第31話: 王太子の凋落
封蝋の朱が、指の腹に乗った。
硬い。冷たい。指で押せば崩れる程度の硬さ。
凛は封筒を机の端に置いた。
乾燥棚の布を確かめる。鍋の湯気を見る。それから手を洗う。
水は冷たかった。
「先生」
「はい」
「薬包、棚に戻しました」
「ありがとうございます」
「それと、朝の便です。王都から、急ぎが二通」
「ええ。今、見ます」
アリスさんの視線が、机の端で止まった。
言葉にはしない。
けれど、紙の重さが違うと、彼女も気づいている。
「一通は、神殿への報告書ですね」
「もう一通は」
「私信です」
「……ご返事、書かれますか」
「お昼の前に読みます。先に、子どもの熱を診ましょう」
「はい」
アリスさんは小さく頷いて、奥へ戻った。
桶の水が揺れる音がする。
凛は二通とも、引き出しの上に並べた。
白い紙と、白い紙。
順番だけは、自分で決められる。
昼前、レオンが薪を抱えて入ってきた。
頬に汗の筋。手に泥。
扉の前で長靴を脱ぐ。
土間の桶で、足の裏まで拭いた。
「凛」
「はい」
「王都の噂、ひとつ拾ってきた」
「……どうぞ」
彼は椅子の背に手を置いた。
座らない。
立ったまま、ひとこと落とすつもりの姿だ。
「王太子。継承の列から外れたそうだ」
「……」
「三日前。評議で正式に決まった」
「理由は」
「聖女の政治利用が、表沙汰になった」
凛は薬包の紐を結ぶ手を、止めなかった。
結び目を整え、棚の段に上げる。
「肩章と剣を、返したそうだ」
「そうですか」
「今は王都を出て、領外らしい」
「……静養、という言い方になるんですね」
「だいたい、そう書かれる」
レオンが小さく息を吐いた。
「報せ、辛いか」
「いいえ」
「無理してないか」
「無理は、していません」
「……そうか」
「机の端に、私信が一通あります」
「ああ」
「読んでから、しまいます。それだけです」
「分かった」
レオンは頷いた。
訊かない。詰めない。
扉の外で薪を積み直す音だけが、「いつでも呼べ」と言ってくる。
昼の患者が引けた。
窓辺に陽が差す。
乾いた風が薬草の束を撫でる。
凛はようやく、机の端の封筒を取った。
封蝋を、ペーパーナイフの背でそっと割る。
崩れる感触に、奇妙な静けさがあった。
便箋は二枚。
文字は几帳面で、行間が広い。
《凛へ。
君の価値を知るのが、遅すぎた。
君を国の宝と呼びながら、君の痛みを計算に変えた。
私がしたのは保護ではなく、利用だ。
君が救うたびに減っていくものを、私は見ないふりをした。
許してほしいとは言わない。返事も不要だ。
私の過ちが、私の名で裁かれたことだけ、伝えておきたい。
君が、もう誰の道具にもならずに生きていることを願う。
セドリック》
凛は便箋を膝の上で揃えた。
胸の奥を確かめる。
怒りはない。
悲しみもない。
紙の手触りが、ひどく軽かった。
奥からアリスさんが顔を覗かせた。
「先生」
「はい」
「……お辛そうですか」
「いいえ」
「ご返事は」
「書きません」
「……分かりました」
「アリスさん」
「はい」
「もう少し、私にこの机を貸してください。すぐ片付きます」
「ええ。ゆっくりで」
アリスさんが下がる。
扉の向こうで、布を畳む音がする。
その音のほうが、便箋の重さよりずっと近い。
凛は便箋を、ゆっくり折り直した。
二つ折り。四つ折り。
封筒に戻し、封蝋の欠片を紙の隅に挟む。
引き出しを開ける。
診療の記録。薬の配分。村の覚え書き。
その隙間に、封筒を一通、滑り込ませた。
他の紙と同じ厚みに、揃う。
それだけだった。
鍵は掛けない。
掛けるほどのものではないから。
引き出しを閉める。
木と木が触れる、短い音。
何かが終わったというより、すでに終わっていたことを、もう一度確かめた。
夕方、レオンが井戸端で手を洗っていた。
袖をまくった腕に、夕陽が斜めに当たっている。
「読んだか」
「読みました」
「どうだった」
「……静かでした」
レオンが顔を上げる。
目だけで、続きを待つ。
「怒るかと、自分でも思ったんです。少しは」
「怒らなかったか」
「ええ。怒るには、もう、遠すぎて」
「……そうか」
「あの人は、もう私の人生の登場人物じゃない。読みながら、それを確かめていました」
「分かった」
レオンは手を拭いて、空を見上げた。
茜が、ゆっくり藍へ滑っていく。
「返事は」
「書きません」
「燃やすか」
「いいえ。引き出しに、しまいました」
「……燃やすより、重いな」
「重くないんです、もう」
「そうか」
「あの紙は、紙です。あの人の名前は、音です」
「……音か」
「ええ。まだ刺さっているなら、時間が、ゆっくり抜いてくれます」
「抜くまで、隣にいる」
「はい」
短い返事だった。
その「はい」は、十二年ぶんの「大丈夫です」より、ずっと軽かった。
夜。
窓辺に蝋燭を一本。
凛は帳面を開き、今日の患者の名を書き込んだ。
子どもの熱。老人の咳。畑で切った指。
名前を書く。
日付を書く。
症状を書く。
手順は、変わらない。
扉が静かに開いた。
レオンだった。
「まだ起きてるのか」
「ええ。あと、ここまで」
「灯り、もう少し寄せようか」
「お願いします」
彼が燭台を、こちらへ少しだけ寄せた。
指先が、紙の縁に短く触れる。
その温度で、十分だった。
「凛」
「はい」
「明日、雨らしい」
「では、布を多めに干しておきましょう」
「ああ」
「……レオンさん」
「うん」
「ありがとうございます」
「何が」
「訊かないで、いてくれて」
「……ん」
短い相槌。
でも、その「ん」で十分だった。
書きながら、引き出しが視界の端に入る。
閉じたまま。
その向こうに、封筒が一通。
他の紙と、同じ厚みで眠っている。
——もう、開けないだろう。
開けても、もう揺れないだろう。
それでも、捨てない。
捨てなくていいくらいに、軽くなったから。
窓の外で、犬が一度だけ吠えた。
風が、乾いた葉と土の匂いを運んでくる。
凛はペンを置いた。
指を組む。
目を閉じる。
胸の奥は、静かだった。
怒りでも、悲しみでもなく、ただ、静かだった。
その静けさを、凛は初めて「私のもの」だと思った。
明日も、患者の名を呼ぶ。
引き出しは、閉じたままでいい。
ざまぁの話だけれど、劇場にはしませんでした。
王太子が断罪される場面を凛の目に見せず、噂と一通の私信だけで届く形にしたのは、凛にとってあの人がもう「自分の人生の登場人物ではない」ことを、画面の遠さで示したかったからです。
怒りの解放も、勝利の宣言もない決着。
その代わりに、封蝋を割る指、便箋を折る指、引き出しを閉める指——凛自身の手の温度で章を閉じました。
手紙は燃やされず、引き出しに収まります。
捨てないのは、まだ未練があるからではなく、捨てなくていいくらいに軽くなったから。
そう書けたとき、凛は本当に前へ進んだのだと思います。
次話、レオンが不器用な一行を渡します。
静かなざまぁのあとに、ようやく、彼自身の番です。




