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第27話: 小さな診療所

 空き家の鍵が、てのひらで冷たく鳴った。


 誰の部屋でもない。


 誰の許可もいらない。


 ここを、診療所しんりょうじょにする。


 扉を押すと、乾いた埃がふわりと舞った。


 「……よし」


 袖をまくり、髪を括り直す。


 バケツの水を汲み、雑巾を絞った。


 冷たい。


 その冷たさがいい。


 床を拭くたび、板の木目が顔を出す。


 窓枠の蜘蛛の巣を払い、棚の灰を落とした。


 治癒魔法ちゆまほうだけの場所にはしない。


 薬草の匂い。煮沸した布の清潔さ。手を洗う水。


 戸口の向こうで、砂利じゃりが鳴った。誰かがのぞき込んでいる。


 「お、凛ちゃん。ここ、使うのかい」


 顔を出したのは、隣家の男の人だった。


 村に戻った日、道を教えてくれた人だ。


 「はい。少し、借りてもいいって許可をもらいました」


 「へえ……何に?」


 「診療所を作ります」


 男の人の眉が上がる。


 「診療所、作るの?」


 その言葉が胸に刺さった。


 作るの。作れるの。


 私が。


 「はい」


 「誰に頼まれたんだい」


 ——違う。


 違う、と言える。


 口の中で何度も転がしてきた言葉が、やっと形になった。


 「頼まれたからじゃないです」


 「……え?」


 「私が、そうしたいから」


 言い切った瞬間、胸の奥が、ふっと軽くなった。


 初めてだ。


 『したい』で動くのは。


 許しを待たない、自分の足の一歩。


 男の人はしばらく瞬きをして、それから、照れたみたいに笑った。


 「そっか。……いいじゃないか」


 「ありがとうございます」


 「何か要るものあったら言いな。板とか椅子とか」


 「はい。……でも、今日は、自分でやります」


 断るのも、選ぶのも、自分の手で。


 男の人が去ったあと、もう一度雑巾を握り直す。


 指先に、力が戻る。


 ——ここから先は、私の仕事だ。


 扉の外で足音が止まった。


 木がきしむ。重いものが床へ置かれる音。


 振り向くと、戸口にレオンさんが立っていた。


 ——昨日、「レオン」と呼び捨てにしてしまった。旅の高揚が、敬称を飛ばしてしまっただけだ。今朝になって思い出すと、顔が熱い。だからまだ、「さん」をつけてしまう。


 肩には板材。腕には釘の入った袋と、工具を抱えている。


 いつもの無表情のまま、息が少し白い。


 「……運ぶの、手伝います」


 「いい」


 短い返事のあと、レオンさんは黙って中へ入った。


 床の汚れた場所を避けるように、足を置く場所だけは妙に丁寧だ。


 板材を壁際へ立てかけ、袋を置く。音が大きくならないように。


 「それ……」


 「村の大工から借りた。あと、余り」


 余り、と言う割に、必要なものが揃っている。


 棚板。支えの木。釘の太さもいくつか。


 私は気づいてしまって、喉が詰まった。


 「……頼んでません」


 「分かってる」


 レオンさんは、私の手元を見た。


 雑巾。水の入ったバケツ。擦り切れた指先。


 「やるんだろ」


 それだけ。


 背中を押す言葉じゃない。


 「……はい。やります」


 「なら、手を止めるな」


 「はい」


 「棚は壁際でいいか」


 「お願いします。三段、欲しくて」


 「分かった」


 レオンさんは外套を脱ぎ、袖をまくった。


 その動きが、私の動きと同じで。


 胸の奥の震えが、今度は温かく揺れた。




 昼までに、部屋の半分が「それっぽく」なった。


 机。煮沸した布の山。薬草を詰めた瓶。


 私は鍋を火にかけ、灰汁あく石鹸せっけんを小さく切った。


 手洗い用だ。


 「水はここ。桶は二つ。汚れた方と、すすぐ方」


 「……覚えてる」


 「薬草はあの瓶に。乾燥したやつだけ」


 「了解」


 「布は煮沸が終わったやつから、こっちの棚」


 「分かった」


 「あと、釘は子どもの手の届かない場所に」


 「上の棚だな」


 「お願いします」


 レオンさんは、言葉少なに返しながら、棚の高さを測っていた。


 板に鉛筆で印をつけ、迷いなくのこを入れる。


 木屑が落ちる。陽の光に、きらりと舞う。


 手際が良すぎて、私は少し笑ってしまった。


 「大工さんみたいですね」


 「村出身だ」


 「……そうでした」


 「親父が大工だった」


 「教わったんですか」


 「教わるってほどでもない。見てただけだ」


 「見てるだけで、こんなに?」


 「子どもの頃の話だ」


 言い直す。


 村出身。リンデン村は、彼の帰る場所だった。


 そして今は、私の帰る場所でもある。


 鍋の湯気が立ち上がる。


 布を箸で沈めると、ふわりと白さが増した。


 清潔であること。準備してあること。


 「る場所が、必要です」


 独り言みたいに言うと、レオンさんは釘を口に咥えたまま、目だけでこちらを見た。


 「誰のためだ」


