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第32話: レオンの言葉

 夕方の診療所は、光が先に静かになる。


 窓の外で、空が橙に煮詰まる。

 乾燥棚の薬草。

 布の上に並べた薬包。


 最後の患者が帰ったあと、私は机に薬包を並べ直していた。

 指先に、ミントの冷たさが残っている。

 数えるたびに、夕日が一段、低くなる。


 戸口で、まきれる音がした。


 「先生」

 「はい」

 「薪、奥に積みました」

 「ありがとうございます」

 「太いやつ、明日の朝でいいか」

 「ええ、構いません」

 「おけの水も、汲んでおきます」

 「お願いします」

 「井戸、明日も凍ってるかもしれん」

 「冷えますね」

 「ああ」


 レオンさんの声は、いつもこのくらいの長さだ。

 短い。必要なことだけ。

 でも今日は声の最後が少しだけ揺れた気がした。


 彼の足音が、奥へ向かう。

 戻ってくる音は、すぐ。

 いつもなら、ここで「では」と言って、きびすを返す。


 今日は、返さなかった。


 私は薬包を数える指を、止める。

 止めてはいけない気がして、また動かす。

 一、二、三。


 「……あの、レオンさん」

 「ああ」

 「今日はもう、上がってくださって構いませんよ」

 「……」

 「火の始末は、私がやりますから」

 「凛さん」


 名前を呼ばれた。

 あんた、ではなくて。


 指先が、止まる。


 「はい」

 「少し、いいか」

 「……はい」

 「座っても、いいか」

 「どうぞ」


 私は椅子を一つ、彼の方へ寄せた。

 寄せたのに、彼は座らない。


 立ったまま土間の入口の柱に肩を預ける。

 大きな身体が、急に行き場をなくしたみたいに見えた。


 夕日が、彼の半分を照らす。

 半分は影。

 その境目に、鎧の留め金が鈍く光った。


 「先生」

 「……はい」

 「あんたは」


 言いかけて、止まる。


 「あんたは、俺がここに居ること、迷惑だったか」

 「迷惑だなんて」

 「いや、いい。最後まで言わせてくれ」

 「……はい」


 私は両手を膝の前で重ねた。

 逃げない、と身体で伝えるみたいに。


 彼は、夕日の方を見ている。


 「目を、合わせて、いいですか」

 「……いや」

 「だめですか」

 「合わせたら、言えん」

 「……分かりました」

 「すまん」

 「いえ」


 私はそっと、自分の視線も逸らす。

 乾燥棚の薬草に焦点を移す。

 それで彼の声だけが、近くなった。


 「俺は、神殿で命じられて、あんたの護衛になった」

 「はい」

 「最初は、仕事だった」

 「……はい」

 「途中から、仕事じゃなくなった」

 「いつから、ですか」

 「……分からん」

 「分からない、ですか」

 「気づいたら、そうだった」


 短く区切られた言葉が、土間に落ちる。

 落ちる音は私の心臓よりゆっくりだった。


 「だから、辺境へ来るって聞いたとき、俺もついていくと決めた」

 「……それは、知っています」

 「ああ」

 「ご恩は、ずっと——」

 「凛さん」


 また、名前。


 「俺は、恩で隣にいるんじゃない」


 夕日が、もう一段沈んだ。

 影が、私の足元まで伸びてきた。


 「……はい」

 「分かるか」

 「……分かります」

 「本当か」

 「……本当です」

 「凛さん」

 「はい」

 「嘘だな」

 「……」

 「いい。怒ってない」

 「すみません」

 「謝るな、と言った」

 「……はい」


 本当は、分かっていない。

 分かっているふりをしただけだ。

 彼はきっとそれも、見抜いている。

 見抜いて、責めない。


 レオンさんの手が、柱から離れた。

 空いた手のひらが、行き場を探す。

 剣の柄に触れる癖で、何もない腰の辺りをつかみかけて——やめた。

 空振りした指が、痛々しい。


 「……うまく言えん」

 「ゆっくりで、いいですよ」

 「いや、ゆっくり言うと、また飲み込む」


 彼は息を吸った。

 胸の鎧が、内側で一度だけ深く膨らむ。


 吐く息が、長かった。


 「俺はあんたを守りたかったんじゃない」


 言葉が、ゆっくり落ちる。

 土に染みる水みたいに、逃げ場なく広がる。


 守る、という言葉が、彼の中でどれだけ重かったのか。

 前任の聖女の話を、私は少しだけ聞いている。


 「……守るって、言葉、嫌いになりましたか」

 「いや」

 「でも」

 「足りない、と思った」

 「足りない」

 「あんたには、足りん」


 その言葉を、今、彼は静かに置き直す。


 「じゃあ、レオンさんは」

 「ああ」

 「何を、したかったんですか」

 「……」

 「言って、ください」

 「あんたの隣に、いたかった」


 呼吸が止まる。


 「それだけだ」


 たった一言。

