第35話: 前世の私へ
眠れない夜がある。
灯りを落とした部屋で、胸の奥だけが白く目を覚ましている。
扉が、かすかに軋んだ。
「眠れないのか」
声は低く、眠そうだった。
「……起こしてしまいましたか」
「いや。廊下に出たついでだ」
嘘だと分かった。廊下に用がある人間は、こんな時刻に足音を消して歩かない。
「今夜は、書きたいことがあって」
「書きたいこと」
「はい。ずっと書けなかったことが」
レオンはそれ以上は問わなかった。入り口の柱にもたれたまま、ただ部屋の中を見た。
「灯りは足りるか」
「足りています」
「そうか」
「寒くはないか」
「……少し」
「膝掛けを持ってこよう」
「大丈夫です、本当に」
「ならいい」
それでも、しばらく動かなかった。沈黙が落ちた。責めるでも問い質すでもない、ただそこにある沈黙。やがてレオンが口を開いた。
「急がなくていい」
何に対して言ったのか、分からなかった。でも、分かった気がした。
「……レオン」
「ん」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それでも」
「……そうか」
「先に休んでいてください」
「ああ」
足音が遠ざかる。扉が静かに引かれた。
私は引き出しを開けた。
歴代聖女の日記とは別の、まだ何も書かれていない一冊。表紙の革は冷たく、指の腹に小さな凹凸を返してきた。
机に置く。
ランプの芯を細くした。光が円になって、革の上だけを照らす。
頁を開いた。
紙の匂いがした。乾いていて、少しだけ甘い。
ペンを取る。
軸は木製で、握り慣れた竹より細い。指先がかすかに震えた。インクの瓶の蓋を開ける。鈍い銅の音が、夜の底で短く鳴った。
ペン先を浸す。
持ち上げる。
しずくが瓶の縁で一度、震えて落ちた。
頁の真ん中に、ゆっくり書いた。
「——前世の私へ」
書いた瞬間、息が止まった。
その四文字が、紙の上で他人みたいに立っている。
私はもう一度、ペン先を浸した。
あなたがこれを読む日は、たぶん来ない。
でも、書かないと今の私が崩れてしまう夜がある。
だから、これは私のための手紙。
届くなら——届いてほしい。
あなたは、看護師だった。
白い靴で走った。白い廊下を、何度も往復した。ポケットには、ペンライトとハサミと、誰にも見せないため息が詰まっていた。
ナースコールが鳴るたび、心臓が跳ねた。
誰かの苦しさが、あなたの名前を呼んだ。
あなたは「はい」と答えた。
走った。
笑った。
手を握った。
その手は、よく冷えていた。
点滴の管が光った。モニターの波が、規則正しく揺れた。機械の音の隙間で、命が小さく息をしていた。
「大丈夫ですからね」
あなたはそう言った。頷いて、背中をさすった。
「……怖いよ」
震える声が、マスクの奥から漏れた。老いた女性の声。薄い布団を握りしめた手。
「ここにいます。ずっとここにいます」
あなたはそう返した。正直すぎるほど、正直に。
嘘じゃなかった。その夜のあなたは、本当にそこにいた。
本当は、あなたがいちばん大丈夫じゃなかった。
ペンが止まった。
指の関節が固い。掌に汗が滲む。
私は、ペンを置いた。
息を一つ。
また、取った。
——あの最後の夜。
夜勤明けの窓は、白すぎた。
朝なのに、世界がまだ眠っているみたいだった。あなたの目だけが赤かった。まぶたが砂みたいに重かった。
それでも、帰らなかった。
帰れなかった。
帰ったら、誰かが困る気がした。あなたがいないと、何かが壊れる気がした。
本当は、そのときから壊れていた。
壊れる音は、いつも小さかった。誰にも聞こえなかった。あなた自身にも。
あなたは優しかった。
優しいから、痛かった。
優しいから、頑張れた。
優しいから、限界が分からなくなった。
窓際のベッドの人を、思い出すね。
名前を呼ぶと、目尻だけで笑ってくれた人。酸素マスクの下から、息みたいな声で「君は優しいね」と言った人。
「今日も来てくれたの」
「はい。今日も来ました」
