第26話: 二度目の旅立ち
謁見の間の床は、冷たかった。
その冷たさが足の裏から膝へと這い上がってくる。私は感覚を確かめるみたいに靴底をぎゅっと押しつけた。逃げる夜の石畳とは違う冷たさだ。
あの夜は私の体温を奪う冷たさだった。
今日のこれは私の覚悟を確かめる冷たさだ。
「リンデン村に帰ります」
言い切った瞬間、広間が——息を止めた。
誰かの衣擦れが止まる。誰かの呼吸が半拍だけ長くなる。私は背筋を伸ばしたまま、その小さな音を全部、耳に入れた。
玉座の王は、ゆっくり頷いた。
「引き留めはしない。だが——感謝は伝えたい」
王の声は低い。けれど柔らかい。
「聖女殿。貴女が戻ったことで、多くの命が救われた」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「救ったのは皆さんの手です。薬を煮て、運んで、看て——祈ってくださった、その手です」
「では、その手を率いたのは誰だ」
「……それは」
「貴女だろう」
言葉が優しく上から降ってきた。命令でも所有でもない、ただの事実として。
私は胸の前で手を重ね、深く礼をした。敬語は崩さない。けれど背筋は折らない。
「私は、もう“削られて”誰かの道具にはなりません」
その一言で、列の端の誰かが小さく息を呑んだ。
セドリックさんの肩もわずかに揺れる。
「凛」
隣のレオンさんが短く呼んだ。“言い過ぎるな”ではなく“言え”という声。背中をそっと押す手のような低い声。
私は頷いて王をまっすぐ見た。
「私は村に帰ります。リンデン村で畑を耕します。薬草を育てます。診療所のようなものを、ゆっくり開きます」
「……それが、貴女の望みか」
「はい。今の私の望みです」
王は唇の端をほんの少しだけ上げた。笑みというより、認めた印。
「ならば道は整えよう。王都から村まで、危険のないように」
そう言うと王は視線を横へ滑らせた。その先にいるのはセドリックさん。
「セドリック」
「……はい、陛下」
セドリックさんは一歩前に出て膝をついた。貴族の作法のはずなのに、今日はそれが“身を削る”仕草に見えた。
「凛。……すまなかった」
頭が下がる。あの日、私を縛った言葉も命令もこの人の口から出た。
でも同時に、疫病の現場で眠らず走った背中も私は見ている。
息を吸う。許すためでも責めるためでもない。終わらせるための言葉を選ぶ。
「謝罪は、次の聖女を作らないことで示してください」
「……」
「お言葉だけなら、私はもう、受け取りません」
静寂が落ちた。重い。けれど怖くない重さだった。
セドリックさんの肩が震え、やがて顔を上げた。目の縁が赤い。一人称を隠してきた人が、今は子どもみたいに見える。
「……僕は、必ず止める。制度も、思想も。聖女を“生み出す”仕組みを」
「お願いします」
それだけでいい。許したと言ったわけじゃない。
でも未来への条件は確かに渡した。
王が静かに言葉を継いだ。
「聖女殿。貴女の帰る場所が、貴女のものとして続くよう、国として守ろう」
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。感謝を受け取ることに、私はまだ慣れていない。
レオンさんが横で小さく鼻を鳴らした。
「泣くな。まだ門まである」
「泣いていません」
「顔がもう泣きそうだ」
「……レオンさん」
「俺はただの事実を言ってる」
「事実が冷たい人ですね」
「冷たい方が、あんたには丁度いい」
叱られているのに苦しくない。隣にいるだけで心臓が落ち着いていく。
冷たかった床が、いつの間にかただの石になっていた。
王都の城門へ向かう道は思っていたより広かった。
こんなに空が見える道を、私は今まで“通してもらえていなかった”のだと気づく。
石畳の両端に人がいる。一人、二人ではない。波みたいに増えていく。
「……どうして」
呟きは風に溶けた。私の耳にだけちゃんと届く。
誰かが花を持っている。誰かが布を掲げている。子どもが背伸びをして門の方を覗き込んでいる。