 「……違います」


 慌てて首を振る。


 「誰かのため、だけじゃなくて」


 「じゃあ」


 「私のためです」


 言葉が、するりと出た。


 「私が、ここをやりたいんです。だから——“必要”なんです」


 レオンさんは、釘を指で摘まんで外した。


 「……そう言えたなら十分だ」


 褒めるみたいな声じゃない。


 確認。いや、受け取り。


 私は息を吐いた。


 胸の奥が、少しだけ広がる。


 午後、戸口が控えめに叩かれた。


 振り向くと、村の人たちが数人、遠慮がちに立っている。


 手にはほうきや布、古い椅子。まきの束まで。


 「……空いてる家、掃除してるって聞いて」


 「手、足りるかい」


 「あんたが帰ってきたって聞いたんだ」


 「うちの婆さんが、薬を切らしててな」


 視線が私の顔へ集まって、次に、肩のあたりで止まる。


 聖女服は着ていない。それでも、彼らの中にはまだ「聖女様」がいる。


 私は一歩前に出て、頭を下げた。


 下げすぎない。


 折れない。


 「ありがとうございます。でも、お願いがあります」


 「なんだい」


 「ここでは、私は“聖女”じゃなくて……凛です。凛と、呼んでください」


 空気が止まった。


 誰かが息を呑み、誰かが目を伏せる。


 でも、怖くなかった。


 私は待てる。


 待つのも、自分で選べる。


 やがて、年配の男が咳払いをして、照れたみたいに言った。


 「……凛さん。これ、使えるか」


 「はい。すごく助かります」


 「凛さん、椅子はどこに置く?」


 「窓際にお願いします。明るい場所がいいので」


 「桶はこっちでいいかい?」


 「はい。汚れた水用と分けて、二つ並べてください」


 「分かった。よっこいしょ、と」


 「重くないですか?」


 「これくらい、平気だよ」


 「ありがとうございます」


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 私は椅子を受け取り、布を受け取り、薪を受け取る。


 受け取っても、私は削れない。


 今は、そういう受け取り方ができる。


 レオンさんが無言で荷物を引き受け、置く場所を作っていく。


 誰かが箒で床を掃き、誰かが窓を拭く。


 家が、家じゃなくなっていく。


 診療所になっていく。


 私の場所に、なっていく。


 その輪の外から、柔らかい声がした。


 「凛ちゃん、ちょっと休んで」


 エルザさんが、大きなかごを抱えて立っていた。


 中からパンの匂いと薬草茶の香り。


 「エルザさん……」


 「ほら、顔。ちゃんと見せて」


 私が顔を上げると、エルザさんは目尻をくしゃりとさせた。


 「いい顔してるよ、凛ちゃん」


 「……そう、ですか」


 「うん。前に村を出てった日の顔と、全然違う」


 「違いますか」


 「違うよ。今は、自分の顔してる」


 私は慌てて視線を逸らした。


 でも、その熱は苦しくない。


 火鉢みたいに、静かに暖かい。




 夕方、光が橙に変わる頃。


 レオンさんは外に出て、木の板を膝に乗せていた。


 短剣で、表面を削っている。


 私は鍋から薬草茶を注ぎ、そっと隣に置いた。


 彼は礼も言わない。


 でも、手だけが一瞬止まった。


 板の中央に、深い溝が刻まれていく。


 「……それ、看板ですか」


 私が尋ねると、レオンさんは板を少し傾けて見せた。


 まだ途中。


 けれど、はっきり読める。


 『リンデン診療所 凛』


 心臓が、変なところで跳ねた。


 自分の名前が、木に刻まれている。


 「……いいんですか」


 「何が」


 レオンさんは視線を外したまま、短剣を持ち替えた。


 刃先が、最後の払いを整える。


 「“聖女”じゃなくて。……凛、だけで」


 言ってしまってから、怖くなる。


 もし彼が「そうするべきだ」と言ったなら、私はまた誰かの正しさに縛られる。


 でも、レオンさんは首を振った。


 小さく。


 決めつけない揺れ方で。


 「決めるのは、あんただ」


 「……はい」


 「迷ったら、戻していい」


 「戻すかもしれません」


 「それでいい」


 そう言ってくれる人が、隣にいる。


 私は看板の文字を、指でなぞった。


 線が少し曲がっていて、角も揃っていない。


 でも、温かい。


 「これがいいです」


 「……後悔するな」


 「後悔したら、変えます。私が」


 言った瞬間、レオンさんの口角がほんの少し動いた。


 笑った、と言うほどじゃない。


 けれど、それで十分だった。


 村の人たちが、梯子はしごを運んできた。


 釘を持った手が集まり、紐を結ぶ手が集まる。


 「凛さんの店だ」


 「店っていうか、診療所だろ」


 「同じことさ」


 「うちのも、こんど診てもらおうかね」


 「俺もだ。腰がな」


 誰かがそう言って、皆が小さく笑った。


 私は梯子の下を押さえた。


 レオンさんが上り、看板の紐をはりに回す。


