第25話: あなたの手は温かい
鐘が鳴った。
終わりを告げる音が、王宮の石壁に澄んで反響する。廊下の先で、誰かが泣き笑いした。安堵の息があちこちで漏れる。
なのに私だけ、足元が遠い。世界が白く滲んで、指先の感覚がほどけていく。
疫病は、完全に収束した。そう告げられた瞬間、胸の奥が空っぽになって、身体だけが置いていかれた。
咳き込む音が、もうどこからも聞こえない。
その静けさが、怖かった。
壁に手をつこうとして、指が空を掻く。膝が折れた。
「——凛!」
床に落ちる前に、背中が硬い腕に引き寄せられる。
「……レオンさん」
「喋るな。息だけしてろ」
「……はい」
声は低い。叱るみたいなのに、腕は乱暴じゃない。落とさないように、ぎりぎりの力で抱き留めてくれている。
外套の匂いが頬に触れた。焚き火の名残が、薄く温かい。
「平気、です」
反射で口が動く。
「嘘だろ」
「……」
「言い直せ」
「……平気じゃ、ないです」
「だろうな」
短い相槌。なのに、そこに棘はない。
「立てるか」
「……たぶん」
「たぶん、じゃない方で答えろ」
「……むり、です」
「よし」
吐息みたいな返事。正直に言えたのは、たぶん、彼の腕の中だからだ。
「抱える」
「えっ」
「文句、言うなよ」
「……でも」
「言うな」
ふわり、と身体が浮いた。
頬が彼の胸板に当たる。硬いのに、そこだけ妙に安定していて、目が閉じそうになる。耳の近くで、どくん、と一つ鼓動が鳴った。
生きている音。
「……レオンさん」
「ん」
「重い、ですよね」
「軽すぎる」
即答。間を置かない。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「謝るのも禁止だ」
ぶっきらぼう。なのに、声の棘が薄い。
「……はい」
不機嫌そうな言葉。なのに、歩幅は慎重で、揺れを最小に抑えてくれている。揺れが少なくて、酔わない。
「もう、終わった」
「……はい」
「あんたの仕事は、全部、終わった」
「……はい」
呟きが耳元に落ちる。自分に言い聞かせるみたいな声。
私の髪が彼の顎を掠めたのが分かった。レオンさんは嫌がる素振りもなく、ただ少しだけ腕を締めて、私の頭が揺れないようにする。
その動きが、ひどく優しい。
終わった。そう思った瞬間に、眠りが近づいた。
部屋は静かだった。
重い扉が閉じられると、外の歓声が遠くなる。寝台の白いシーツが眩しい。午後の光が、埃を金色に浮かべている。
「枕、こう」
「……はい」
レオンさんは私を座らせ、背中に枕を当てた。
「角度、これでいいか」
「……ぴったりです」
「狭いか」
「いえ、楽です」
枕の角度がぴたりと合う。息が楽になる。いつもは「これくらい」と我慢してしまうところを、彼が先に整えてしまう。
薄い毛布が肩にかけられた。動きが不器用で、端が少しだけずれる。
「……汚れます。私の服、薬草の匂いが」
「汚れたら洗えばいい」
「でも、シーツが」
「洗う」
「私が」
「あんたは、寝る。それだけ」
「……はい」
ひとことで遮られた。けれど、強引じゃない。ただ、私に余計なことを考えさせないための「いい」だ。
「水、飲めるか」
「……はい」
杯が、唇に触れた。
冷たい水が、喉を通る。ようやく、息が入った。
「もう一口」
「……はい」
「ゆっくりだ」
杯を置く音が少しだけ大きい。レオンさんの手が、ほんのわずか震えているのが見えた。
「……レオンさん」
「ん」
「手、震えてます」
「……知ってる」
「私、何かしましたか」
「いや」
「じゃあ、なぜ」
「あんたが、もう倒れるかと思った」
短い言葉。
私の方が震えているはずなのに、彼が揺れるのは——私のせいだ。
「……ごめんなさ」
「謝るな、って言った」
「……はい」
息をついて、視線を上げる。レオンさんは窓を背に立っていた。不機嫌そうな眉間の皺だけが、逆光でも見える。
「レオンさん」
「ん」
「ありがとう、ございます」
声にした途端、胸の奥がきゅっとなる。
「礼を言うのは、早い」
「早い、ですか」
「あんたが寝るまで、終わりじゃない」
「……はい」
「迷惑、かけました」
癖みたいに出た言葉に、レオンさんの眉間が深くなる。
「かけてない」
「でも、私が王都へ来なければ」
「来なくても、別の誰かが倒れた」
「……」
「あんたが、誰に迷惑かけた」
「……」
「言ってみろ」
「……いません」
「だろ」
短い相槌じゃない。確かめる声だった。
頷くしかできない。
胸の奥で、固く結んでいたものが、ほんの少しほどける。
「凛」
「はい」
彼の視線が、私の手に落ちる。
膝の上で、両手を握りしめている。力を抜くのが怖いから。
「手」
「あ」
「ずっと、握ってる」
「……癖、です」
「ほどけるか」
「……うまく、できなくて」
何人もの額に触れ、熱を確かめ、祈りの言葉を飲み込んで、手当てをして——そのたびに「平気」と言い聞かせてきた手。
今さら緩めたら、全部が零れてしまいそうで、握りこむしかない。
レオンさんの手が、膝の上で宙に迷った。拳にしたり、開いたり、落ち着かない。
剣を抜くときみたいに迷いなく動けないのが、逆に、私のことを大事にしている証みたいで——胸が痛い。
