第24話: 大神官の仮面
革表紙が、玉座の前で乾いた音を立てた。
アルベリック王の指先が、その一冊の角を確かめている。
角は擦り切れていた。何度も握られ、何度も閉じられた指の跡だった。
——百年分の手が、この紙に触れていた。
王はその重みを、まず指で測った。
謁見の間は、いつもより広く感じられた。
ざわめきが、消えていた。
貴族の囁きも、神官の咳払いも、近衛の鎧の擦れ合いさえも。
誰かが息を呑む音だけが、天井まで届いた。
アルベリックは玉座の肘掛けに手を置いた。
肘掛けの木が、彼の体温を一段だけ吸った。
「……一冊ずつ、私が読む」
声は低い。怒鳴らない。だからこそ、空気が痛い。
侍従長が膝を折り、束を捧げ持って王の手元に並べた。
古い紙の匂いが立った。
墨と埃と、涙の乾いた匂い。
王は最初の一冊を開いた。
頁を捲る指が、二枚目で止まった。
頬の筋が張った。口角が下がった。
「読み上げる」
誰にも問わなかった。許可を求める王ではない。
「『祈りは痛い。祈りは削る。祈りをやめたら、私ではなくなると言われた』」
声に節は付けない。だが文字が一語ずつ、石の床に落ちて転がった。
「『笑えと言われた。感謝しろと言われた。泣けば神を疑うと罵られた』」
誰かが、咽ぶように息を吐いた。
王は頁を捲った。
次の一冊。
「『私の名前を、誰も呼ばなかった』」
「『最後の聖女様、と呼ばれた』」
「『私の前にいた聖女が、そう呼ばれて死んだのに』」
もう一冊。
「『十二歳で来た』」
「『十四歳で削れた』」
「『十六歳で、私はこの紙以外に話す相手がいなくなった』」
貴族の列で、若い夫人が口を覆った。
涙が指の隙間から落ちた。
王はそれを見なかった。
次の頁、次の頁、次の一冊。
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
同じ言葉が、王の口から、五度、違う声で出た。
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
まだ、続いた。
——百年分の、嘘の声だった。
絨毯の上を、軽い足音が滑った。
仮面の大神官ヴェルナー・クラウディウスが、胸に手を当てて進み出る。
儀礼の面は白く、慈悲の顔を刻んでいた。
その奥の目だけが、獣のように乾いていた。
「陛下」
「……」
「畏れながら、ひとこと、申し上げたく」
「……」
「陛下」
王は顔を上げない。頁の文字に視線を落としたままだった。
「大神官」
「は」
「お前は、いつから、これを知っていた」
「……陛下、それは」
「いつから、と問うた」
仮面の口元は微笑みを刻んだままだった。
だが、喉が鳴った。唾を飲み込む音。
それは“神の代弁者”の音ではなかった。
「……陛下。聖女様の務めは、古より定められた儀にございます」
「ほう」
「犠牲は尊く、聖女は選ばれし器」
「だから」
「ゆえに、聖女の犠牲は神の御心——」
「黙れ」
短かった。
だが、その一音で、謁見の間の空気が割れた。
貴族の肩が跳ねた。神官たちが膝を折った。
近衛の手が剣の柄に触れ、すぐに離れた。
ヴェルナーが、半歩、下がった。
仮面の笑みに、ひびが入った。
「……陛下」
「黙れと言った」
王は、ようやく顔を上げた。
目だけが動いていた。
その視線が、ヴェルナーの胸の奥まで届いた。
「神の御心、と言ったな」
「……は、はい」
「もう一度言え」
「……神の、御心、で、ございます」
「神は、十二歳の娘に祈れと命じたのか」
「それは——」
「神は、笑えと罵らせたのか」
「陛下」
「泣けば疑いだと、打たせたのか」
「陛下、私はただ、秩序を——」
「秩序」
王はその短い言葉を、口の中で噛み砕いた。
「秩序、と言ったな」
「は」
「秩序の名で、何人殺した」
ヴェルナーの喉が、二度鳴った。
「殺しては、おりません」
「ほう」
「聖女様は、その務めを、自ら——」
「自ら、と申したな」
「は、はい」
「自ら、十二歳の娘が、自ら祈って死ぬか」
「……」
「答えよ」
「……」
「四人だ」
王は、束の中から薄い一冊を抜いた。
それは、最後の頁が血で滲んでいた。
「お前が大神官になってから、四人。私が王位に就いてからも、二人」
「……」
「二人とも、私が知らぬうちに、神殿の奥で死んだ」
王の声が、一段だけ低くなった。
「私の国で」
「……」
「私の知らぬうちに」
「……」
「私の代の聖女が、二人、死んだ」
「陛下、その責は、神官の——」
「責の話をしているのではない」
王は、日記を掲げた。
ただの紙束が、王笏より重く見えた。
「私は今、恥の話をしている」
ざわめきが、起きかけて、また消えた。
貴族たちの口は半開きのままだった。
