第8話: 使者の来訪
——「聖女を返せ」。静かな村に、王都の命令が土足で踏み込んだ。
その日、リンデン村は、いつもより音が柔らかかった。
霜の残る畑を踏む足音が、土に吸われて丸くなる。薪を割る乾いた響き。煙突から立つ細い煙。どこかの鍋の匂い。
全部が、同じ場所に落ちている。
私はエルザさんの家の前で、桶の縁に手を置いていた。指先が冷えている。胸の中だけが、不思議と静かだった。
「凛ちゃん、手ぇ赤くなるよ」
「……あ」
「中でやんな。風が刺すよ、今日は」
反射で「はい」と言いそうになった。喉の奥で一度、息を飲み込む。
「……もう少し、外で」
「そうかい」
エルザさんはそれだけ言って、笑った。
許可じゃない。許しでもない。当たり前みたいに、私の言葉が通る。
——だからこそ。
遠くから、いつもの村の音じゃないものが混じった瞬間、背中が固まった。
蹄の音。複数。硬い道を叩く、規則正しいリズム。
土の匂いに、金属の匂いが差し込んでくる。
胸の奥で、古い鐘が鳴った気がした。大神殿の鐘。呼ばれる前に身体が勝手に整列する、あの音だ。
私は桶から手を離した。無意識に背筋が伸びかけて——止まった。
止めたのは、家の陰から伸びてきた影だった。
「……来た」
レオンが、いつの間にか門の外に立っていた。短く言って、道の先を見る。
肩の角度が変わるだけで、空気の密度が変わる。剣を抜いていないのに、剣の気配だけが先に来る。
視線の先、村の入り口の方から、馬に乗った騎士が二人、三人。後ろに荷を載せた馬車。
黒と白の外套。胸元の金の刺繍。王都で何度も見た意匠だ。
「……騎士団」
私の口から、勝手に名前がこぼれた。
畑の手が止まる。子どもの声が途切れる。
「母ちゃん、誰?」
「しっ。中入ってな」
「やだ」
「いいから入ってな」
犬が一度、低く吠えた。
馬が止まった。先頭の男が、鞍から降りる。
まだ若い。整えられた髪。磨かれた革靴。泥が似合わない匂いがする。
男は周りを見回し、鼻で笑った。
「ここがリンデン村か」
声が高い。よく通る。誰かに聞かせるための声だ。
「王国騎士団より来た。——王太子殿下のご命令である」
命令、という言葉だけで、私の喉が狭くなった。
命令を聞いたら、動く。動かなきゃいけない。動かなかったら——
身体が一歩、前に出かけた。出ようとして、出られなかった。
畑から戻ってきたハンスさんが、私の前に立ったからだ。鍬を肩にかけたまま。逃げない背中。
「おいおい。お偉いさんが、こんな辺境まで何の用だい」
「平民が口を挟むな」
「口は挟むさね。ここ、俺らの村だぞ」
「……」
「で、用件は?」
使者が眉をひそめた。
「聖女リーネを引き渡せ」
空気が凍った。
聖女。リーネ。その名前は、私の皮膚の内側に貼り付いた札みたいに、剥がれない。
「聖女リーネは、王都ルミエールへ戻る。王太子殿下が直々にお呼びだ」
「ふぅん」
「抵抗は許されない」
許されない。その響きが、刃になって胸に刺さる。
私は息を吸って、言おうとした。「はい」と。「承知しました」と。そう言えば、誰も傷つかない。いつもの場所に戻れる。私が我慢すれば——
「凛ちゃんは、ここにいるよ」
エルザさんの声が、私の隣で落ちた。
振り向くと、エルザさんが、腰に手を当てて立っていた。小柄なのに、いつもより大きく見える。
茶色い目が、まっすぐ使者を射抜いていた。
「凛ちゃん、って……」
使者が鼻で笑った。理解できない、という笑い方だ。
「その呼び方は何だ。聖女に対する無礼だろう」
「無礼?」
「……っ」
「あんた、何処の馬の骨だい」
「な——」
「どこの誰が、よその村の子に手ぇ伸ばすんだい」
「黙れ、老婆」
「あたしの目が黒いうちは、誰にも渡さないよ」
「ばあちゃん、強ぇ」
「しっ、今いいとこ」
穏やかな人が笑わないとき、怖い。
たったそれだけの言葉なのに、村の空気が変わった。背中が増えていく。
ハンスさんの横に、籠を抱えたおばさん。薪を背負った青年。子どもを抱いた母親。老人が杖をついて、ゆっくり前へ出てくる。
誰も剣を持っていない。誰も鎧を着ていない。
「ほれ、爺さん、こっち」
「歩くの遅くて悪ぃな」