「凛」
「はい」
「触る」
「……えっ」
「いいか」
「……はい」
短い予告。問いの形をしているのに、断れない声。
レオンさんの手が伸びて——一度、止まった。それから、決めたみたいに触れてくる。
指先じゃない。手のひらで包む。
初めて、レオンさんから。
息が止まる。硬い指が、私の指をほどくみたいに、ゆっくり握り直す。親指が、付け根に当たった。脈の浅いところを、確かめている。
「……冷たい」
「……そう、ですか」
「あんたの手は、冷えてる」
「自分では、よく、分かりません」
「分からないから、こうなる」
「……はい」
叱る声じゃない。教える声でもない。ただ、事実だけを置く声。
私の手は白い。薄い。代わりに、レオンさんの手が温度をくれる。
逃げ道を塞がないのに、離れない。掌が静かに包む。
喉の奥の震えを押し込めて、言った。
「……あなたの手は、温かい」
言葉が部屋の静けさに溶けた。
温かい、と口にしただけで、胸の奥の張りが少しだけほどける。
呼吸が、やっと自分のものに戻る。
レオンさんの指が、微かに強くなった。
「当たり前だ」
「当たり前、ですか」
「生きてるからな」
「……」
「あんたも、生きてる」
「……はい」
「だから、いつかは、温かくなる」
「……はい」
ぶっきらぼうに返しながら、離さない。
掌の熱が、指の間に沁みていく。小さな火種みたいに、少しずつ広がって、胸まで届く。
レオンさんの親指が、私の指の関節を一つずつ、確かめるみたいに撫でた。
「ここ、痛いか」
「……いえ」
「ここは」
「だいじょ——」
「言うな」
「……痛くは、ないです」
「冷えてるだけか」
「……たぶん」
冷えた皮膚が、ひとつ柔らかくなる。次の関節で、もうひとつ柔らかくなる。
触れられているのに、怖くない。
目を瞬く。滲むのは涙じゃない。疲れの膜だ。
それでも、温かさだけが残る。
「……私」
「ん」
「もう少しだけ、ここに」
「ああ」
「……いて、いいですか」
「いる」
「……はい」
「あんたが寝ても、いる」
頷くだけが精一杯だった。
レオンさんは握った手の位置を少し上げて、私の胸の近くに置いた。心臓の上。脈の中心。
「寝ろ」
「……レオンさん」
「ん」
「目が、覚めたら」
「ああ」
「まだ、握っていて、くれますか」
ずっと言えなかった言葉だ。
返事は、すぐには来なかった。代わりに、掌の力がほんの少し強くなる。
「離さない」
短い。三音と少し、それだけ。
なのに、胸の奥のいちばん深いところに、ぽとりと落ちた。
「……ほんとうに、ですか」
「ああ」
「途中で、用事ができても」
「ない」
「もし、来ても」
「あんたより、優先するもんはない」
「……はい」
「眠れ」
「……レオンさん」
「ん」
「ありがとう、ございます」
「礼は、目が覚めてからでいい」
「……はい」
頷く力さえ、もう惜しい。
瞼が落ちる。暗くなる。
椅子が引かれる音がする。傍にいる、と音で分かる。
そして——握られた手の温かさ。
それだけで、深く沈めた。
しばらくして、凛の呼吸が落ち着いた。
握られた手が、眠ったまま、ほんの少しだけ握り返す。指先が、探るみたいに動く。確かめるみたいに、もう一度だけ力が入る。
レオンは息を止めて、それを受け止めた。
「……ばか」
小さな声で、自分にだけ呟いた。
「もっと早く、こうすればよかった」
返事はない。寝息だけが返ってくる。
自分の手が温かいのは、血が通っているからだ。
だが、凛の手が冷えてしまうほど誰かを救ったことを思うと、その温かさが急に頼りなく感じる。
口元が、ほんのわずかに緩む。
「離さない」
もう一度、寝息に向かって言う。
「目を覚ましたとき、また平気ですって言わせない。その前に、ここで止める」
窓の光がゆっくり傾いて、部屋の色が少しだけ柔らかくなる。
レオンはその変化を横目に、凛の手だけを見ていた。冷えきった指先が、今は自分の掌の中で、かすかに息をしている。
凛の指を、ほんの少しだけ持ち上げた。
熱が移るように、逃げないように、静かに。
「次に目を開けたとき、最初に触れるのが、治癒の光じゃなく——この手であってほしい」
寝台の脇の卓で、半分まで減った杯の水が、夕暮れの色をひとつぶん吸って、静かに澄んでいた。
第25話、お読みいただきありがとうございます。
第2アークのクライマックス、疫病収束後の二人の場面です。
これまでずっと、誰かに触れる側だった凛が、初めて触れられる側になる話。
そして、ずっと触れるのを躊躇ってきたレオンが、初めて自分から手を伸ばす話。
タイトルの「あなたの手は温かい」は、凛が初めて、自分の感覚を、自分の言葉で誰かに渡せた一言です。
これまで彼女は、誰かの体温を確かめても、自分の冷たさには名前をつけられなかった。
今回ようやく、相手の温度を借りて、自分の冷えを認めることができました。
レオンの「離さない」は、短い台詞ですが、彼の中では十年分くらいの長さがあると思って書きました。
次回、第26話「二度目の旅立ち」。今度は、逃げるのではない辺境への道です。
引き続きお付き合いいただけたら、嬉しいです。
歩人




