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第29話: 同じ傷を持つ人

 翌日の夜。

 熱が引いて、自分の足で歩けるようになった。

 診療所の中にいると息が詰まって、私はレオンさんに頼んで裏手に出た。


 彼は無言でき火を起こした。

 いつものように。何も訊かずに。


 火がはぜる音だけが、夜の空気を繋いでいた。


 「……寒くないか」

 「平気です」

 「毛布を持って来る」

 「いえ。火があるので、十分です」


 レオンさんは少しだけ頷いて、また黙った。

 昨夜の告白を抱えたまま、動かない。

 あの最後の一言が、まだ喉の奥に残っているみたいに。


 私は息を吸って、吐く。

 胸の内側が痛い。痛みの正体がはっきりしているぶん、逃げずにいられた。


 誰かを守るために、いつも自分を削って。

 それを誇りみたいに掲げて。

 「平気だ」と言いながら、誰にも触らせない。


 ——同じだ。

 私と。


 私は、喉の奥に引っかかった言葉をそのまま出した。


 「あなたも、“大丈夫”って嘘をついてきたんですね」


 レオンさんの肩が、小さく揺れた。

 怒ったのではない。刺さったのだ。

 見抜かれたというより——自分でも見ないようにしてきたものを、光に引きずり出された顔だった。


 「……嘘、か」

 「はい。優しい嘘です」

 「優しい、か」

 「でも、痛い嘘です」

 「……痛いと、思ったことはなかったな」

 「気づかないように、してきたからです」

 「……ああ」


 いつもなら、ここで「ごめんなさい」と言ってしまう。

 相手の痛みに触れたことを謝って、引き下がって、また「大丈夫」を渡す。

 でも、今夜は引かない。

 彼の告白は、引いてほしくない種類の言葉だった。


 「私も、同じです」

 「……凛が?」

 「はい」

 「お前が、何を——」

 「神殿でも、前の世界でも。私はずっと言ってきました。大丈夫、と」

 「……」

 「大丈夫。私なら平気です。それで誰かが救われるなら」

 「凛」

 「口にすればするほど、上手になっていきました」

 「……」

 「上手になればなるほど、自分の本音は、下手になっていきました」


 焚き火の向こうで、レオンさんの目がわずかに揺れた。


 「本当は、怖かったです」

 「……」

 「休みたかった。逃げたかった」

 「……それを、誰にも言わなかったのか」

 「言ったら、誰かが困ると思って」

 「……」

 「困らせたくなくて。嫌われたくなくて。役に立たないって、思われたくなくて」


 最後の一言は、胸の奥の深いところから出た。

 自分でも触れたくない傷口を、指先でそっと開いたみたいに。


 レオンさんが、低い声で言った。


 「……俺も同じだ」

 「はい」

 「言うと、誰かを困らせる気がしてな」

 「分かります」

 「だから黙ってきた」

 「私もです」

 「……ずっとか」

 「ずっとです」


 短い言葉のやり取りが、夜の冷たさをほんの少しだけ薄くした。


 レオンさんは焚き火を見ない。

 私も、彼の目を無理に追わない。

 視線を合わせるのは、時々でいい。逃げ場を残すことも、優しさだ。


 それでも私は、彼の手だけは見てしまった。

 膝の上に置かれた指が、ほんの少し震えている。

 震えを隠すみたいに、指は強く組まれていた。

 骨の白さが、火の光で浮いて見える。


 強い人の手じゃない。

 強く見せるために、ずっと握りしめてきた人の手だ。


 思い出す。

 あの束になった日記にっきのページ。

 助けを求める言葉の隣に、必ず置かれていたふたの言葉を。


 『私は大丈夫です』


 その一文が、祈りでも誓いでもなく。

 「痛い」と言えないまま生きるための、細い鎖だったことを、私は知ってしまった。


 レオンさんの「平気だ」も、同じ鎖だ。

 自分を縛って、他人を安心させて、最後に自分だけを置き去りにする。


 私の胸の奥に、熱いものが溜まる。

 怒りじゃない。かなしみでもない。

 「分かってしまう」痛みだ。


 私は薪を一本、火の近くへ足で寄せた。

 乾いた木が、ぱち、と小さく鳴く。

 その音に、レオンさんの肩が反射みたいにわずかに強張った。


 「……すみません。驚かせて」

 「いや」

 「火じゃないですよね」

 「……何が」

 「怖かったのは」

 「……」

 「気づかれることが、怖かったんですよね」

 「……ああ」

 「弱さに触れられて、逃げられなくなることが」

 「……お前、なんで分かる」

 「私も、同じだったからです」




 焚き火が小さくなって、薪の端が赤く崩れた。

 闇が一歩近づく。

 でも怖くない。今は、レオンさんが闇の側にいる人ではなく、闇に触れ過ぎて傷ついた人だと分かるから。


 「……凛」

 「はい」

 「俺は、守るって言いながら……結局、自分を捨ててきただけだ」

 「捨てて、きた」

 「自分の命も、価値も。そうすれば、楽だった」

 「楽、ですか」

 「考えなくて、済む」

 「……分かります」

 「分かるな」

 「分かります」


 私は頷いた。

 責めるためじゃない。分かる、と伝えるために。


 「自分を後回しにすると……他のことが、上手く回っているように見えますよね」

 「……ああ」

 「それで、褒められたりもします」

 「……何て」

 「便利な人、って」

 「……便利、か」

 「はい。優しい仮面になります」

 「仮面」

 「誰かの役に立っている間だけ、存在していい——そう、思えるんです」

 「……」

 「錯覚なんですけどね」


 レオンさんは焚き火を見つめたまま、唇を噛んだ。

 火の光が、頬の傷跡きずあとの影を深くする。


 「……あんたは、俺を責めないのか」


