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第7話: 騎士の不器用

 指先に、土の冷たさが触れた。


 硬いのに、やわらかい。

 爪のあいだに入る粒の感触が、なぜか落ち着く。


 エルザさんの家の裏手。柵の内側の畑に、私はしゃがんでいる。

 芽が出かけた葉ものの列。冬を越えた薬草の株。

 その隅に、勝手に咲いた小さな花。


 日向はあたたかい。

 背中だけが、少しほぐれていく。


 大神殿だいしんでんの庭は違った。

 踏むべき石の順番があった。目を上げる角度まで決まっていた。


 ここは違う。

 犬が柵の向こうを走る。遠くで誰かが笑う。風が髪を勝手に揺らす。


 私は、息を吐いた。

 誰の許可も取らずに。


 その音だけが、妙に大きく聞こえた。


 ——足音。


 門のほうから、土を踏む重い音が近づいてきた。

 迷いのない歩幅。

 それだけで、誰だか分かってしまう。


 顔を上げると、レオンが立っていた。

 いつもの無表情。

 ただ、片腕が妙に不自然に曲がっている。


 抱えているのは。


 花、だった。


 黄色いの、白いの、紫の混じったの。

 茎の長いものは折れている。

 土のついた根っこまで、そのままだ。


 摘んだ、というより。

 引っこ抜いたに近い。


 でも、なぜだか、胸の奥がくすぐったかった。


「……これ」


 たった、それだけ。

 レオンが、花束を差し出してくる。

 視線は、私の肩の少し横に落ちている。


「わ、私に、ですか?」


「ああ」


 短い。

 速い。

 そして、また黙る。


 私は両手で受け取った。


 茎の冷たさ。

 土の匂い。

 残った朝露が、手のひらにじわりと染みる。

 革手袋の匂いが、ほんのわずか混じっていた。


 神殿でも、花は差し出された。

 “聖女様へ”と札をつけて。

 受け取った私は、決まった言葉で礼を述べた。決まった場所へ飾った。

 花は、祈りの道具だった。

 私のものでは、なかった。


 でも、これは。


 札も、式次第も、見張りの視線もない。

 差し出した本人が、ただ照れて黙っている。


「……ありがとう、ございます」


 レオンが、眉だけをわずかに動かした。

 たぶん「どういたしまして」は言えない人だ。

 最近、そう分かってきた。


 ——咳払い。


 庭の前の道から、軽い咳が聞こえた。

 振り向くと、籠を腕にかけたエルザさんが、にやにや笑っている。

 畑帰りらしい。頬が日に焼けて、笑うと目が線になる。


「おやおや」


「……エルザさん」


「珍しいもんだねえ、凛ちゃん。レオンが花なんてさ」


 レオンの肩が、ほんの少し上がった。

 動かないつもりでも、体のほうが先に反応する。


「……通り道に、あった」


「ほう。通り道に“束”でかい」


「……そうだ」


「器用な道だねえ」


「……」


「摘んだら根っこまでついてくる道なんざ、初めて聞いたよ」


「……手が、滑った」


「ぜんぶの花で?」


「……ぜんぶで」


「ほう」


 レオンの耳の先が、わずかに赤くなった気がした。

 たぶん。

 たぶん、そう見えた。


「ねえ、凛ちゃん」


「は、はい」


「あんた、これは花束じゃないね」


「え?」


「これは、求愛だよ」


「きゅ、求愛……」


「ほら、騎士様から、花の献上ってやつ」


「け、献上、じゃ……」


 言いかけて、口の中で言葉が詰まった。

 神殿の台詞が、反射で出そうになる。

 でも、ここでそれを言ったら。

 また、遠くへ戻ってしまう気がした。


「……献上じゃない」


 レオンが、ぼそりと言う。


「ほう? じゃあ、なんだい」


「……」


「ほら、言いな」


「……」


「凛ちゃん、待ってるよ」


「……っ」


 レオンが固まった。

 石像みたいに。

 その顔が、なぜか、ひどくおかしかった。


「いやあ、いいねえ」


 エルザさんが、わざとらしく溜息をついた。


「あたしが花なんてもらったの、三十年前だよ。亭主が一回だけね。一回だけだった」


「……知らん」


「知らんで済むかい。凛ちゃん泣かせたら、村中が敵だよ。畑の鍬が飛ぶよ」


「……泣かせない」


 それは、反射じゃなかった。

 即答だった。

 レオンの声が、ほんの少しだけ強くなる。


 エルザさんが、肩をすくめた。


「はいはい。じゃあ、笑わせな」


「……」


「泣かせるんじゃない、笑わせるんだよ。そっちの方が難しいぞ」


「……っ」


 喉の奥が、くすぐったくなった。

 胸の中で、何かがほどける。

 息が、変なところへ抜けた。


 ふふ。


 声が、出た。

 止めようとしても、止まらない。

 口元が、勝手に上がる。


「あ、あれ……」


「ほうら、笑った」


「ち、ちが……いや、違わない、です……」


「いいよ。笑いな」


「で、でも」


「凛ちゃん、いいんだよ」


 私は慌てて、手で口を覆った。

 今、私。

 笑った?