「ありがとう。君が来ると、部屋が明るくなる気がして」
「そんなことないですよ」
「いいえ、本当のことよ。あなた、いい看護師さんになるわ。きっと」
あなたはその言葉が、嬉しくて、怖かった。
「頑張ります」
そう返しながら、喉の奥がひりついた。いい看護師になれているだろうか。毎日不安だった。でも、その人の目尻の笑いに、何度も救われた。
優しいと言われるたび、もっと優しくしなきゃと思った。
その「ありがとう」は、あなたの胸に小さな穴を開けた。穴から、責任感が流れ込んできた。
面会時間ぎりぎりに来た家族へ、あなたは何度も頭を下げた。
「今はお休みになっています」
「状態は……安定しています」
「ちゃんと、食べてますか。食欲は」
「はい、少しずつ」
「そうですか、よかった」
安定なんて言葉で、崩れそうなものを支えているふりをした。
本当は、知っていた。
あの手の冷たさが、昨日より少しだけ増していたこと。
脈の強さが、ゆっくり解けていたこと。
指先が、それを感じ取っていた。
前日の夕方、面会を終えた家族が帰る際、窓際の人が細い声で言った。
「看護師さん」
「はい」
「今日もありがとう」
「いいえ、こちらこそ。今日もありがとうございました」
「あのね、君のこと、ずっと覚えてるよ」
あなたは笑った。
「私も、ずっと覚えています」
「明日も来てくれる?」
「来ます。また明日」
「うん。待ってる」
それが最後だった。
それでもあなたは、笑って見送った。
そして——間に合わなかった朝が来た。
カーテンの隙間から光が差した。床に薄い線が引かれた。あなたは引き継ぎを終えたところだった。
最後に一度だけ、と病室へ向かった。
ベッドの上は静かだった。
モニターの波は、真っ直ぐだった。
あなたは立ち尽くした。
呼吸の仕方を、忘れた。
「ごめんなさい」
口から出たのは、その一言だけだった。
誰に謝っているのか、分からなかった。
医者でもなく、神様でもなく、たぶん自分自身に。
「間に合わなかった私」を許せなくて、何度も謝った。
その日、師長が更衣室で声をかけてきた。
「渡部、今日大変だったね」
「いえ、私が……もっと早く気づいていれば」
「看護師に全部は背負えない。分かってる?」
「……分かっています」
「分かってないから、そんな顔をしてるんでしょ」
あなたは、何も答えられなかった。
「悔しかったね」
「……はい」
「泣いていいよ。今日は泣いていい日だから」
師長の声は、それだけだった。
あなたは、それでも泣けなかった。
でも、泣いてよかったんだよ。
帰り道、あなたは制服のポケットに手を突っ込んだ。爪が掌に食い込むほど、握りしめた。
ポケットの底に、小さな絆創膏の端があった。
それが、あの人の指に貼ったものだと気づいた瞬間、膝が折れた。
道の脇にしゃがんだ。
誰も見ていない朝の街角で、声を殺して泣いた。
ペンを置いた。
涙が、頁に落ちた。
ぽつ、と音もなく、インクの上で滲んだ。
私は袖で目を拭った。布の感触が、まぶたに少し痛い。
ランプの光が揺れる。
扉の向こうで、廊下の板が一度だけ鳴った。
「まだ起きているのか」
声が、遠慮がちに届いた。
「……もう少しだけ」
「何刻だと思っている」
「すみません」
「謝らなくていい。ただ、無理はするな」
「はい」
「……泣いているか」
しばらくの間があった。
「泣いています」
「そうか」
「でも、大丈夫です。悲しくて泣いているわけじゃないので」
「そうか」
「……変ですか」
「いや。そういうこともある」
また少し間があった。
「分かった」
足音は遠ざかるでも、部屋へ入るでもなく、ただ扉の向こうに留まっている気がした。
しばらくして、ふっと消えた。
深く、息を吸った。
もう一度、ペンを取る。
あのときのあなたに、私はまず言いたい。
「あなたは間違ってなかった」
患者さんを大事にしたこと。
怖がる人の手を握ったこと。
怒鳴られても、理不尽に耐えたこと。
泣きたい夜に泣かず、笑顔で朝を迎えたこと。
