第28話: 騎士の過去
診療所を開いて数日が経った頃、高熱の老人が担ぎ込まれた夜があった。
手当てだけでは間に合わず、凛はほんの少しだけ治癒魔法を使った。
ほんの少しで、膝が折れた。
凛の「大丈夫です」が、俺の胸を裂いた。
診療所の灯りは温かいのに、指先だけが冷える。
五年前の白い廊下が、ここに重なった。
薬草を煮た匂い。煮沸した布の、乾いた清潔さ。
木の床板は新しく、昼に打った釘の金属臭がまだ残っている。
寝台の上で、凛が浅く呼吸している。
頬は赤いのに、唇の色が薄い。
俺は椅子に座ったまま、背を伸ばせない。
「……痛むか」
「……いえ」
「嘘だな」
「……少し、だけ」
短い往復。
それだけで、彼女が本当のことを言うのに、どれだけの段差を踏まされてきたかが分かる。
凛の手首に指を当てる。
細い脈が、弱く、けれど確かに打っていた。
その拍動だけが、俺を現実に縫い付ける。
凛がまぶたを震わせた。
喉が鳴って、小さく息を吸う。
「……だいじょ……ぶです」
言いかけた。
反射みたいに。
自分を守るためじゃない。他人を安心させるための、優しい嘘。
俺の腹の底が、冷水を浴びたみたいに縮む。
口の中が鉄の味になる。
「……大丈夫じゃない」
「……すみません」
「謝るな」
「……はい」
やっと出た声は、情けないほど掠れていた。
凛は目を開け、申し訳なさそうに笑う。
笑いながら、痛みに蓋をする顔だ。
その表情が、別の女を連れてくる。
白い髪。淡い金の睫毛。
二十三歳で止まった笑み。
聖女リアナ。
俺が二十歳だった頃、俺の隣にいた人。
視界の端で、診療所の灯りが揺れた。
揺れが、白い廊下の反響に変わる。
——あれは、まだ俺が王城騎士だった頃。
疫病の冬。大神殿の祈祷室。日没前の鐘が鳴り終えた直後。
祈祷室は、いつも白かった。
白い壁。白い床。白い衣。
血の色も、汗の色も、そこでは「汚れ」にされる。
民は倒れ、貴族は怯え、神殿は「奇跡」を求められた。
求められた分だけ、聖女は削られた。
リアナは祭壇の前に立っていた。
祈りの光は柔らかいのに、彼女の肩は細く、影が濃い。
指先は赤く、爪の根元が白い。
「……次です、聖女殿」
「……はい」
「あと七名。ご準備を」
「……分かりました」
神官の声は丁寧だった。
丁寧だから、命令が命令に見えない。
丁寧だから、拒む方が悪者になる。
リアナは小さく頷いた。
俺を見る。
困らせない笑みを作ってから、言う。
「大丈夫です、レオン様」
「リアナ様」
「大丈夫」
「大丈夫じゃ、ない」
「大丈夫、です」
「リアナ様、もう、座ってください」
「もう少しだけ、立てます」
その瞬間、俺の腹の底が凍った。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。
凛と同じだ。
俺は一歩踏み出す。
彼女の肩に手を置けば、倒れる前に支えられる。
口を開けば、止められる。
「リアナ様、今日はもう——」
言いかけた声を、背後から切られた。
「レオン」
騎士団の上官。
鎧の擦れる音が、祈祷室の静けさを裂いた。
彼は俺の肩を掴み、耳元で低く言った。
「任務を忘れるな。護衛は護衛だ。判断をするな」
「ですが、限界です」
「限界でも、国が求める。神殿が命じる。お前は従え」
「……っ」
「言葉を返すな。剣で答えろ」
「……はい」
従え。
その一言が、鎖みたいに首に掛かった。
リアナは祈りの姿勢を取る。
膝をつき、手を組む。
吐く息が、かすかに震えている。
俺は見ていた。
見てしまっていた。
彼女の呼吸が浅くなり、肩甲骨が浮き、背中が細く折れていくのを。
でも俺は、口の中で呟いた。
自分を黙らせるための呪文を。
——命令だから。
——命令だから。
祈りの光が立ち上がる。
次の患者へ向けた治癒の奇跡。
そのたびに、リアナの頬の血色がひとつずつ抜けていく。
光が消えた。
リアナは、ほんの一歩だけ前に倒れた。
踏みとどまろうとして、足がもつれた。
「リアナ様!」
「下がれ」
「見えませんか。倒れる」
「倒れたら運べ。だが、止めるな」
「人が、ひとり死にます」
「ひとりで済ませろ」
「上官——」
「黙れ」
骨が鳴るほど強く、上官の手が俺の腕を押さえた。
揺れるのは国じゃない。
今、揺れているのはリアナの身体だ。
リアナが、床に膝をついた。
白い床に、汗が落ちる。
汗が落ちるだけで、そこでは「罪」になるみたいだった。
