第33話: 素直になれない夜
夜の家は、音が少ない。
でも、静かではない。
薪がはぜる、小さな音。
湯気が鍋の縁を撫でる音。
古い木の壁が、ゆっくり息をする音。
その全部に、耳が尖ってしまう。
眠ればいいのに。
目を閉じたら、あの夕暮れがまた目の裏に浮かぶ。
「……隣にいたかった。それだけだ」
声はもう、ここにはない。
それなのに、胸の奥だけが遅れて熱くなる。
嬉しい。
確かに、嬉しい。
嬉しいはずなのに——その熱は、痛みに変わる。
膝の上で、指を組んだ。
指先が冷たい。
爪の根元が白くなる。
呼吸を整えようとして、逆に浅くなった。
返事を、しなきゃ。
そう思うほど、喉が固まる。
台所の扉の向こうで、足音がした。
薄いスリッパが板を擦る、ゆっくりした音。
「凛ちゃん。起きてる?」
エルザさんの声は、火のそばみたいにあたたかい。
慌てて背筋を伸ばした。
もう遅いのに、叱られるわけじゃないのに。
「……はい。すみません、起こしましたか」
言いながら、自分の声が硬いのが分かる。
笑おうとして、口角だけが引きつった。
扉が少しだけ開いて、灯りが細い線になる。
エルザさんが顔を覗かせた。
白い髪をゆるく結い、肩に毛織りのショールを掛けている。
「起こされるほど眠れてないよ、あたしは」
「……すみません」
「謝ることじゃないさ。——ほら、手が冷たい顔してる」
「……顔、ですか」
「手が冷たいと、顔まで冷たく見えるのさ」
「そう、ですか」
「うん。あたしは長く生きてるからね、そういうの、分かるんだよ」
エルザさんは部屋に入って、椅子を引き寄せ、隣に座った。
椅子が軋む。その音に、胸が小さく跳ねた。
「お茶、淹れてきたの。香り、好きでしょう」
「……はい」
「ね、好きでしょう」
「……ありがとうございます」
カップから立つ湯気に、乾いた薬草の匂いが混じっていた。
畑で嗅ぐ匂いより、丸くて甘い。
両手で包むと、掌がじわりとほどける。
あたたかい。
あたたかいのに、まだ息が苦しい。
エルザさんは、私の顔をじっと見た。
値踏みじゃない。
作業の出来不出来を測る目でもない。
ただ、私の「今」を見ている目。
「嬉しい顔と、苦しい顔が同居してるね」
「……」
「何があったの」
「……」
「言いたくないなら、言わなくてもいいよ」
「……いえ」
「無理しないでね」
言葉を探した。探して、すぐに諦めた。
見透かされている。
隠すほど、不器用に見えるだけだ。
「……嬉しいことが、ありました」
喉が鳴って、次の言葉が引っかかる。
カップの縁を見つめる。
液面に灯りが揺れて、目が痛い。
「でも……返事ができないんです」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
嬉しい、の後に続ける言葉として、あまりに汚い気がした。
嬉しさを汚しているのは、私だ。
エルザさんは眉を寄せない。
「うん」
とだけ頷いて、それから少し首を傾けた。
「——なんで?」
責める「なんで」じゃない。
湯気みたいに柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ「なんで」。
息を吸う。
吸うほど、肺の内側が痛い。
言えば、楽になる。
でも言ったら、きっと戻れない。
「……私なんかで、いいのかって」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れないほどだった。
それでもエルザさんは、ちゃんと聞こえたみたいに頷いた。
「そう思っちゃうんだね」
優しく肯定されると、逆に怖い。
否定される準備をしていたから。
準備を外されて、剥き出しのままになる。
「だって……」
指が震えて、カップの縁が微かに鳴った。
——私は、役に立つことしかしてこなかった。
役に立たない自分は、邪魔になる。
邪魔になったら、捨てられる。
捨てられる前に、もっと頑張らなきゃ。