どれも、間違いじゃない。
あなたが守ろうとしたのは、正しかった。
あなたの一瞬に救われた人が、確かにいた。
あなたの声で眠れた人が、確かにいた。
夜勤の消灯回りで、こっそり声をかけてくれた老人がいた。
「眠れなくてね」
「どこか痛いですか」
「痛くはない。でも暗いのが怖くて」
「では、少しだけいましょうか」
「……いいのかい」
「いいんです。私もここにいたいので」
「ありがとう。助かるよ」
「こちらこそ、一緒にいさせてください」
「どうぞ、ゆっくり」
二人で、しばらく暗い部屋にいた。
あなたが「ここにいます」と言ったから、孤独が薄れた人が、確かにいた。
だから、あなたの優しさは無駄じゃない。
あなたの努力は虚しいだけじゃない。
あなたの手は、空っぽじゃない。
……でも。
でもね。
ここから先を書くのに、ペンが少し迷った。
息を吸って、もう一度、ペン先を浸す。
「あなたは、あなた自身にも、手を伸ばしてよかった」
書いた瞬間、視界が滲んだ。
頁を指で押さえる。
指先が震えていた。
もう一行、書く。
「自分にも、優しくしてよかったんだよ」
その一行を書き終えると、肩から力が抜けた。
私は、声を出さずに、自分に頷いた。
休憩室で、椅子に沈んでよかった。
甘い缶コーヒーを、喉を焼くみたいに飲んでよかった。
「今日はもう無理です」
「え、大丈夫? 顔色悪いよ」
「身体じゃなくて……気持ちが」
「そっか。じゃあ残りは私が回る。渡部さんは休んで」
「でも、担当が」
「担当なんて、今日だけのことでしょ。あなたが倒れたら困るんだから」
その一言を、受け取れたとしたら。
泣きたいときは泣いて、涙で頬を冷やしてよかった。
「泣いてもいいよ、ここなら誰も来ない」
「……ありがとうございます」
「お礼なんていいから。ちゃんと泣いて」
あなたは最後まで泣けなかったけれど。
泣いてよかったんだよ。
責任感は、尊い。
だけど、尊さで自分を締め付けてしまったら、優しさはいつか刃になる。
ある患者さんの家族が、廊下で声をかけてきた日がある。
「看護師さん、少しいいですか」
「はい、どうぞ」
「母が……あなたのことをよく話すんです。名前まで覚えてて」
「そうですか」
「いつもありがとうございます。無理させてすみません」
「いいえ、お気になさらず」
「でも顔色が。最近、ちゃんと眠れてますか」
あなたは一瞬、止まった。
「大丈夫です」
そう言いながら、喉が詰まった。心配されるとは思っていなかった。
その人は優しく頷いて、また病室へ戻っていった。
廊下に一人残されて、あなたは壁に背を預けた。
十秒だけ、目を閉じた。
あなたはそれを、薄々分かっていた。
分かっている自分を、さらに責めた。
「私さえ頑張れば」
その言葉は、誰かを救う呪文みたいだった。
同時に、あなたを縛る鎖だった。
後輩に、一度だけ言われた。
「渡部さん、なんで全部自分でやるんですか」
「え?」
「他の人に振ってもいいじゃないですか。チームなんだから」
「でも……みんな忙しいし」
「渡部さんが倒れたら、もっと困ります」
「大丈夫だよ、私は」
「……本当に?」
あなたは笑って、「ありがとう」と返した。
でも、その翌日も、全部自分で抱えた。
あなたが倒れたら、救えるものまで救えなくなる。
あなたが笑えなくなったら、「大丈夫ですからね」は空洞になる。
あなたの心が死んだら、手は温かくても、言葉は届かなくなる。
だから、あなたが自分を守ることは、逃げじゃなかった。
誰かを大事にするために、自分も大事にする。
それは両立していい。
むしろ、それが本当の看護だった。
ねえ、前世の私。
あなたは、最後まで自分を許せなかった。
「足りなかった」
そう言い続けた。
足りない自分を叱った。走らせた。また叱った。
でも今、私はあなたを抱きしめたい。
手のひらを重ねたい。
指の震えを、確かめたい。
そして、言う。
「もう、よく頑張ったね」
あなたが「頑張った」と言われるのが苦手なのも、知っている。