 大神殿では、笑い声を出した記憶がない。

 微笑むことはあった。形だけ、祈りのために。


 でも、こんな笑い方は知らない。

 腹の底が軽くなる、知らない笑い方だ。


 怖い。

 嬉しい。

 どちらも、同じ熱で胸に広がっていく。


「ほら見ろ」


 エルザさんが、にやりと笑った。


「もう笑った」


 レオンが、私のほうを見た。

 やっと、目が合った。

 瞳が、ほんの少しだけ揺れている。

 驚いている。


 私は笑いながら、目の縁が熱くなる。

 花束を、胸に押し当てた。


 土の匂い。

 生きている匂いだ。


「ご、ごめんなさい……その、笑うつもりじゃ……」


 言い訳している自分が、またおかしい。

 また、小さく笑ってしまう。


 レオンが、口を開けて、閉じた。

 それから、一拍遅れて。


「……いい」


 たった一言。

 でも、その言い方が、まるで許可みたいで。


 私はまた、胸の奥が熱くなる。


 エルザさんは満足そうに頷くと、道の先へ歩き出した。

 去り際に、振り向きざま、もう一言。


「レオン」


「……」


「次は根っこ、抜くなよ」


「……」


「花ってのは、土の上で咲くもんだよ」


「……うるさい」


 聞こえるか聞こえないかの声で、レオンが返した。

 花束の中の根っこを、ちらりと見てしまっている。


 私が、それを見つけた。

 また、笑った。


 庭に、笑い声が落ちた。

 自分の声なのに、知らない音だ。

 風に混じって、消えそうで、私は慌てて息を吸った。


 胸の中に、しまうみたいに。


 ——


「……どこで、摘んだんですか」


 花束を持ち直しながら、聞いた。

 レオンは、少し考える。

 考えている時間が長いほど、彼は嘘をついていない。


「……川」


「川の、どの辺り?」


「……石の、多いとこ」


「石の、多いとこ……」


「……」


「それ、地図、ですか?」


「……地図だ」


「ふふ」


「……笑うな」


「ご、ごめんなさい」


「……いや」


「……でも、いい地図、です」


「……」


 レオンの視線が、私の口元へ行って、すぐに逸れる。


 白い花を、一本抜いた。

 花びらが、少し欠けている。

 たぶん、彼の手袋の力に負けた。


「これ、かわいいですね」


「……そうか」


「名前、知ってます?」


「……いや」


「レオンさんが、摘んだのに?」


「……名前は、要らんと思った」


「ふふ。そういうもの、ですか」


「……そういうもんだ」


 彼は首を、横に振った。

 その振り方が、剣を避けるみたいに速い。


「神殿では、花の名前を覚える必要がなかったんです」


 ぽろりと、本音が落ちた。

 慌てて、口を閉じる。

 また、神殿の凛に戻りそうになる。


「……必要ないなら」


 レオンが、低く言った。


「……覚えなくていい」


 優しいのに、ぶっきらぼうだ。

 その矛盾が、胸を温める。


「でも、今は」


「……」


「知りたい、です」


 言い切ると、レオンのまつ毛がわずかに動いた。

 意外そうな顔。

 自分でも、意外だった。

 “知りたい”なんて、神殿では言えなかった。


 紫の花に触れて、私は首をかしげた。


「ええと、これは、たぶん」


「……」


「……分からない」


 自分で言って、少し恥ずかしくなる。


「……いい」


 レオンが、即答した。

 さっきから、彼の「……いい」は、私の胸の鍵をひとつずつ外していく。


 ——


「水、汲んできますね」


 私は立ち上がって、井戸のほうへ歩いた。


「待て」


 背後から、短い声。

 振り向くと、レオンが私の腕を掴みかけて、途中で止まっていた。

 手が、宙に浮いている。


「……どうか、しました?」


「……俺が、運ぶ」


「え、でも」


「……重い」


「……桶、ですか?」


「……そう、だ」


「私の、ことでは」


「……違う」


 それは、私が、という意味じゃない。

 桶が、という意味だ。