その順番が、身体の奥に焼き付いている。
前の世界でも、そうだった。
白い光の天井。
止まらない時計の針。
指先のささくれに染みる消毒液。
「お疲れ様」の声が、刃みたいに背中へ刺さる夜。
まだ頑張れるだろ。
まだ動けるだろ。
寝たら終わりだろ。
笑って頷いた。
頷ける自分が、価値だと思った。
倒れたとき、手は空だった。
守りたかったものも、好きだったものも。
最初から抱えていなかったみたいに、軽かった。
——だから。
この世界で、やっと息をしたいと思った。
畑の匂いを「好き」だと思った。火のあたたかさに、身を寄せたいと思った。
なのに、その瞬間に怖くなる。
幸せの形に触れたら、いつか必ず奪われる気がして。
奪われる前に、自分から手を離してしまう。
「私は……私が隣にいるって、きっとその人の迷惑で——」
言い終わる前に、エルザさんの手が私の手の上に重なった。
指の節が少しだけごつごつしている。
畑を触ってきた手。
それが、私の震えを包む。
「凛ちゃん」
呼ばれただけで、胸がきゅっと縮んだ。
“聖女様”じゃない。
役目じゃない。
名前の呼び方ひとつで、こんなにも弱くなる。
「迷惑かどうかは、相手が決めることだよ」
「……でも」
「凛ちゃんが先回りして決めてあげる必要は、ないの」
「……」
「分かる?」
「……はい。頭では」
「うん。頭でだけでも、いいよ」
唇を噛んだ。
それでもまだ、奥の方が抵抗する。
相手が決めてくれても、私が受け取れない。
受け取った瞬間、自分が許せなくなる。
「……私、何も返せないです。何かしてあげられないのに——もらうのが、怖い」
エルザさんは、私の手をそっと引いて、両手で包み直した。
指先を温めるみたいに。
ゆっくり、ゆっくり。
「返さなくていいよ」
「……そんなの」
「あたしね、あの子に何度パン焼いてあげたか、もう忘れちゃった」
ふっ、と笑う。皺が増える。
「でも、あの子は一度もパン代の話なんかしないよ」
「……レオンさんが、ですか」
「うん。代わりに、薪を割ってくる。井戸の水を汲んでくる」
「……」
「あれはね、“返し”じゃないんだよ」
「……違うんですか」
「うん。一緒にいたいから、勝手に手が動いてるだけ」
「……勝手に」
「凛ちゃんも、もう勝手に手が動いてる方の人だよ」
「……私が、ですか」
「うん。気づいてないだけで」
息が、止まりそうになった。
“返さなくていい”と言う人ほど、信じられなくなる。
見返りを求めない人ほど、怖くなる。
——だって、ずっと、見返りの形でしか愛を知らなかったから。
もう一度、名前を呼ばれた。
「凛ちゃん」
「……はい」
「よく聞いてね」
「……はい」
「幸せになっていいんだよ」
その言葉が、胸の底へ落ちた。
落ちて。
ずっとそこに沈んでいた硬い塊へ、触れる。
ぱき、と。
音のない音で、何かが割れた気がした。
息を吸い込んだ。
吸い込んだ分だけ、目の奥が熱くなる。
こらえようとしたのに、まぶたの端から溢れる。
「……っ」
声が出ない。
喉が痛い。
胸が痛い。
痛いのに、少しだけ軽い。
涙が頬を伝って、顎へ落ちた。
毛布の上に小さな染みが増える。
自分の涙の温度が、こんなにあたたかいなんて、知らなかった。
「……いいんですか」
やっと言えた言葉は、子どものみたいに頼りなかった。
「いいの」
断言だった。
「凛ちゃんはね、もう十分やった」
「……」
「ここにいるだけで、ちゃんと偉い」
「偉い、なんて……」
「うん」
「そんな、点数みたいな言葉」
「うん。でも、点数じゃないよ」
エルザさんは、私の頬を指の背で拭った。
指先じゃなくて、背。
傷つけないように。
「ただね、ここに居ていいって、誰かが一度ちゃんと言葉にする必要があるの」
「……」
「凛ちゃんに、誰も言ってこなかったんでしょう」
「……」
「なら、あたしが言う」
「……っ、っ」
「居ていいの」
「……」
「今夜も、明日も、ずっと」
「……エルザさん」
「うん」
「ずっと、って……いいんですか」