 不器用で、無駄がなくて、逃げ道もない。

 なのに、胸の奥へまっすぐ届く。


 指先が、震えた。

 手のひらが、薄く汗ばむ。


 次の瞬間に薬包が一つ机の縁から落ちた。


 ぱさり。


 乾いた音。

 ただの紙の音。

 なのに、それが妙に大きく聞こえた。


 「あ……」

 「……拾う」

 「いえ、私が」

 「いいから、座ってろ」


 レオンさんが片膝をついた。

 大きな指が小さな薬包を思いのほか丁寧につまむ。

 壊れ物を触る手だ。


 その指が、机の上に薬包を戻す。


 「……ありがとうございます」

 「ああ」

 「指、ですか」

 「いや」

 「私の手、震えてますか」

 「……少し」

 「すみません」

 「謝るな」


 戻したあと、彼の手は、すぐには引っ込まなかった。

 彼の指と、私の指の間に、机の木目一つぶんの距離。


 息を吸う音さえ、聞こえそうだった。


 「……レオンさん」

 「ああ」

 「あの、私……」

 「うん」

 「今すぐ、ちゃんと、答えを返せる自信が、ないです」


 言ってから、息が浅くなる。


 拒んだと思われたら、どうしよう。

 傷つけたら、どうしよう。

 目の奥が、じわりと熱い。


 それなのに、レオンさんの表情は変わらなかった。

 怒りでも、戸惑いでもない。

 ただ、み砕くみたいな、静かな理解。


 「分かってる」

 「……ごめんなさい」

 「謝るな」

 「でも」

 「凛さん」

 「……はい」

 「俺は、待つのは慣れてる」


 待つのは慣れてる。

 その一言で、肩から力が抜けた。


 この人は、急がない。

 急がせない。

 私の返事が「はい」でも「いいえ」でもないことを、受け止めて、抱えて、どこにも投げない。


 その優しさが——ずるい。

 私の心が追いつくのを待ってくれる優しさに、甘えてしまいそうになる。


 「……ずるいです」

 「……悪い」

 「ずるい」

 「ああ」


 彼の耳の先が、夕日のせいじゃなく、赤い気がした。


 謝罪の形の声なのに、どこか、大事に抱えるみたいな響きだった。


 彼は立ち上がる。

 立ち上がって、また柱の方へ戻ろうとして、ふと、止まった。


 「先生」

 「はい」

 「明日も、薪、運ぶ」

 「……はい」

 「桶の水も、汲む」

 「はい」

 「井戸の凍り、割る」

 「はい」

 「いつも通りに、する」

 「……はい」

 「だから、今日の話は」

 「……忘れなくて、いいですか」

 「忘れんでくれ」

 「はい」

 「答えは、急がんでいい」

 「……はい」


 いつも通り。

 その四音が、こんなに優しい言葉だと、知らなかった。


 彼は短く頷いて、土間を出ていった。

 扉が閉まる音。

 馬の鼻息。

 遠ざかる足音。


 私は、机の薬包を見つめた。

 彼が拾って戻してくれた、一つ。

 他の薬包と、何も違わない、ただの薬包。


 なのに、それだけが、まだ温かい気がした。


 指で、そっと触れる。

 紙の上に、私の指紋が一つ、薄く残った。


 夕日が、診療所の床に最後の橙を投げる。

 乾燥棚の薬草が、影になる。

 外で、鳥が一羽、低く鳴いた。


 私は薬包を、一つずつ、また数え始める。

 一。

 二。

 三。


 数える指が、まだ震えている。

 それでも、止めない。

 止めたら、今夜は眠れない気がしたから。


 窓の外で、夕日が完全に沈んだ。

 最後の橙が、診療所の床から消える。

 代わりに、入口の方から、夜の青が薄く流れ込んできた。


 その青の中に、彼の足音は、もう、ない。


 ない、のに。

 まだ、隣にいる気がした。



第三十二話、お読みいただきありがとうございます。


 レオンの不器用な告白回でした。

 もっと劇的な場面で書くこともできました。月夜の森とか、嵐の夜とか。でも凛とレオンの二人にふさわしいのは、診療所の夕方の、薬包を数える指先の場面しかありえないと思いました。


 「俺はあんたを守りたかったんじゃない。あんたの隣にいたかった」

 この一行を書くために、三十二話を積み上げてきたつもりです。


 守る、という言葉は、優しい言葉です。けれど凛が今までずっと窮屈に感じてきた言葉でもあります。レオンがそれを否定して、「隣にいたい」と置き直す。たったそれだけの言葉が、凛の世界の中心を、静かにずらしました。


 凛はすぐには答えを返せません。返さなくていい、と私は思っています。「答えを返す」という形そのものが、彼女がずっと苦しんできた呪いだったから。


 次話、第三十三話「素直になれない夜」では、凛が一晩かけて自分の心と向き合います。エルザの無条件の肯定に触れて、ようやく一歩進む夜です。


 明日も同じ時間に更新します。続けて読んでいただけたら嬉しいです。


 歩人

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