、ざまぁ第3波として、凛を縛り続けてきた侍女長マティルダの視点で書きました。
彼女は典型的な「自分も搾取されてきた側」の人間です。だからこそ、凛を従わせる以外の方法を持っていない。新しい候補たちが当たり前のように「書面をください」「自分で決めます」と言うたびに、彼女の足元が崩れていきます。
凛は声を上げることで自由になりました。マティルダは、声を出してくれる相手を失うことで、自分の存在意義そのものを失います。鏡像の崩壊です。
次話、第18話「不器用な告白」では一転、辺境の薬草畑に視点が戻ります。霜が降りる夜、レオンが一晩かけて何をするのか——どうぞ、お楽しみに。