自分の屋敷の飾り、宴の皿、神殿から回ってきた“祝福”の包み。
それが、何の上に積まれていたのか。
今、ようやく想像した顔だった。
王は、その顔をひとつずつ見た。
咎めはしない。
ただ、見た。
見られた者たちが、目を伏せた。
「セドリック」
「は」
王太子セドリックが、王の足元に膝を突いた。
顔が青い。
彼もまた、聖女の名を呼ばなかった一人だった。
「公示の許可を、と言いに来たな」
「……はい」
「許す」
「は」
「だが、私の名ではなく、お前の名で出せ」
「……父上」
「これは、私の代の恥だ」
「……」
「だが、お前の代で繰り返さぬと、お前の口で、お前の名で誓え」
セドリックの肩が、震えた。
頭を下げた。下げた頭が、戻らなかった。
「……誓います」
王は頷いた。
頷きだけで、王太子の背を立たせた。
「王立記録官を呼べ。神殿の文書庫を封鎖し、帳簿を押収する」
「聖女の名で集めた寄進は、民と聖女に戻す。私腹を肥やした者の家も調べろ」
「歴代聖女の日記は、王立文庫に収める。写本を作り、王都の広場に掲示し、全国へ通達せよ」
侍従長が、深く礼をして退いた。
「もう一つ」
「は」
「セドリック」
「はい、父上」
「神殿の鐘を、明日から、聖女の名で鳴らせ」
「……陛下、鐘は、神の——」
「聖女の名で、と申した」
「は……はい」
「四つの名と、その前の名と。鳴らし切るまで、止めるな」
王の視線が、ヴェルナーに戻った。
ヴェルナーは、まだ笑っていた。
仮面の口元が、笑みを刻んだままだった。
だが、その口元の下で、本当の唇が震えていた。
「陛下。誤解です」
「誤解」
「私は」
「申してみよ」
「私はただ、信仰を、民を、神殿の秩序を——」
「お前は、神殿の秩序を、守ったのではない」
王の声が、初めて、低い炎を帯びた。
「お前が守ったのは、お前の椅子だ」
「……」
「お前の権威だ」
「……」
「お前の名前だ」
ヴェルナーの仮面が、揺れた。
「……ち、違います。陛下、私は神に仕える者として——」
「神に仕える者は、子に祈らせて死なせない」
「私は」
「お前は、聖女の名で、四つの墓を作った」
「……」
「私の代で、二つ」
「陛下!」
「黙れ」
二度目だった。
今度は、貴族の誰かが、堪えきれずに鼻を鳴らした。
軽蔑の音だった。
ヴェルナーの目が、その音を探した。
探して、見つけられなかった。
誰もが、もう目を合わせない。
「大神官ヴェルナー・クラウディウス」
王の声は、刃に戻っていた。
「官位を剥奪する」
「王国に対する背信、聖女に対する暴虐、民に対する欺瞞」
「牢へ」
近衛が、即座に動いた。
二人の騎士が、ヴェルナーの両腕を取った。
「放せ!」
仮面の声が、初めて、仮面のものではなくなった。
甲高く、震え、節を失っていた。
「放せ!」
「……」
「私は神に仕える者だ!」
「……」
「王といえど、神に逆らえば、罰が下る!」
「……」
「陛下! 神は見ておられる! 神は、神は——」
「神は」
王が、静かに遮った。
「お前を見ておらん」
短い言葉が、ヴェルナーの背骨を折った。
近衛の手が、仮面の紐に掛かった。
ぷつ、と乾いた音がした。
儀礼の面が、絨毯の上に落ちた。
そこにあったのは、慈悲の顔ではなかった。
汗で濡れた額。引きつった頬。血の気のない唇。
笑みを刻んだ面の下で、ただの男が、震えていた。
謁見の間に、低い笑いが落ちた。
誰かが、堪えきれず、鼻で吹いた。
それが、伝染した。
あれほど高く見えた大神官が、今は情けなく、小さく見えた。
ヴェルナーが、助けを求めるように周囲を見回した。
神官たちは、目を逸らした。
貴族たちは、距離を取った。
信仰の衣を着た仲間でさえ、もう触れたくない汚れを見る目だった。
「違う。私は、私は違う」
その声は、祈りにならなかった。
言い訳にもならなかった。
ただ、転げ落ちる音だった。
近衛が、両腕を取り直して引き立てた。
絨毯の上に、白い仮面だけが残った。
仮面は、まだ笑みを刻んでいた。
主の去った笑みは、ひどく薄っぺらに見えた。
ヴェルナーが引き出された後、謁見の間は、しばらく動かなかった。
王は、まだ日記を握っていた。
血の滲んだ最後の一冊を、指で閉じた。
その時、列の端で、ひとつだけ動かない人影があった。
布の聖女服に、辺境の砂が混じった裾。
凛——リーネ・フォルトゥーナだった。
その半歩後ろに、護衛騎士レオンが立っていた。
二人とも、王の召喚があるまでは、口を開かないつもりらしかった。
王は、視線だけで凛を呼んだ。
凛は、進み出た。
歩幅が、震えていなかった。
「聖女、と呼んでよいか」
王は、低く問うた。
謝罪の前置きのような声だった。
「……はい」
「いや」
