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第6話: 名前で呼んで

 湯気が、頬に触れた。


 木皿に、ちぎられたパンが二切れ。隣の椀には、湯気を立てたスープ。豆と、根菜と、よく分からない緑が浮いている。


「ほら、冷めないうちに」


 エルザさんが、向かいに座って言った。声が薪の弾ける音にまぎれて柔らかい。


「……いただきます」


 私は両手を胸の前で合わせた。神殿の所作だ。そう癖になっている。


「ふふ。お祈りは、しなくていいんだよ」


「あ……はい」


「ここのスープにはね、誰の祝福もいらないからね」


「そう、なんですか」


「煮込めば勝手にあったかいよ」


 私は、ぎこちなく頷いた。

 手を解いて、匙を取る。指先が少しだけ震えた。気づかれないように、椀の縁を握る。


 スープを一口。

 舌の上で、塩と、煮込まれた根菜の甘さが、丸く広がった。


「……あったかい」


 言葉が勝手にこぼれた。


「あったかいね」


 エルザさんがこちらを見ないで頷く。見ないでくれる、その距離が嬉しかった。


「もう一口、ね」


「はい」


「美味しい、って言ってくれると、うちのこの古い鍋も喜ぶよ」


「……美味しいです」


「うん。よく言えた」


 言えた、と褒められたのが恥ずかしくて、私は俯いた。

 神殿の朝食は、温度のない儀式だった。白い卓布、銀の匙、定められた量。匙が皿に当たる音まで定められていた。

 でも、ここでは、匙が椀に当たる音は、誰の許可もいらない。


 パンを指でちぎる。

 外側はかたく、内側はまだ少し湿っていた。指先に温度が移る。


 その温度のところに、エルザさんの声が落ちた。


りんちゃん、もうちょっと食べな。痩せすぎだよ」


 ——凛ちゃん。


 二音だった。

 たった二音が、胸の底のいちばん深いところで、こつん、と鳴った。


 私はちぎりかけのパンを、皿の縁に置いた。

 置いた指が震えている。その震えが自分のものだと、なかなか信じられない。


「……今、なんて」


 声が、思ったよりかすれた。


「ん」


「呼んで、くれましたか」


「凛ちゃんって呼んだよ」


「……それ、私のこと、ですか」


「ほかに誰がいるのさ」


 エルザさんは湯気の向こうで首を傾げた。


「もうちょっと食べな、って言っただけだよ。気に入らなかったかい」


「いえ、その、ちが、違くて」


「ん?」


「もう一度、呼んでもらえますか」


 言ってしまってから、自分の声に驚いた。

 お願いをした。誰かに、私のために。


 エルザさんは、目を細めて笑った。

 まるで、それを待っていたみたいに。


「凛ちゃん」


「……はい」


「凛ちゃん」


「は、い」


 二度、呼ばれた。

 胸の奥で何かが、こつん、こつん、と鳴る。


 私は口を開けて、何か言おうとした。

 でも、何も出てこなかった。代わりに、喉の奥が急に熱くなった。


 奥歯を噛む。涙は、出してはいけないものだ。出したら、誰かが困る。誰かに迷惑がかかる。

 そこまで考えて、私は気づく。ここには、困る人がいない。


 エルザさんは、なんでもないように匙を口に運んでいる。窓の外で鶏が鳴いている。薪が、ぱち、と弾けた。


「散歩、行くかい」


「……行きます」


 行きます、と言えた。言えた自分に、また少し驚いた。


「外套、貸すよ。ちょっと重いけどね、あったかいから」


「ありがとう、ございます」


「いいよ。古いけど、洗ってあるからね」


「はい」


「凛ちゃん、ゆっくりでいいからね」


「……はい」


 エルザさんが、毛織りの外套を私の肩にふわりとかける。

 毛織りの匂い。少しだけ煙の匂い。さっきまで嗅いでいたパンの香りが、まだ残っている。


 全部、生活の匂いだった。




 戸を開けると、外の空気が頬を打った。


 冷たい、というより、澄んでいる。胸まで届いて、痛みをいったん洗っていく。


 リンデン村の朝は、音が近かった。鶏。桶の水。薪を割る乾いた音。遠くで子どもが笑っている。


 大神殿だいしんでんの鐘の音は、ここにはない。

 ないのに、耳の奥がそれを探してしまう。来ないはずの号令を。


「足、痛くないかい」


「平気、です」


「無理しないでね」


「はい」


「疲れたら、戻ろうね」


「……はい」


 道は土で、夜の霜が白く残っている。踏むと、しゃり、と小さく鳴った。


 道の脇の畑から、声が飛んできた。


「エルザさん、おはよう」


「おはようさね、ハンス」


「今朝はえらく早いな」


「うちのお客さんを、村に紹介しようと思ってね」


「お、いいねえ」


 鍬を肩にかけた男の人が、手を振っている。日に焼けた頬。目尻が深い。

 その視線が、私で止まった。


 心臓がひとつ跳ねる。悪意のない好奇心だと分かっているのに、跳ねる。


「その子、エルザさんの家に泊まってる子かい」


「そうだよ。凛ちゃんっていうんだよ」


 ——凛ちゃん。


 三度目だった。