レオンさんが肩をすくめた。
「噂は回る。あんたが疫病を止めたってな」
「私一人では——」
「分かってる。でも、あんたが“戻ってきた”のは事実だ」
戻ってきた。
それは、あの夜の“逃走”とは逆の言葉だ。
第三の夜、私はフードを深く被り、息を殺して裏門を抜けた。足音が怖くて、犬の遠吠えに心臓が跳ねて、石に躓きそうになりながら——ただ生きるために走った。
あのときの王都は私を見つけたら引き戻すか石を投げるかどちらかだった。“聖女”は便利な道具で、都合が悪くなれば罪人にもなる。
けれど今、門前に集まる人々の顔は違う。目が私を“人”として見ている。
誰かが叫んだ。
「聖女様! ありがとう!」
次の声が、重なって落ちた。
「ありがとう、聖女様!」
「助かったよ!」
「おかげで母ちゃんが——!」
「また来てくださいね!」
最後の子どもの声は震えているのに明るかった。
胸の奥に熱いものが溜まる。
「……皆さん」
声が掠れた。私は足を止め、群衆へ向き直る。
王宮の壁の中では聖女は舞台に立てなかった。立てば操り糸を結ばれるから。
でも今は誰にも引かれない。私は自分の足で立っている。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
頭を下げると、ざわめきが一瞬静かになった。
そして次の瞬間、拍手が起こった。
拍手なんて私には似合わないと思っていた。けれどその音は軽くなくて温かい。手のひらと手のひらが擦れて空気が震えて、私の胸まで届いてくる。
誰かが前へ出て小さな包みを差し出した。布の隙間から、乾いた薬草の香り。
「村へ持ってって。うちの畑のやつだ」
「……ありがとうございます。大切に使います」
「お代はいらねえ。あんたが使うなら、薬になるからな」
「お代を、いただかないと、私が困ります」
「困ったら、その分、長く生きてくれ」
「……はい」
「長く生きてくれよ。約束だぞ」
「約束、します」
言葉に詰まった。指の腹で布を握り直すと、薬草のかさついた感触が掌に残った。
「聖女様」
別の声が足元の方から上がってきた。
見下ろすと、小さな女の子が私の袖を握っている。手のひらがまだ細い。
「うち、おかあさん、おきたよ」
「……起きたんですね」
「うん。きのう、おかゆ、たべた」
「よかった」
「ありがとう」
「いいえ。あなたのおかあさんが、頑張ったんです」
「ううん。せいじょさまも、がんばった」
その短い言葉が私の喉の奥をこつんと突いた。
別の人が、焼き菓子を。別の人が、薄い毛布を。あまりに多くて私は受け取りきれない。
困って振り向くと、レオンさんが無言で両腕を差し出した。不機嫌そうな顔のまま荷物を受け取っていく。
「重いですよ」
「あんたは持つな。倒れる」
「……はい」
返事が素直になってしまって、私は自分で驚いた。
隣で笑う気配がして、見上げると、レオンさんの口角がほんの少し上がっていた。
門が見える。白い光の向こうに街道が続いている。
門前で、私はもう一度だけ振り返った。人々の顔がちゃんと見える距離にある。
「……私、行ってきます」
その言葉は昔の私には言えなかった。
“戻る”前提の言葉。帰る場所がある人の言葉。
群衆が笑った。泣いた。手を振った。
「いってらっしゃい!」
「元気で!」
「聖女様、幸せになって!」
私は涙が落ちる前に笑おうとした。けれど笑うほどに目が熱くなる。
レオンさんが私の肩に外套を掛けた。乱暴に見えて、風の向きを読んだちょうどいい角度。
「泣くなら、前向け」
「……はい」
「ほら、歩け。堂々とな」
促されるまま私は門をくぐる。
背中に拍手が降り注いで、追い風みたいに私を押した。
王都を離れると、空気が少しだけ軽くなった。
石の匂いが薄れて土と草の匂いが混じる。掌のなかでは、まだ薬草の包みが乾いた感触を残している。布越しの薬草が、生き返ったみたいにちりちり鳴っている気がした。
しばらくは無言で歩いた。言葉にしてしまうと胸の熱がこぼれて歩けなくなりそうだったから。
遠くで、鳥が鳴いた。
