第36話: 私の答え
朝の光が、薬草畑の畝の上に細く伸びていた。
私は籠を地面に置き、両手を胸の前で組む。指先がほんの少し冷たい。土の冷たさじゃない。私の中の、まだ言葉になっていない緊張だ。
昨夜書いた日記の文字が、まだ手のひらに残っている気がした。
——前世の私へ、と書いた紙の余白に、誰かが「凛へ」と返してきた、あの夜。
私はもう、ひとりじゃない。それを、今日、ちゃんと自分の口で形にしなきゃいけない。
砂利を踏む音が、畑の端から近づいてくる。一度だけ止まって、それから土を踏む柔らかい足音に変わった。
顔を上げる。朝日の中に、黒い影が一つ。
レオンさんだ。鎧の縁が金色に光って、横顔はいつも通り硬い。それなのに、その姿を見ただけで、握りしめていた指の力がほどけていく。
「……凛」
名前を呼ばれただけで、返事はもう半分終わってしまいそうだった。
「レオンさん」
私は一歩、畝の間から出る。足元の土が、柔らかく沈んだ。
「呼んでくれて、ありがとうございます。来ていただいて」
「いや」
短い一言。それで終わるかと思った。けれどレオンさんは、少し間をおいて、続けた。
「ここで、と言ったのは、あんたの方だ」
「……はい」
言われて、思い出す。昨日の夕方、私が小さく頼んだのだ。朝、薬草畑に来てくださいと。返事をしたいので、と。
ふたりの間に、朝の風が抜けた。乾きかけた草の苦味が、鼻の奥にしみる。
「あの……お時間、いいですか」
「ある」
「……ふふ」
思わず、笑ってしまった。
「どうした」
「いえ。レオンさん、いつも『ある』とか『いや』とか、それだけで終わるなって」
「……足りないか」
眉が、ほんの少しだけ寄った。困った顔だ。
「足りなくないです」
私は首を振った。
「足りなくない、です。むしろ……それが、レオンさんなので」
彼の喉が、こくりと動いた気がした。
私は両手を、もう一度胸の前に戻した。今度は組まずに、軽く重ねるだけ。指先の冷たさを、自分の手で温める。
「あの夜、言ってくださったこと」
「ああ」
「『あんたを守りたかったんじゃない。あんたの隣にいたかった』、って」
彼は答えない。ただ、視線が私から逸れなかった。
「ずっと、考えていました。一晩だけじゃなくて、何日も」
「無理をするな」
「無理じゃ、ないんです」
私は息を吸う。喉のすぐ下で、鼓動が小さく跳ねた。
「考えたかったから、考えたんです。逃げ道がないか探したわけじゃなくて、ちゃんと、自分の言葉で返したかったから」
「……そうか」
「だから、聞いてください。私の答えを」
彼の肩が、ほんの僅かだけ動いた。鎧の内側で、息を吸い直したのだと分かる。
「ああ」
いつもと同じ、短い返事。でも、その奥にある体温が、こちらまで伝わってきた。
私は唇を開く。出した瞬間、もう戻れない言葉だと分かっていた。
「あなたの隣がいいです」
声は、思ったよりまっすぐ出てくれた。空に投げた言葉が、落ちていかない。私の胸の真ん中で、ちゃんと立っている。
レオンさんの目が、大きく見開かれる。ほんの僅か、息が止まったのが、空気の動きで分かった。
私は、もう一度だけ言い切る。今度は、これからの私の未来として。
「——ずっと」
その短い一言に、体温が全部集まったみたいだった。怖い。でも、それ以上に——幸せだ。
レオンさんの肩が、深く落ちた。鎧の中の胸が、息を吐く気配。張り詰めていた糸が、音を立てずに緩む。
「……凛」
「はい」
「もう一度、言ってくれ」
「えっ」
「聞き間違いだったら、立っていられない」
真顔だった。冗談ではない、と分かる声だった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。私は、笑った。たぶん、初めてこの人の前で、こんなに迷いなく。
「聞き間違いじゃありません」
「……」
「あなたの隣がいいです。ずっと、です」
短い沈黙が、二人の間に降りた。けれど、重くない。むしろ、満ちている。
レオンさんは、ゆっくり、一歩近づいた。畝の間の距離が消える。
「触れていいか」
「……はい」
「逃げないか」
「逃げません」
「逃げたら、追う」
「……ふふ。追ってください」
彼の指が、ゆっくり伸びてきた。剣を握るときのような迷いはないのに、私の手前で、ほんの一度だけ止まる。私の顔色を窺うみたいに。
私は、自分から半歩、距離を縮めた。
彼の指先が、私の手の甲に触れる。手袋越しじゃない、素手の温度。
思っていたより、熱い。
「……熱いです」
「悪い」
「いいえ。違うんです」
私は、自分の指を、彼の指の隙間にそっと滑り込ませた。
「冷たい手で、ごめんなさい」
「冷えてる」
「はい」
「あんたは、いつも、手が冷たい」
ぎゅ、と握られる。痛くない。むしろ、心の奥がほどけていく。
「凛」
「はい」
「あんたの手が冷たいの、嫌だ」
「……はい」
「だから、これからは、俺が温める」