 今度は私のためにではなく、私を誰かに紹介するために、その名前が使われた。

 私の名前が、外の空気に出された。


「凛ちゃん、か」


 男の人が目尻を緩めた。

 その笑い方は、治癒の光を待つ人たちの顔ではなかった。期待でも欲でもない。ただ、初めて会った子を見る顔。


「よろしくな、凛ちゃん」


「……あ」


「村のこと、分からんだろ。困ったら言いな」


「はい」


「うちは畑の向こうの赤い屋根だ。覚えとけ」


「……は、はい」


「で、名前、なんて呼べばいい」


「……あの」


「うん」


「凛、と、エルザさんが」


 最後まで言えなかった。

 声が震えた。それだけなのに、目の奥が急に熱くなる。


 どうして。


 何百回、聖女様と呼ばれた。何千回、役割として呼ばれた。

 呼ばれるたびに、私は「私じゃないもの」になっていった。


 聖女様は、倒れても代わりを探される。

 聖女様は、笑わなくていい。

 聖女様は、泣いてはいけない。


 でも、今、この人は、私を、私の名前で呼んだ。

 機能ではなく、人として。


「……あれ」


 頬に冷たいものが落ちた。

 触れた指が濡れて、私はそこでようやく、自分が泣いていることに気づく。


 慌てて拭おうとして、かえって涙が溢れた。止め方を忘れているみたいだった。


「ご、ごめんなさい……」


 謝るのは違う、と頭のどこかで分かっているのに、口が勝手に動く。


「謝らなくていいよ」


「でも……」


「謝るとこじゃないよ、ここ」


「は、はい」


 エルザさんが、私の肩を抱いた。腕があたたかい。服越しに体温が伝わる。

 言い切られて、胸がさらに苦しくなる。許しではなく、当たり前としての肯定だったから。


「悪かったな、驚かせちまったか」


「ち、違うんです」


「いや、俺が悪かった」


「ハンスのせいじゃないよ」


「そうかい」


「凛ちゃんは、ちょっと泣き虫なだけさね」


「……はい」


「でも、いい名前だな」


 男の人が、頭を掻いて、もう一度言った。


「凛ちゃん。いい名前だ」


 いい名前。


 それは、私の努力でも、役割でもない。いちばん最初に、誰かが私のために選んでくれた音。神殿に奪われかけた、私の最初の持ち物。


 その持ち物を、今、目の前の人が、私に返している。


 胸の奥で、何かが、ぱき、と鳴った。

 固い殻が割れて、内側の柔らかいところが、空気に触れた。


 痛いのに、息ができる。


「凛ちゃん、泣き虫だねえ」


 エルザさんが、わざと軽く言った。

 軽さに救われて、私は泣きながら、少しだけ笑ってしまった。


 笑ったら、また涙が溢れて、私は顔を両手で隠した。手のひらが冷たい。涙が温かい。


「おやおや、泣かせちまったか」


 別の声が混じった。

 籠を抱えたおばさんが、こちらへ歩いてくる。籠には赤いリンゴと、土のついた根菜。


「エルザさん、この子は」


「凛ちゃん」


「凛ちゃん?」


「うちに泊まってる子だよ」


「あらまあ、よろしくね、凛ちゃん」


「……よろしく、お願いします」


「かわいい子だね」


「ありがとう、ございます」


「今度、うちの干しリンゴ持ってきな。甘いよ」


「はい」


「遠慮なくね」


「……はい」


 また、私のほうへ、その名前が飛んできた。

 涙の向こうで、言葉がふわりと浮かぶ。


 聖女様ではなく。

 リーネ様でもなく。

 凛ちゃん。


「ほら、歩こうか。村の端まで行って、川でも見てくかい」


「はい」


「無理しないでね」


「大丈夫です」


 言ってから、私はその五音を、自分の口で確かめた。今までで、いちばん軽い「大丈夫です」だった。




 村の道を、歩いた。


 道の両側で、誰かが手を振った。誰かが「おはよう」と言った。そのたびに、エルザさんが返した。


「凛ちゃん、風邪ひくなよ」


「凛ちゃん、その外套似合うね」


「凛ちゃん、あとで芋スープ飲みにおいで」


「はい」


「はい」


「……はい」


 名前が、何度も、耳に届く。

 届くたびに、胸の奥が熱くなる。今度は、怖さより先に、嬉しさが来た。


 歩いていると、小さな足音が追いついてきた。

 振り返ると、五歳くらいの女の子が、ぺたんと立っている。前髪が額に張りついて、頬が赤い。


「ねえ、お姉ちゃん」


「は、はい」


「お名前、なに」


 子どもの声は、率直に、刺さる。

 大人の挨拶よりも、もっと直接、胸の真ん中に落ちる。


 私はしゃがんだ。膝が、思ったよりすんなり折れた。


 言わなきゃ。

 自分の名前を、自分の口で、この子に。


 喉が動いた。唇が、いくつかの音を試して、ようやく一つに落ちついた。


「……凛、です」


 たった、その一言だった。


 でも、その一言を、私は、自分の意思で言った。

 誰にも報告するためでなく、誰にも頭を下げるためでもなく、目の前の子どもに、自分の名前を、渡した。


「りん、ちゃん」


 女の子が、二音を口の中で確かめてから、にっこり笑った。歯が一本、抜けていた。