「いいって。ゆっくりでいい」
ただ、生活の道具を手にして、立っている。
「そうだよ」
籠のおばさんが言った。
「凛ちゃんは、うちの村の子だよ」
「うちの子さね」
「連れていくなら、まず俺らを通せ」
「鍬と鎌で迎え撃つぞ」
「お、いいねぇ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
“うちの村の子”。私は、いつも“国の宝”だった。“聖女様”だった。“資産”だった。
道具だった。
でも今、目の前の人たちは、私を——
「……村の子?」
別の誰かが、もう一度繰り返した。
当たり前みたいに。
使者は、苛立ったように唇を歪めた。
「愚か者ども。聖女は国のものだ」
「国のもんとは、人じゃねえ言い方だな」
「お前らに何が分かる」
「分かるさ。分かるから怒ってんだ」
「囲っていい存在ではない」
「囲っちゃいねえよ。一緒に飯食ってるだけだ」
「飯くらい、誰と食ったっていいだろうが」
「そうそう」
「あんたも食ってくかい」
「結構だ」
ハンスさんが軽く笑う。笑いながらも、足は引かない。
「……国のものじゃない」
低い声が、間に入った。
レオンだった。いつの間にか、私と村人たちの前へ出ている。
一歩。それだけで、使者の視線が釘づけになる。
レオンは何も飾らない革鎧のまま。立ち方だけで、騎士団の礼装よりずっと重い。
右手は、剣の柄に触れている。抜くためじゃない。
いつでも抜ける、という事実を見せるためだ。
「……アッシュフォード」
使者の喉が、小さく動いた。
「貴様か」
「……」
「護衛が、なぜここにいる。聖女を連れ出したのは貴様だな」
使者の声が、さっきより少しだけ尖る。命令口調の裏に、焦りが混じる。
村人たちの背中ではなく、レオンの剣に向けての焦りだった。
「……凛は、ここにいる」
凛。
私の名前。
レオンの口から、私の名前が落ちた。それだけで、鎖の音が少しだけ小さくなる。
「王太子殿下の命だぞ! 逆らえば反逆だ。村ごと——」
言いかけた使者の言葉が、途中で詰まった。
レオンが、ほんの少しだけ前へ出たからだ。剣の鞘が、革に擦れる音がした。
抜いていないのに、抜いたみたいな音。
村の誰かが、息を飲む。私も、息を止めた。
「……命令は」
「……」
「ここでは、通らない」
レオンの声は低くて、平らだった。怒鳴っていない。なのに、使者の顔色が変わる。
使者は唇を噛み、周りを見回した。村人の数。畑の道具。そして、レオン。
計算する目。それが王都の人の目だ、と私は思った。
「……今日は、退く」
使者が言った。悔しさが、言葉の隙間から漏れる。
「だが覚えておけ。聖女リーネは、王太子殿下のものだ」
「もの、ねぇ」
「……忘れるな」
最後まで、“もの”と言った。
言い残して、使者は踵を返した。連れてきた騎士たちも、馬車のそばに戻る。
蹄の音が遠ざかる。村の入口を曲がる。
広場に残ったのは、土と煙の匂いだけだった。
その場の緊張がほどけた瞬間、足の力が抜けた。
私はその場に座り込みそうになって、慌てて膝に手をついた。
怖かった。命令の声が。あの札の名前が。“戻れ”という言葉が。
でも——それ以上に。
私の前に立った背中が、怖かった。怖いくらい、嬉しかった。
「凛ちゃん」
「……」
「ほら、手」
「……はい」
エルザさんが、私の手を取った。
手があたたかい。私の冷えた指先を包み込むみたいに。
「冷たいねぇ」
「……すみません」
「謝るとこじゃないよ」
「……」
「大丈夫。ここはリンデンだよ」
「……はい」
「命令より、パンの焼ける匂いの方が強い村さね」
おかしい言い方なのに、私は笑えなかった。
笑う代わりに、喉の奥が震えた。
「……ごめんなさい」
また癖で出た。私が泣くとき、まず謝ってしまう。
迷惑をかけた、と。役に立てなかった、と。
「謝らなくていいよ」
「……」
「謝るとこ、ひとっつもないからね」
言い切られて、胸が苦しくなる。苦しいのに、息ができる。
ハンスさんが、鍬を肩から下ろして笑った。
「凛ちゃん、俺らぁ畑は弱ぇけどよ」
「こういうのは強ぇぞ」
「……っ」
「な、皆」
「おう」
「そりゃそうだ」