「いいに決まってる」
肩が震えた。
震えを止めようとして、止められなかった。
止めないでいい、と身体が初めて知ってしまった。
「ごめんなさい……」
謝罪が先に出る癖が、まだ抜けない。
「謝らないで」
エルザさんは首を横に振った。
「泣くのは、悪いことじゃないよ」
「……でも」
「悪いことじゃないの」
「……はい」
「凛ちゃん、繰り返してごらん」
「……悪いこと、じゃない」
「うん。もう一度」
「……泣くのは、悪いことじゃない」
その言葉に、さらに涙が出た。
胸の内側に溜まっていたものが、湯気みたいに抜けていく。
息が、ようやく深くなる。
しばらく、私は泣いていた。
エルザさんは何も言わず、ただ手を握っていてくれた。
薪がはぜる音が、規則正しく聞こえる。
夜の匂いが、少しだけ甘くなった。
涙が落ち着いてきたころ、袖で頬を拭った。
袖が湿って、冷たい。
でも、前みたいにそれが怖くなかった。
「……エルザさん」
「うん」
「……まだ、すぐには変われないと思います」
「うん」
「また『私なんか』って、言うと思う」
エルザさんは笑った。小さく、皺が増える笑み。
「それでいいよ。言ってもいい」
「……いいんですか」
「ただね、戻っておいで。言ったあとで、ちゃんと、ここへ」
戻っておいで。
その言葉は、道しるべみたいだった。
迷ってもいい。
転んでもいい。
でも、帰っていい場所がある。
カップを置き、両手を膝の上に戻した。
指が、さっきより少しだけ素直だ。
胸の奥で、まだ怖さは残っている。
幸せを受け取ることへの、古い恐怖。
でもその怖さの隣に、別の小さなものが芽を出している。
——明日。
「エルザさん」
「なあに」
「あの……ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「いいよ」
「幸せって……」
「うん」
「こんなに、怖いんですね」
エルザさんは、ゆっくり頷いた。
「うん。怖いよ」
「やっぱり、ですか」
「うん。だから、誰かと一緒に持つの」
「……一緒に」
「一人で抱えると重たいからね」
「……重たい」
「怖さも、嬉しさも、同じくらい」
私はもう一度、目を閉じて、息を吸った。
火の匂い。
お茶の香り。
木の家のぬくもり。
ここに居る私を、誰も追い出さない夜。
明日、言おう。
怖いままでもいい。
声が震えてもいい。
それでも——答える。
「……エルザさん。明日、返事をします」
「うん」
「怖いまま、行ってきます」
「うん。それでいいよ」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
幸福はまだ遠い。
でも、手を伸ばすことくらいは、許していい気がした。
お茶のカップに、まだ薄く湯気が立っている。
その湯気の向こうで、エルザさんが小さく微笑んでいた。
窓の外の、診療所の灯りが——遠く。
ひとつだけ、灯っている。
明日。
レオンさんに。
第三十三話「素直になれない夜」を読んでくださり、ありがとうございます。
第三十二話で告白を受けた凛が、その夜、自分の中の最後の壁——「私なんかでいいのか」という自己否定と向き合う回でした。
嬉しいはずなのに、嬉しさを汚すように湧き上がる古い恐怖。誰かに大切にされる経験が薄い人ほど、いざ与えられたときに固まってしまうものだと思います。「返さなきゃ」「迷惑になる」「自分なんか」——それは弱さではなく、長く生き延びるために身につけた身体の癖のようなもの。
その癖を、エルザさんは説教でも分析でもなく、一杯のお茶と、皺だらけの手と、たった一言の「幸せになっていいんだよ」で、ゆっくりほどいてくれました。誰かに「ここに居ていい」と言葉にしてもらえる夜が、人にはどうしても必要だと、私は信じています。
次話、凛とレオンさんの最後の山場——とその影で、もう一人の決着がつきます。どうか引き続き、見届けていただけたら嬉しいです。
歩人