「りんちゃん、また遊ぼうね」


「うん」


「ぜったいだよ」


「……うん」


 走っていく後ろ姿に、私は手を上げた。

 上げた手が、止まらないで、しばらく宙にあった。


「いい子だね、あの子」


「……はい」


「凛ちゃんも、いい子だよ」


「……」


「ほら、また泣く」


「すみま、せん」


「謝らないって、約束したよね」


「……はい」


 また、その音だった。もう、震えなかった。鳴り続けていた。




 道の先、柵の影に、人影があった。

 畑と道の境目、見通しのいい場所に、腕を組んで立っている。


 レオンさんだった。


 彼はこちらを見ていた。でも、近づいてこない。守る距離、というものがあるみたいに。


「レオン、おはよう」


 エルザさんが、声をかけた。

 レオンさんは、こくりと頷いただけで、何も言わなかった。


「ずっと、見ててくれたのかい」


「……いや」


「嘘がへたな子だね」


「婆さん」


「ふふ」


 私は、泣いて腫れた目で、そっと彼を見た。目が合った。

 ……合ったのに、彼はすぐに視線を逸らした。逸らし方が、いつもより、少し遅い。ほんの一瞬、瞼が上がっていた気がした。


「レオンさん」


「……あんた」


「私、名前、呼ばれました」


「ああ」


「ハンスさんに。子どもにも。エルザさんに」


「……そうか」


「初めて、でした」


「……」


「初めて、自分から、名乗りました」


 レオンさんは、何も言わなかった。

 ただ、口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 緩んだのに、本人はそれを隠すように、顎に力を入れて、遠くを見た。


 でも、隠しきれていない。風に揺れる前髪の隙間から、目元がやわらかいのが見えた。


 その仕草が、妙に人間くさくて。

 私の胸の奥が、また熱くなった。


「行こうか、レオン」


「ああ」


「川まで、付き合いな」


「……分かった」


 歩きながら、息を吸う。冷たい空気が肺に入って、涙の跡を乾かしていく。


「……エルザさん」


「ん」


「私、名前があるんですね」


「あるよ」


「最初から、ですか」


「最初からずっと」


 歩きながら、こちらを見ないで、エルザさんが返した。

 慰めではなく、事実だった。私は、それを、やっと受け取れた。


「凛ちゃん」


「は、はい」


「呼ばれるの、いやかい」


「いえ」


「嬉しいかい」


「……はい」


「うん。よかった」


 川の音が近くなる。水の匂いが混ざって、風が頬を撫でた。


 私はもう一度、涙を拭いた。

 今度の涙は、悲しい涙ではない。胸の奥に溜まっていたものが、外へ出ていくだけの涙だ。


 私は、少しだけ顔を上げた。


 パンの匂い。薪の煙。湯気の名残。

 その向こうに、凛、と呼ばれた音だけが、まだ耳の奥に残っている。


 誰かの皿の上で、ちぎられたままのパンが、ゆっくりと冷めていく時間。

 その時間に、私の名前が、ようやく追いついた。



第六話、お読みいただきありがとうございます。歩人あゆとです。


 今回は、たった「凛ちゃん」と呼ばれただけで、凛が泣いてしまう話でした。


 名前で呼ばれる、という当たり前のことが、神殿で十二年「聖女様」として扱われてきた凛にとっては、もう当たり前ではなくなっていました。役割で呼ばれ続けると、自分が「機能」になっていく。倒れたら代わりを探されるだけの、機能に。


 エルザさんの「凛ちゃん」は、特別な言葉ではありません。ただ、彼女がいつもどおりに、目の前の子の名前を呼んだだけ。でも、そのいつもどおりが、凛にとっては最初の体験でした。だから指が震え、喉が熱くなり、止め方を忘れた涙が頬を伝います。


 書きながら気をつけたのは、凛が「感動の言葉」を一度も口にしないことでした。胸が熱い、嬉しい、ありがとう——そういう内面の説明をできるだけ削り、指の震え、喉の動き、湯気の匂い、子どもの抜けた歯、その触覚の方に語らせるようにしました。凛の感動は、まだ言葉にできないところで起きています。


 そして、最後に女の子に名前を訊かれて、凛は自分の口で「凛、です」と名乗ります。ハンスさんに訊かれたときは「エルザさんが、」と他人の口を借りるしかなかった凛が、子ども相手には、自分の意思で、自分の名前を渡せる。たったその差が、今回の一番のカタルシスでした。


 離れて立つレオンさんが、口元を緩めながら遠くを見る場面も、書いていて好きなところです。彼が「守る」のではなく「見守る」距離に立っていることが、凛にとっての安全な余白でもあります。


 次話は、そのレオンさんが、不器用に花を摘んでくる話を予定しています。引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。


 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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