俺は喉の奥で血を噛んだ。
金属の味がした。
それでも、俺は繰り返す。
——命令だから。
リアナが顔を上げる。
目が合った。
その目は、怒っていなかった。
責めてもいなかった。
ただ、俺を安心させようとしていた。
「……大丈夫です」
「リアナ様」
「レオン様は……悪くありません」
「悪い。俺は悪い」
声に出して言った気がした。
でも、誰にも届かなかった。
悪い。
悪いに決まっている。
俺が止めないから、彼女は立っている。
俺が止めないから、彼女は倒れる。
俺が止めないから——。
「リアナ様、もう——」
今度こそ言おうとした瞬間。
リアナの身体が、ふっと軽くなった。
糸が切れたみたいに。
倒れる。
俺は掴んだ。
掴んだのに、間に合っていない。
腕の中の彼女は、熱い。
熱いのに、指先が冷たい。
冷たい指先が、俺の手袋の上からでも分かった。
「医務室へ!」
「迅速に運べ」
「……はい」
「余計なことは考えるな」
「……はい」
「お前の役目は、運ぶことだ」
「……運ぶ、だけ、ですか」
「だけだ」
余計なこと。
それはきっと、人が人を守ろうとすることだ。
医務室の扉は、白い布で仕切られていた。
中の匂いは、血の匂いで濃く、吐き気がしても、俺は吐けなかった。
寝台にリアナを寝かせる。
「脈、取れます」
「弱い」
「呼吸も」
「浅い。間隔が開いてる」
「祈りを」
「……間に合うのか」
「分からん」
リアナは目を開けた。
焦点が合わないまま、俺の方を探す。
俺は一歩近づき、膝をついた。
「……レオン様」
「リアナ様、ここに」
「……ごめんなさい、ね」
「謝らないでください」
「……あなたは、悪くないの」
「……っ」
「ね、大丈夫」
「リアナ様」
「……大丈夫、です」
名を呼ばれた瞬間、俺の喉が詰まった。
謝れない。
止められなかった、と言えない。
命令だった、と言ってしまえば、彼女の死を国のせいにできる。
だが、そうした瞬間、俺は永遠に自分を許せなくなる。
リアナは、薄く笑った。
涙が出ていないのに、泣き顔みたいな笑みだった。
それが、最後だった。
その言葉が落ちた瞬間、彼女の呼吸が止まった。
音が消えるのは、こんなにもはっきり分かる。
俺はその場で、何も言えなかった。
ただ、命令の形をした鎖を握りしめて。
握りしめた手の中で、誰かの命がほどけていくのを見ていた。
——気づくと、俺は診療所の灯りに戻っていた。
冬の夜半。リンデン村の診療所。寝台の脇の椅子。鼻先で揺れる薬草の匂い。
凛の寝台の脇。
木の天井。
さっきまで夢みたいに遠かった過去が、まだ皮膚の内側に残っている。
凛は起きていた。
起き上がろうとして、ふらついて、すぐに俺の視線に気づいて止まる。
「……ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「違う」
「あの」
「寝てない。最初から」
「……そう、ですか」
短い往復。
それだけじゃ足りない。
でも、どう言えばいい。
凛は掛布を胸まで引き上げた。
弱さを隠す仕草なのに、こちらに気を遣う癖が染みている。
「私……平気です」
「凛」
「はい」
「その言葉、もう一度言ったら」
「……もう一度」
「俺、たぶん泣く」
冗談みたいに言いたかった。
言えなかった。
声が、途中で割れた。
凛が瞬きする。
困ったみたいに笑って、いつもの逃げ道を探す顔になる。
「……ごめんなさい。つい、癖で……『大丈夫です』、って言うと」
「周りが安心する。だから言う」
「……はい」
「俺は安心しない」
「……はい」
「あんたが大丈夫じゃないとき、ちゃんと、大丈夫じゃないと言ってほしい」
凛は黙って頷いた。
頷く角度が、リアナと同じだった。
その一致が、俺を痛めつける。
「……俺は、その言葉が嫌いだ」
「……」
「嫌いだ。憎い。怖い」
「レオンさん」
「あんたが言うと、もっと怖い」
凛が目を見開く。
俺は視線を外した。
外さないと、今、吐いてしまう。
指先が、凛の手を探してしまう。
けれど触れるのが怖い。
触れたら、守れなかった手の感触がよみがえる。
迷った末、人差し指の先だけが、凛の袖口に触れた。
布の縁。糸のほつれ。それだけ。
それだけで、心臓が痛い。
「……冷たい、ですね、指」
「ああ」
「いつもですか」
「ここ五年、ずっと」
凛は唇を噛んだ。
泣かないように。