 分かっているのに、頬が熱くなる。


 台所の隅から、空き瓶を一つ借りた。

 戻ると、レオンが桶に水を汲んでいた。

 腕の筋が、きれいに浮いている。

 その動きが、神殿の儀式よりよほど無駄がなくて、見とれそうになる。


「ありがとう、ございます」


「……」


 水を瓶に移すと、レオンはすぐに視線を外した。

 人に見られるのが、苦手な人だ。

 騎士なのに。


 花束の茎を揃えて、瓶に入れた。

 根っこが一本、どうしても邪魔をする。


「……これ、抜いた方がいいですね」


 言った瞬間、道の向こうから声が飛んできた。

 さっきのエルザさんだ。

 距離があるのに、よく通る声。


「おーい、レオン!」


「……」


「根っこは置いてこいって、言ったろ!」


 私は、吹き出した。

 レオンが、また固まった。

 さっきと同じ、石像の顔。

 耳の先だけが、赤い。


「……うるさい」


 聞こえるか聞こえないかの声。

 それから、彼は私のほうをちらりと見た。

 “笑うな”じゃない。

 “笑ってるのか”、という確認みたいな目。


 私は、笑いながら花瓶を胸に抱えた。

 水の中で、花がゆっくり広がる。

 不器用に折れた茎も、少しだけ、まっすぐになっていく。


「きれい、です」


「……花がか」


「……それと」


「……」


「レオンさんの、手も」


「……手は、きれいじゃない」


「私には、きれいです」


「……」


「水を、汲んでくれた手だから」


「……」


 花に言ったのか、レオンに言ったのか、自分でも分からない。

 でも、レオンの肩がほんの少し、下がった。

 緊張がほどける音が、目に見えるみたいに。


 また、笑い声が出そうになる。

 私は息を吐いた。

 この音を、もう隠したくない。

 消えないでほしい。


「……レオンさん」


「……ああ」


「ありがとう、ございました」


「……」


「お花、嬉しかったです」


「……そうか」


「すごく、嬉しかったです」


「……」


「また、摘んでくれますか」


「……」


「ね、レオンさん」


「……次は」


「はい」


「……根っこは、ちゃんと、切ってくる」


「ふふ。お願いします」


 レオンが、視線をまた外した。

 照れたときの、癖。


「……笑うのも、いいだろ」


 黙る前の、最後の一言。

 その声が、思ったよりずっと、低くて、優しかった。


「……はい」


「……」


「はい、レオンさん」


 ——


 窓辺に置いた花瓶。

 ガラスの肌に、午後の光が当たっている。


 水の中で、白い花がひとつ、欠けた花びらをこちらに向けていた。

 不器用な茎が、それでも、ちゃんと立っている。


 指先で、瓶の縁に触れる。

 冷たい。

 でも、やわらかい冷たさだ。


 花瓶の脇に、根っこを一本だけ、こっそり置いた。

 乾いて、土が落ちて、もう花にはならない根。


 それでも、捨てる気には、なれなかった。




**あとがき**


レオンに「うむ」「ああ」を二回までしか言わせない縛りで書いたら、彼の沈黙の解像度がまた一段上がりました。「……これ」「……ああ」「……いい」「……ああ」——必要最低限しか喋らない男の、必要最低限が一番効いてしまう。難儀な人です。


凛が初めて、形ではない笑い方をする回でした。微笑むことはできた。でも、腹の底が軽くなる笑いは知らなかった——その「知らない笑い方」を、根っこのついた花束と、エルザさんのからかいが連れてきます。


エルザさんの「泣かせるんじゃない、笑わせるんだよ。そっちの方が難しいぞ」は、村のおばあちゃんが孫の恋人を品定めする普遍の構造で、レオンが石像になるのも普遍。普遍の温度って、痛い場所にいちばん効きます。


章末の花瓶と、捨てきれない根っこは、不器用なまま生きていく許可、のつもりで置きました。次話、王太子の使者が来ます。村が凛を守る側にまわります。

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