頑張ったと言われた瞬間、頑張れなかった日々が浮かぶから。
疲れて声が荒くなった夜。
イライラして、呼びかけに一瞬遅れた瞬間。
同僚のミスに、冷たくしてしまった朝。
あなたはそれを、全部覚えている。
良かったことより、出来なかったことだけを、きれいに並べる癖があった。
だから私は、ここに書く。
その「出来なかった」に気づけるあなたは、誠実だった。
後悔できるあなたは、人を雑に扱わなかった。
完璧じゃなくても、人を人として見ようとした。
それが、あなたの仕事だった。
誰かの命を背負う仕事は、いつだって重い。
それでもあなたは、逃げなかった。
逃げないことが正義だと信じた。
信じるしかなかった。
あなたは、怖かったんだ。
自分が逃げたら、世界が冷たくなる気がして。
一度だけ、お母さんに電話した夜がある。
「もしもし、お母さん」
「あら、珍しい。どうしたの」
「……別に、何でもない。声が聞きたかっただけ」
「夜勤帰りか」
「うん」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「睡眠は?」
「……まあ」
「まあって何よ」
「ちゃんと取ってる」
「嘘つき」
あなたは笑った。
「無理してない?」
あなたは少し間を置いた。
「……ちょっと、疲れてるかも」
「そう。帰っておいで。いつでも」
「うん。そのうち」
「待ってるよ」
そのうち、は来なかった。
でも、その電話の声が、あと少しだけあなたを繋ぎ止めた。
あの頃のあなたが、誰にも言えなかった言葉を、私が代わりに言う。
「怖かったね」
「苦しかったね」
「悔しかったね」
「眠りたかったね」
「誰かに頼りたかったね」
「もう休みたいって、言いたかったね」
「ひとりにならないで、って思ってたね」
あなたは弱かったんじゃない。
強すぎた。
強さを「当然」にしてしまった。
その強さを、誰かに頼って分けてもよかった。
あの夜、同僚が声をかけてくれたのを、覚えているだろう。
「渡部さん、顔色悪いよ。今日、私が最後に回ろうか」
「大丈夫です。自分の担当は自分で」
「そういうことじゃなくて」
「本当に大丈夫なので、気にしないでください」
あなたは笑ってそう言った。
でも、大丈夫じゃなかった。膝が笑っていた。視界の端が、ときどきちかちかした。
「……渡部さん、大丈夫? 本当に」
「大丈夫です。心配かけてごめんなさい」
「謝らなくていいから。無理しないで」
「ありがとう。行ってきます」
逃げるように歩き出したあなたの背中を、彼女はどんな顔で見送ったのだろう。
受け取れたはずだった。
あの「替わろうか」の一言を。
「ありがとう、お願い」
その四文字を言えなかった。
そのたった一言を言えなかったから、あなたは折れた。
もし言えていたら、あの夜は違ったかもしれない。
そして——ごめんね。
今の私は、あなたが背負った分まで、ちゃんと呼吸できている。
あなたが我慢していた「休む」を、少しずつ覚えた。
あなたが笑えなかった分、私は笑っている。
ここに来て、初めて分かったことがある。
あなたがあの世界で守ろうとしたのは、患者さんだけじゃなかった。
「優しい世界」を、守ろうとしていた。
痛い人が、痛いと言えること。
怖い人が、怖いと言えること。
そして、ひとりにならないこと。
でも、あなた自身が、ひとりになっていた。
助けを求める喉を、職業意識で押し潰していた。
それを「大人」と呼んで、平気な顔を作った。
私が今、こうして手紙を書けるのは。
あなたが壊れながらも、最後まで誰かを見捨てなかったからだ。
その「見捨てない」が、形を変えて、私の中に残った。
だから私は、あなたを否定しない。
あなたの人生は、途中で途切れたように見えても。
ちゃんと、私に繋がっている。
あなたが抱えた痛みも、流した涙も、無駄じゃない。
この世界では、白衣は着ていない。
でも、誰かの痛みを見過ごせないところは、あなたのままだ。