彼の指が、私の指を一本ずつ確かめるように絡めた。指の腹で、関節の硬さを、爪の小ささを、なぞっていく。
手のひらの温度が、ゆっくり混ざっていく。彼の体温と、私の体温の境目が、分からなくなっていく。
「レオンさん」
「ああ」
「私、怖いんです」
正直に言うと、喉が痛んだ。
「何が」
「誰かの期待に応えるために生きるのが、ずっと怖かった。聖女と呼ばれて、笑えと言われて、役に立てと言われて。私はそれに慣れたふりをして、いつも、どこかで息を止めていました」
「……」
「だから、隣にいることまで、役目にしたくないんです」
声が震えた。けれど、止めずに続けた。
「好き、っていう気持ちは甘いのに、未来の話は、重くて。重いからこそ、逃げずに、言いたい」
レオンさんは、私の手を離さない。指を絡めたまま、もう一度、確かめるように握った。
「役目にしない」
「……はい」
「凛」
「はい」
「俺は、あんたを使わない」
短い断言。剣の抜き方みたいに迷いがなくて、心がほどけた。
「凛が歩けない日は、俺が歩幅を合わせる」
「……はい」
「泣く日は、泣いていい場所を作る」
「はい」
「笑える日は、一緒に笑う」
「……はい」
一つひとつが、未来の形だった。明日も、明後日も、その先も。畑の土の匂いの中で、薬草束を抱えながら。
私は息を吸って、頷く。
「じゃあ……約束、してください」
「言ってくれ」
「私が立ち止まっても、隣にいるって」
「いる」
「私が迷っても、手を離さないって」
「離さない」
「……」
「凛」
「はい」
「俺の方こそ、頼みたい」
「えっ」
「俺が、つい昔みたいに『守る』って言いそうになったら」
「……はい」
「叱ってくれ」
私は、目を見開いた。
この人は、自分の癖を知っている。剣で隔てて守ろうとする癖。一歩前に出て、私の盾になろうとする癖。それを、捨てる、と言ってくれている。
「……はい」
声が、掠れた。
「叱ります。ちゃんと」
「頼んだ」
彼は、絡めた指を一度だけ、ほどいた。
寂しい——と思った瞬間、彼の両手が、私の手をすっぽり包んだ。
大きい。冷たさが、瞬く間に消えていく。手のひらの中で、私の指が、彼の体温に溶けていく。
「凛」
「はい」
「あんたの手が温まるまで、ここにいる」
「……」
「足りなければ、明日も、明後日も」
「……ずっと、ですか」
「ずっとだ」
私は、頷くこともできなくて、ただ、彼の手の中で、自分の指を握り返した。握り返せたことが、嬉しかった。
「レオンさん」
「ああ」
「私、笑っていいですか」
「笑え」
不器用な言い方。でも、その奥に、守りたい未来が詰まっている。
私は、小さく笑った。涙が一粒だけ、頬を伝った。
彼の親指が、私の頬を拭う。触れたところが熱くて、恥ずかしくて。でも、逃げたくない。
「……あったかいです」
「俺の手か」
「はい」
「凛の方が冷たいだけだ」
「ふふ。そうかもしれません」
「凛」
呼ばれるたび、胸の奥が柔らかくなる。
「はい」
「もう一度だけ、聞かせてくれ」
「……はい」
「答えを」
私は、息を整える。一度、二度。
彼の手の温度を、確かに感じながら、私は言った。
「あなたの隣がいいです」
「ああ」
「——ずっと」
彼は、何も言わずに、私の額に自分の額をそっと寄せた。鎧の冷たさじゃなくて、呼吸の温度が近い。彼の睫毛の影が、私の頬に落ちた。
「凛」
「はい」
「俺もだ」
ひと言の、短い返事だった。でも、その奥にあるものが、私の胸の真ん中に、まっすぐ届いた。
風が、薬草の葉を揺らす。朝の光が、二人の影を土の上に長く伸ばしている。重なった手のひらの中で、私の指は、ちゃんと温まっていた。
畑の端で、芽吹いたばかりの薬草が、朝日に照らされて青く光っている。
昨日まで土の下にいた小さな葉が、今日、空に向かって首を伸ばしていた。
その葉の隣に、二つの影が並んでいる。重なった手のひらは、もう、ほどけない。
第36話「私の答え」をお届けしました。凛がついに、自分の言葉で返事をした回です。
「あなたの隣がいいです。——ずっと」。この台詞のために、ここまでの三十五話を積んできました。聖女として「大丈夫です」と笑い続けてきた凛が、初めて自分のために「これがいい」と選び取る瞬間です。
レオンの「俺の方こそ、頼みたい」——彼もまた、剣で隔てて守ろうとする癖を、ここで捨てます。守るのではなく、隣にいる。これが二人の答えになりました。
そして、手のひらの温度。冷たい手と、熱い手のひら。二つの体温が混ざっていく描写を、書きながら何度も書き直しました。言葉ではなく、触覚で恋愛が成就する瞬間を、皆さんの胸にも届けられたら嬉しいです。
次回、第37話「聖女のいらない国」。凛が作った新しい仕組みが、ついに国全体へ広がります。命を削る聖女は、もう必要ない。凛が選び取った未来が、世界の形を変えていきます。
応援、ブックマーク、いつもありがとうございます。あと少しで、最終話です。最後まで、隣で見届けていただけたら幸いです。