「鍬振るより、人庇うほうが得意さ」
「言うね、ハンス」
「事実だろうが」
「村の子を連れていくなら、まず村を通ってもらわなきゃね」
籠のおばさんが言って、周りが小さく笑う。
その笑いが、私の胸の中の固いものを、少しずつ溶かしていく。
私の目から、勝手に涙が落ちた。冷たい空気の中で、涙だけが温かい。
誰かに見られたらいけない、と思っていた。泣くのは弱さで、聖女には許されない、と。
でもここでは、泣いても世界が壊れない。誰も私を叱らない。
「……私、戻らなきゃって……思って」
「うん」
「身体が、勝手に……」
「うん」
「……動こうとして」
「うん」
言葉が途中で崩れて、声にならない。
恥ずかしくて、情けなくて。村の人たちの前で、こんなことを言う資格がない気がした。
それでも、言いたかった。言っていい、と言われた気がしたから。
レオンが、私の前にしゃがんだ。目線が同じになる。
彼の顔はいつも通り無表情なのに、目だけが柔らかい。
「……凛」
「……」
「聞いてくれ」
「……はい」
「戻るかどうか」
「……」
「決めるのは、あんただ」
あんた。
突き放す言い方なのに、突き放していない。私の手から選択を奪わないための言い方。
「でも」
「……」
「ここにいる間は、守る」
「……レオン、さん」
「あぁ」
「……ありがとう」
「礼はいらん」
レオンの指が、私の袖口のあたりに触れて、すぐ離れた。
触れそうで、触れない。手を取るのは、私が望んだときだけだと知っているみたいに。
たったそれだけ。でも、その言葉は、命令じゃない。
約束だった。
私は、息を吸った。涙が喉に引っかかって、変な音になった。
それでも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
村の人たちが、私の泣き方を責めずに、それぞれの生活の位置に戻っていく。
「じゃ、戻るわ」
「お、おう」
「鍋見てくる」
「子ぉ抱いたまんま忘れてた」
「あぁ、忘れんなって」
「忘れたっていいさ、今日くらい」
薪を抱えて、畑に戻って、子どもの手を引いて。
守るための背中を見せたまま、何事もなかったみたいに。
それが、いちばん泣きたくなるほど優しかった。
「凛ちゃん」
エルザさんが、私の頭をぽん、と軽く叩いた。
「泣きな」
「……はい」
「泣いて、あったかいもん飲んで、今夜はよく寝な」
「……はい」
頷いた。頷けた。
守られたことが、嬉しくて。それを嬉しいと思える自分が、嬉しくて。
私の指先は、まだ少し冷たかった。
でも、握っていた拳が、いつの間にかほどけている。
冷えた指の一本一本が、自分のものだと、ようやく分かる。
涙が止まらないまま、私は知った。
誰かのために耐える涙ではなく、自分がここにいたいと認める涙もあるのだと。
桶の縁に、涙が一粒、落ちた。
水面が小さく揺れて、村の煙の匂いを、また連れてきた。
第8話「使者の来訪」をお読みいただきありがとうございます。
大神殿はもう、凛を取り戻しに来ました。
でも、来た王都の使者よりも先に、村の人たちが「うちの村の子だよ」と前に出てくれた——書きながら、私のほうが泣きそうになりました。
凛はまだ、自分の口で「お断りします」とは言えません。震えながら、身体が勝手に「戻らなきゃ」と動こうとしてしまう。十二年積み上がった鎖は、一度や二度の優しさでは外れません。
それでも、彼女の前には人が立ってくれた。レオンが、エルザさんが、ハンスさんが、籠を抱えたおばさんが、薪の青年が、子どもを抱いた母親が、杖の老人が。
誰も剣を持っていない。誰も「聖女様」とは呼ばない。
ただ、生活の道具を手にして、「うちの子だ」と言ってくれる。
凛が初めて流した涙は、「迷惑をかけてごめんなさい」の涙ではなく、「ここにいたい」と認める涙でした。十二年ぶりに、自分のためだけに泣いた一粒です。
次話、第9話「私の口で言います」。次に使者が来たとき、凛は震える唇で、ついに自分の声を出します。レオンも、村人も、もう代弁してくれません。彼女自身が、自分の口で——どうぞ、見届けてください。
お読みくださり、本当にありがとうございました。