 木槌きづちの音が、夕空に乾いて響く。


 最後の釘が打ち込まれた。


 看板が、玄関の上で揺れて、静かに止まる。


 『リンデン診療所 凛』


 「曲がってないかい?」


 「真っすぐです」


 「ほんとか?」


 「ほんとに真っすぐです」


 誰かが笑い、誰かが拍手をした。


 私は一歩下がって、それを見上げた。


 「……始まりですね」


 レオンさんは梯子を降り、私の横に立った。


 肩が触れるか触れないかの距離。


 触れないまま、ちゃんと隣だ。


 「始まりだ」


 その夜、家の中は少しだけ暖かかった。


 薪の匂い。薬草茶の甘い苦味。


 机の上には、煮沸した布と、空の器と、書きかけの記録帳。


 戸を閉め、看板の影が床に落ちるのを見た。


 自分の名前の影。


 ——こん、こん。


 遠慮がちな音。


 そのつつましさに、胸がきゅっとなる。


 「……はい」


 戸を開けると、若い母親が子どもの手を引いて立っていた。


 男の子は下を向いて、鼻をすすっている。


 「凛さん……ここ、診療所だって……」


 「ええ。どうしました?」


 「この子が、転んじゃって」


 「どこを?」


 「手の、ひらを」


 母親は申し訳なさそうに、子どもの掌を見せた。


 皮がけて、赤く滲んでいる。


 「洗ったんだけど、痛いって泣いて……」


 「うちで看てるべきか、迷ったんですけど……」


 「いいえ。連れてきて、正解です」


 「ほんとに?」


 「ほんとに」


 「来てくれて良かったです」


 「ほんとに、ですか?」


 言いかけて、母親は口を結んだ。


 「ほんとです。迷ったなら、それで正解です」


 私は男の子と目線を合わせた。


 「お名前、聞いてもいい?」


 「……トト」


 「トトくん。手、見せて」


 「うん」


 「まず、洗おうか。痛いの、少し楽にするから」


 「……うん」


 男の子が小さく頷く。


 私は桶を二つ用意し、温めた湯を注いだ。


 灰汁の石鹸を泡立て、傷の周りだけを丁寧に洗う。


 「しみる?」


 「……ちょっと」


 「えらい。息、ふーってしてみて」


 「……ふー」


 「もういっかい」


 「ふー」


 「上手。じゃあ、もう少しだけ我慢ね」


 「……うん」


 男の子の小さな声に合わせて、布を当てた。


 煮沸した布の白が、赤を吸っていく。


 治癒魔法を使えば、もっと早い。


 でも、ここは魔法だけの場所にしたくない。


 洗って、おおって、守る。


 最後に、ほんの少しだけ魔力を指先に集めた。


 皮膚の縁を繋ぐ程度。


 男の子の目が丸くなる。


 「……あったかい」


 「うん。もう平気」


 「いたく、ない」


 「うん。よく頑張ったね」


 「先生、すごい」


 「先生じゃないよ。凛で、いい」


 「……凛、ねえちゃん」


 「うん」


 包帯ほうたいを巻き終えると、母親が深く息を吐いた。


 「……ありがとうございます。こんなすぐ来ていいのか、迷って」


 「迷ったら来てください。ここは、そういう場所です」


 言ってから、胸の奥が満ちていくのを感じた。


 頼まれたからじゃない。


 私が、そうしたいから。


 母親と子どもが帰るとき、レオンさんが戸口の横に立っていた。


 言葉はない。


 でも、視線が一度だけ私に留まる。


 私は小さく頷いた。


 頷けることが、嬉しい。


 夜の冷気が少し強くなった。


 それでも、診療所の中は暖かい。


 看板の影が、床に揺れる。


 『リンデン診療所 凛』


 私の名前だけ。


 それで、十分だった。


 机の上に、薬瓶が三本並んでいる。


 煮沸した布が一山。


 最初の患者を待つための椅子が、ひとつ。


 明日の朝、誰が戸を叩くかは分からない。


 それでも、椅子は置く。


 私が、置きたいから。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第三章「私のための涙編」、開幕です。第一章で“逃げ出した”凛が、第二章で“見送られて旅立った”凛になり——そして第三章の冒頭で、ようやく自分の手で「場所」を作りはじめました。


「頼まれたからじゃないです。私が、そうしたいから」。十二年ぶりの、許しを待たない一歩です。書きながら、私のほうがちょっと泣きそうになっていました。


レオンの不器用な看板。線が少し曲がっていて、角も揃っていない。でも、それがいいのです。完璧じゃない手で彫られた名前が、世界にひとつ、凛の居場所を作りました。


最初の患者は、転んだ男の子。治癒魔法じゃなく、まず手を洗って、布で覆って、最後にほんの少しだけ魔力で縁を繋ぐ——「命を削らない治癒」の、最初の一歩でもあります。


次話「騎士の過去」では、レオンが長く抱えてきた重荷に触れます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

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