「……陛下?」
「いや、それは違うな」
王は、自分の言葉を、自分で訂正した。
「リーネ・フォルトゥーナ嬢、と呼ぼう」
名前だった。
凛が王都にいた間、誰も呼ばなかった、名前だった。
凛の喉が、一度だけ動いた。
返事の代わりに、深く頭を下げた。
「日記を、よく届けてくれた」
「……はい」
「重かったろう」
「……重かったです」
「重かったか」
「……はい」
「お前の前に死んだ四人に、私は、何もしてやれなかった」
「……」
「これから、何かをする」
「……陛下」
「だから、お前は、もう削るな」
短い言葉だった。
王は、約束を多く語る男ではなかった。
その短さの中に、四人分の墓標が立った。
凛が、もう一度、頭を下げた。
頭を上げた時、目元が濡れていた。
拭わなかった。
レオンが半歩前に出て、凛と王の間に、何でもない顔で立った。
その肩が、凛の視界の隙間に、ちょうど壁を作っていた。
王は、それを咎めなかった。
咎める王ではなかった。
その日の夕刻、王都の広場は人で埋まった。
掲示板に張り出された写本の前で、文字を読める者が声に出した。
読めない者は、声だけで理解した。
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
「『大丈夫です』」
同じ短い言葉が、広場で、百回、繰り返された。
「聖女様を、道具にしてたってのか」
「祈りで救う? ふざけるな。奪ってただけじゃないか」
「大神官は神様の代理だって? 仮面だ。仮面だったんだ」
読み上げる声が、途中で詰まった。
読み上げる者の背中を、周りの誰かが黙って支えた。
怒りと悲しみが、同じ形で混ざる夜だった。
神殿の門は、内側から閉ざされた。
だが、閉ざせたのは扉だけだった。
外の声は、閉ざせなかった。
「聖女を、返せ」
「嘘を、返せ」
「百年を、返せ」
「私たちの、祈りを、返せ」
「百年分の、祈りを、返せ」
松明の明かりが揺れて、神殿の白壁を赤く染めた。
怒りは熱を持って流れ、路地を満たし、神殿の石段に積もった。
夜になっても、火は消えなかった。
牢へ向かう馬車は、王宮の裏門から出された。
それでも、噂は速かった。
石畳の角ごとに人が立ち、仮面を失った男を見下ろした。
鉄格子の奥で、ヴェルナーは縮こまっていた。
袖口の刺繍は泥で汚れ、髪は乱れ、喉は乾いているのに、唾を飲む音だけが響いた。
誰かが、野菜屑を投げた。
硬い音が馬車に当たり、腐った汁が飛び散った。
ヴェルナーが身を竦めた。
あの堂々とした演説の声は、どこにもなかった。
彼はただ、罰を受けるための肉に戻っていた。
馬車の窓の外で、子どもが笑った。
大人が笑うのを見て、理由も分からず真似をした。
その無邪気さが、いちばん残酷に効いた。
ヴェルナーは唇を震わせ、声にならない音を漏らした。
馬車が、角を曲がった。
絨毯の上に落ちた仮面は、今頃、玉座の前で、まだ笑みを刻んでいるはずだった。
主のいない笑みは、もう、誰の権威にもならなかった。
その夜、王立文庫の灯りは、夜半まで消えなかった。
王は、自分の手で、日記を一冊ずつ棚に納めた。
侍従にやらせなかった。
最後の一冊を納めた時、王の指先が、革の角を一度だけ撫でた。
「……済まなかった」
誰にも聞こえぬ声だった。
四人にも、百人にも、届かぬ声だった。
それでも、王は言った。
言わずにはいられぬ夜だった。
文庫の窓の外で、王都の火が、まだ揺れていた。
玉座の間に残された白い仮面は、磨かれることなく、夜の床に置かれていた。
誰も、それを拾わなかった。
拾う者は、もう、どこにもいなかった。
——仮面が、ひとつ。床に。静かに。
この回は、ヴェルナーという男の「仮面が剥がれる瞬間」を、王の側から書きたくて、視点を国王アルベリックに移しました。
凛の側から書けば、それはきっと「ようやく報われた」という温度になります。けれど、聖女を四人も死なせた責任は、本来、神殿だけのものではない。気づかなかった王自身の責任でもあります。だからこそ「黙れ」と一喝する役は、誰よりも王でなければいけないと思いました。
百年分の「大丈夫です」を、王自身の口で、何度も読み上げる。あの場面を書いている間、自分の指先まで冷たくなる感覚がありました。短い一言に積もった百年の重みが、玉座の前で初めて崩れる。それを最も近くで見たのは、玉座に座る男だったはずです。
ヴェルナーの仮面は、絨毯の上に落ちました。けれど、誰も拾わない。次回は、その仮面を作らせたもう一人の影と、ようやく自分の手を取る二人の物語が動きます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