 ようやくこちらを見た目は、おびえていた。

 責められる準備をずっとしてきた人の目。

 責められたら、それで終われると思っている目。


 私は、首を横に振る。


 「責める理由が、ありません」

 「……どうして」

 「あなたは……」

 「俺は」

 「生きるのが、下手なだけです」


 言ってから、少しだけ笑ってしまった。

 ひどい言い方なのに、優しい言い方でもあると思ったから。


 「私も下手です」

 「……凛」

 「上手く生きるより、先に上手く死ぬ練習を、してきました」

 「やめろ」

 「やめたいです。だから、言います」

 「……」

 「言葉にしないと、変えられません」

 「……」

 「沈黙ちんもくの中で耐える癖は、傷を深くするだけです」


 短い静けさのあとで、私はもう一度、ゆっくり口にした。


 「私たち、似ていますね」

 「……ああ」

 「似ていますか」

 「似てる」


 受け入れる音だった。

 否定しない音だった。


 「似ているから……あなたのことが、分かります」

 「分かるな。そんなもん」

 「分かります」

 「凛——」

 「あなたが自分を捨ててきたのは、誰かを守りたかったからです」

 「違う」

 「同じです」

 「俺は——」

 「自分の痛みより、他人の痛みを優先したから、です」

 「……優しい言い方を、するな」

 「優しいのは、あなたです」


 そう言うと、レオンさんの目がわずかに細くなった。

 笑っていない。泣きそうな目だ。


 「……凛は、俺を許すのか」

 「許す、というより……」

 「というより」

 「一緒に、悔やみましょう」

 「悔やむ……」

 「責めるのではなく」

 「……」

 「やり直すために」


 もう同じやり方でしか生きられないと、決めつけないために。




 風が吹いた。

 火が揺れて、影が踊る。


 レオンさんの手は、膝の上でこぶしになっていた。

 剣を握るための手。

 誰かを守るために、誰かを倒すために、何度も固くなってきた手。


 私は、その拳にそっと近づける。

 急に触れたら、彼はきっと反射で引く。

 だから、逃げ道を残したまま、手の甲に指先を置いた。


 ——温かい。

 でも、温かさの中に、冷えた時間が混じっている気がした。

 「大丈夫」の裏に押し込めた、痛みの温度。


 「……凛」

 「はい」

 「いいのか」

 「いい、というか……触れたかったんです」

 「俺、に」

 「はい」


 レオンさんの指が、かすかに動く。

 拒む動きじゃない。確かめる動きだ。


 私は手のひらを返して、彼の拳を包んだ。

 ほどくように、祈るように。


 「ねえ、レオンさん」

 「……なんだ」

 「今日、言ってくれて、ありがとうございます」

 「礼を、言うことじゃ……」

 「あの告白は、あなたの弱さじゃありません」

 「……」

 「勇気です」


 言葉にすると、自分の喉が熱くなる。

 私自身がずっと欲しかった言葉を、今、彼に渡しているからだ。


 レオンさんは、苦しそうに眉間を寄せた。

 それでも、手を引かなかった。

 私の掌の中で、拳が少しだけ緩む。


 「凛。俺は……怖い」

 「はい」

 「また、同じことをする」

 「はい」

 「自分を捨てて——それで、誰かを守った顔をする」

 「はい」

 「分かってて、止められないんだ」

 「きっと、すぐには治りません」

 「……」

 「治らなくて、いいです」

 「……いいのか」

 「いいです。焦らなくて」


 その言葉は冷たいはずなのに、今は現実的な温かさを持っていた。

 焦らせない。急かさない。置いていかない。


 私は、彼の手を握ったまま、目を上げる。

 闇の中に、彼の瞳だけが静かに光っている。

 落ちていく光じゃない。繋ぎとめる光だ。


 「だから、ここからです」

 「……ここから」

 「はい。一緒に、治していきましょう」

 「……一緒に、か」

 「はい。一緒に、です」


 言いながら、指を少しだけ絡める。

 握りしめるんじゃない。支える形。


 彼の指が、ためらいながら、ほどけてくる。

 関節の硬さが、ゆっくり解けていく音がした気がした。

 火の中で、薪がもう一度、小さく鳴いた。


 夜が深い。

 空には、薄い雲の向こうに月の輪郭がうっすらと滲んでいた。

 その光が、診療所の窓ガラスに反射して、棚の薬瓶の影を細く引いている。


 重ねた手の上に、薬瓶の影が一本、橋みたいに渡った。




## あとがき


「同じ傷を持つ人」、お読みいただきありがとうございます。


EP28でレオンが「俺が、殺した」と告白した夜のすぐ続き、凛が応える側に回る回でした。

書きながら、私はずっと「凛は、ここで何を返すのが正解なんだろう」と考えていました。

慰めるのも、励ますのも、許すのも、ぜんぶ少しずつ違う気がして。


たどり着いたのが、「あなたも“大丈夫”って嘘をついてきたんですね」という一行でした。

凛の口癖くちぐせをそのまま、レオンに返す形です。

責めるのでも、許すのでもなく、ただ「同じ傷を持つ人」として隣に座る。

凛がこれまで自分の本音にしてきた“蓋”を、ここで初めて、自分から外しに行った夜だと思っています。


EP28とEP29は、本当はひとつの長い夜です。

レオンが過去を吐き出し、凛がそれを抱き止めて、最後に手のひらが触れる——

それだけのことを、書きたくて二話に分けました。


次回は「弟子たち」。

凛が削らない治癒のかたちを、人に渡し始めます。

ふたりで決めた「ここから」が、世界の方へ少しずつ広がっていく回です。


引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

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