「……なあ」
レオンさんが短く言った。
「さっきの“幸せになって”っての、聞こえたか」
「聞こえました」
「あれは、命令じゃない」
「はい」
「祈りでもない」
「……はい」
「願いだ」
「願い、ですか」
「あんたが今まで、誰にも、もらえなかったやつだ」
息が詰まった。
「……レオンさん」
「うん」
「どうして、私が一番欲しかった言葉を、毎回ちゃんと知っているんですか」
「知ってるんじゃない。隣で、見てたからだ」
「……ずるいです」
「ずるくはない」
「ずるい言い方です」
「ま、好きに言え」
「言います」
「で、どうする」
どうする。その問いは未来の話だ。
私は足元の影を見て少しだけ笑う。
「まずは、畑です」
「堅実」
「それから、村の皆さんに、ただいまを言いたいです」
「うん」
「エルザさんに、抱きしめてもらいたいです」
「うん」
「それから——」
言葉を切った。
次の一言が、自分でも少し怖かったから。
レオンさんは急かさない。歩幅を私に合わせて落としたまま、ただ前を歩いている。
私は深呼吸して街道の先を見た。まだ見えないリンデン村の方角を見た。
「レオンさん」
「ん」
「これからも……隣を歩いてくれますか」
言った瞬間、心臓が跳ねた。頼ってはいけないと思ってきた癖が、まだ残っている。
レオンさんは前を向いたまま。
けれど歩幅をもう一段だけ落とした。
「俺は、最初からそのつもりだ」
「……」
「言わせたか」
「言わせて、しまいました」
「いい。何度でも言う」
息が白くなりそうなほど胸の奥が静かに熱い。
私は頷いて言葉を探した。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。あんたが笑ってりゃ、それで」
言い終わる前に、彼は咳払いみたいに顔を背けた。耳が少しだけ赤い気がして、私は見ないふりをする。
そういう照れを私は大事にしたい。傷だらけの関係の上に、それでも芽吹いたものだから。
「レオン」
「ん」
「さん、を、たまに外しても、いいですか」
彼は少しだけ歩みを緩めた。
「……好きにしろ」
「はい。たまに、します」
「たまにな」
「たまに、です」
「毎回じゃないのか」
「毎回は、まだ、恥ずかしいです」
「……そうか」
「はい」
「ま、好きにしろ」
「二回、言いましたね」
「言ったか」
「言いました」
「……うるさい」
彼の耳が、また少し赤くなった気がした。
短い言葉のやり取りが、なぜか胸の奥に小さな灯をともす。
私は空を見上げた。
春の入口のまだ薄い青。雲が一つ、ゆっくりと流れていく。
あの雲がリンデン村のほうへ先に行く。
「帰ろう、レオン」
「ああ」
その一言で、旅立ちが“終わり”じゃなくなる。
終わったのは削られて使われる私。
ここから始まるのは私の暮らしと、私の未来だ。
掌の中の薬草の包みが、馬車の揺れに合わせてちりちりと鳴った。
まだ畑にも蒔かれていない種が、もう土を覚えているみたいに。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二章「偽りの神殿編」、これにて完結です。第一章で“逃げ出した”凛が、第二章のラストでは、見送られて街道を歩いている——その変化を、台詞ではなく、足の裏の冷たさと掌の薬草の感触で書きたかった話でした。
セドリックへの一言、「謝罪は、次の聖女を作らないことで示してください」。許す/許さないの二択ではなく、未来への条件を渡す凛が、私はとても好きです。
そして、「さん、をたまに外してもいいですか」——凛とレオンの距離が、敬語のひと文字ぶんだけ、ようやく縮まりました。ここから先は、第三章「私のための涙編」。凛が“誰かのために”ではなく“自分のために”泣くまでの、最後の十三話です。
掌の薬草の包みは、まだ畑に蒔かれていません。蒔く場所は、決まっています。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。