泣いてしまえば、また俺を安心させようとするから。
沈黙が、診療所の壁にゆっくりと溜まる。
外は冬だ。隙間風が木を鳴らす。
無音が、ふたりの肩に、しずかに積もる。
俺は、息を吸った。
薬草の匂いが、肺の奥に刺さる。
五年前の血の匂いが、そこに混ざった気がした。
「……話がある」
「はい」
「長い話だ。聞きたくなければ、止めていい」
「止めません」
「途中で、嫌になるかもしれない」
「……それでも、最後まで聞きます」
「……分かった」
凛は、逃げなかった。
頷き方が怖いくらいまっすぐで。
だから、俺も逃げられなくなる。
「五年前、俺は聖女護衛だった」
「……はい」
「前任の聖女……リアナ様」
「お名前を、初めて聞きました」
「……ああ」
その名を出すだけで、舌が重くなる。
俺の喉は、ずっとそこで塞がっていた。
凛の肩が小さく揺れる。
「リアナ様は、いつも言った。大丈夫です、って」
「……」
「俺は気づいてた。限界だって」
「……気づいて、いたのに」
「……ああ。気づいてた。気づいてて」
言葉が途切れる。
息が詰まる。
それでも続けるしかない。
「……でも、止めなかった。命令に従った」
命令。
その短い言葉が、俺の口の中で砂みたいに乾く。
そして、ようやく分かる。
乾いたのは言葉じゃない。
俺の心だ。
凛が小さく息を吸った。
「……レオンさん」
「凛」
「……はい」
「初めて、名前で、呼ばせてくれ」
「はい」
その呼び方が、俺の最後の鎧を剥がす。
「凛」
「はい」
「あんたを、リアナ様にはしない」
「……」
「絶対に、しない」
「……はい」
初めて、名前で呼んだ。
胸の奥が裂けた。
裂けたところから、黒いものが溢れてくる。
「あのとき俺は命令に従って——リアナ様を殺した」
「……」
「……俺が、殺した」
凛の指が、掛布の上で震えた。
それでも彼女は、逃げない。
受け止めようとする。
俺は喉の奥を押し開けるみたいに、もう一度、最後を吐き出した。
「俺が、殺した」
言い終えた瞬間、俺の指から力が抜けた。
凛の袖口に触れていた指先が、ほんの少しだけ深く沈む。
糸のほつれを掴むみたいに。
糸でも、掴んでいなければ、立っていられない。
凛は、何も言わなかった。
責めなかった。
慰めもしなかった。
ただ、震える指先を、俺の手の甲に重ねた。
布越しではなく、皮膚で。
その温度が、五年ぶりに俺の鎖を、ひとつだけ緩めた。
「……レオンさん」
「……」
「今夜は、何も、言わなくていいです」
「……ああ」
「私も、何も、言いません」
「……すまない」
「謝らないで、ください」
「……」
「さっき、私も、言われました」
「……ああ」
「お互い、さま、です」
「……ああ」
「ねえ、レオンさん」
「ああ」
「指、もう少し、置いてもいいですか」
「……どこに」
「ここ。私の、手の、上に」
「……いいのか」
「いいです」
「……」
「冷たくても、いいんです」
「……ありがとう」
「お礼は、私が言うほうです」
ほんの少しだけ、凛の頬が笑った。
泣き顔みたいな笑みだった。
リアナの最後と、同じ形で。
けれど、息が、ちゃんと続いていた。
寝台脇の油皿が、芯の根元まで燃え尽きて、ふ、と細く煙を立てた。
暗くなりかけた部屋に、窓の外の月だけが残った。
窓枠の影が、ふたりの手の上で、ひとつに重なっていた。
外で、夜の木が、長く一度きしんだ。
今夜の続きは、まだ、誰の言葉にもなっていない。
レオンの過去回を、書きました。
彼が無口なのには理由があって、その理由を凛に話す日が——いつか必ず来る、と決めていました。決めていたのに、書く段になると、なかなか口を開いてくれない人で。「命令だった」と言わせれば軽くなる。「俺が殺した」と言わせれば重すぎる。そのあいだで彼自身が長く迷っていたのが、執筆中ずっと伝わってきました。
リアナの最後の「大丈夫です」と、凛の「平気です」が、レオンの中で同じ声になる瞬間を、ただ静かに置きたかったです。劇的な音楽は鳴らさず、油皿が燃え尽きる音だけが残る——そんな夜にしたくて、診療所の小さな灯りひとつに、ふたりを置きました。
次回、凛が応えます。彼女もまた「大丈夫です」と言い続けてきた人。同じ傷を持つふたりが、初めて互いの傷に触れる夜です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