その「まま」が、今は誇らしい。
だって、私はもう、ひとりで走らないから。
隣にいてくれる人がいる。
手を引いてくれる人がいる。
「凛、今日はもう休め」
そう言ってくれる声がある。
私はそれを、受け取れるようになった。
あなたが欲しかった言葉を、今の私はもらっている。
あなたが欲しかった時間を、今の私は生きている。
ペンを止めた。
最後の一文を、ゆっくり書く。
「今の私は、幸せです」
「だから、あなたも、安らかに」
書き終えた瞬間、インクがじわりと滲んだ。
胸の奥が、痛いほど軽くなる。
涙が、もう一粒落ちた。
文字の端を、少しだけ溶かした。
息を吐いた。
肩が、ようやく下がった。
ペンを置く。
軸が、机に小さく鳴った。
ランプの炎が、揺れた。
私は両手で頁を覆った。
掌の下で、紙はまだ温かい気がした。
涙を吸った場所だけが、わずかに波打っている。
「ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
たぶん、あなたに。
たぶん、今の私に。
たぶん、両方に。
頁を閉じようとして、指を止めた。
紙の隅。
私が書いていない場所に、細い線が一本、いつの間にか引かれていた。
まるで、誰かが返事を書き始めたみたいに。
線は、止まらなかった。
ゆっくり、ゆっくり、一画ずつ。
月明かりが窓から差し込む。
その光の帯の中で、墨が静かに乾いていく。
——「凛へ」
二文字が、紙の上に確かに増えていた。
書きかけのインクが、まだ乾ききらず、頁の隅で小さく光っていた。
ランプの芯が、ぱち、と短く鳴った。
窓の外が、白み始めた頃。
扉が開いた。
「書き終わったか」
朝の声は、夜より少しだけ低い。
「……書きました」
「そうか。長かったな」
「……はい。でも、書けてよかった」
「そうか」
レオンは部屋の入り口で止まったまま、こちらを見た。目が赤いのに気づいているはずだった。それでも何も言わなかった。
「泣いたのか」
しばらくして、ようやく聞いた。
「少し」
「そうか」
「でも、終わった気がします」
「終わった」
「はい。ずっと書けなかったことが、ようやく書けました」
レオンはしばらく黙っていた。頁の隅に滲んだインクのことを、説明できる気がしなかった。でも、しなくてよかった。
「重かったか」
その問いは、日記の話ではない気がした。
「……はい。ずっと」
「そうか」
「でも今は、少し軽いです」
「少し、か」
「はい。少しだけですが」
「それならいい」
同じ言葉が、今度は違う重さで落ちた。
私は日記を閉じた。
革の表紙が、指の下でひんやりしている。
「朝食を頼む。一緒に食べよう」
「……はい」
「何か食べたいものはあるか」
「……温かいものが」
「そうか。では温かいものを頼もう」
それだけのやり取りだった。
「少し待て」
「はい」
「顔を洗ってこい。水が冷たいぞ。目が覚める」
「……レオン」
「ん」
「夜中に来てくれて、ありがとうございました」
「起きていただけだ」
「それでも」
「……ああ」
短い答えだった。でも、それで十分だった。
答えたとき、声が少し震えた。
レオンは扉の傍から動かなかった。ただそこにいる。それだけで、部屋が静かにあたたかくなった。
EP35、お読みいただきありがとうございます。
凛がこの世界に来てから、ずっと書けなかった手紙でした。
前世の自分——看護師として走り続け、限界で倒れた自分。
彼女を肯定することは、今の凛が自分を許すことと同じです。
「あなたは間違ってなかった。ただ、自分にも優しくしてよかったんだよ」
——この一文に、凛が三十五話分かけて辿り着いた答えを込めました。
涙が紙を滲ませる場面、書きながら私自身も泣いていました。
誰かを守るために自分を削ったすべての人へ、届きますように。
そして、最後の「凛へ」。
あれが何なのか、次話で明かされます。
誰かが、本当に返事を書いているのかもしれません。
次話もどうぞ、よろしくお願いいたします。




