第21話: 選ぶのは私
また、あの言葉を口にしようとしている。
そう気づいた瞬間、喉がきゅっと縮んで、息の通り道が細くなった。
冬の朝の空気は冷たいのに、胸の奥だけが熱くて、痛い。
村の掲示板の前には、人が集まっていた。
いつもなら、収穫祭の余韻や、畑の相談の声が混じる場所。
今日は、乾いた紙の擦れる音しか聞こえない。
貼り出された手紙は、王都からの早馬便。
封蝋の欠けた赤が、黒い文字の間で不気味に光っていた。
「……疫病、だってよ」
誰かが読んだ一言が、霜みたいに空気に落ちる。
次の言葉は、もう耳に入ってこなかった。
入ってきたとしても、私の中で別の音にすり替わってしまう。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
行かなきゃ——。
私は外套の袖の内側を、爪で押した。
布は厚いのに、手の甲が冷えていく。
息を吐くたび、白い靄が目の前に溜まって、視界が曇る。
「凛ちゃん」
エルザさんの声が、背中から触れた。
私は振り向く前に、口が勝手に動いていた。
「だ、大丈夫です」
言い慣れた音。
その音が口から出るたび、体温が一度ずつ下がる気がする。
エルザさんは眉を少しだけ下げて、私の手元に目を落とした。
「凛ちゃんさ。あんた、いま指先、震えてるよ」
袖の中で握りしめた拳が、ほどけないのが分かったのだと思う。
「……」
「うちにおいで。まず、あったかいの飲も」
命令じゃない。
“当たり前”の誘い方。
それが、今の私には眩しい。
台所は、薪の匂いで満ちていた。
鍋の中で煮える根菜の甘い湯気が、鼻の奥を柔らかく撫でる。
指先に残っていた冷えが、器の陶器の温度に、少しずつ溶けた。
でも、胸の奥の固さだけは、溶けない。
「王都……大変なんだろうね」
エルザさんが椅子に腰を下ろして、私の向かいに湯気の立つ茶を置いた。
指の節が赤い。
この人はいつも、温かいものを作る手で、自分を後回しにする。
「凛ちゃん」
「……はい」
「あんたの顔、神殿にいた頃に戻ってる。それ、あたしは嫌だよ」
その声に、湯気よりも先に喉が熱くなった。
頷くこともできずに、私は茶碗の縁をなぞる。
探すほど、古い言葉が先に出てくる。
「……私が、行けば」
聖女として、できることがある。
そう言えば、全部片付く気がした。
誰かが褒めてくれるかもしれない。
誰かが許してくれるかもしれない。
そして私は、また自分を使い切って、空っぽになれる。
——それが、怖いのに。
「凛ちゃん」
エルザさんは、私の名をゆっくり呼んだ。
その速度は、私の心の暴走を止めるための速度だった。
「無理しなくていいんだよ」
「……でも」
「でも、の続きは」
「私が、行けば、助かる人がいます」
「うん」
「助けたい、です」
「うん」
「だから、行かなきゃ」
「……凛ちゃん」
その言葉が、器の温度より先に胸を温めた。
同時に、罪悪感が刺さる。
無理しなくていい——そう言われるほど、私の中の“しなきゃ”が騒ぐ。
「でも、私……聖女、なので」
口にした瞬間、自分の声が遠くなった。
聖女。
それは私の名前じゃない。
私の役割の札だ。
「うん。そうだね」
エルザさんは否定しなかった。
否定されないから、私の中の言い訳が崩れる。
「でもね、凛ちゃん。聖女でも、凛ちゃんでも」
「……はい」
「選んでいいんだよ。行かなくても、ここにいても」
「選ぶ、ですか」
「うん。選ぶ。……あたしはね、どっち選んでも、あんたが変わらず好きさね」
好き。
その音の柔らかさに、喉の奥が痛くなる。
好きは条件じゃない。
役に立ったときだけ貰える褒美じゃない。
私は、湯気の向こうで瞬きをした。
涙が落ちる前に、まぶたの裏へ押し込む癖が、まだ抜けない。
「……エルザさん」
「うん」
「私、自分が、何をしたいのか、分からないんです」
声が掠れた。
“大丈夫”ではなく、別の音が、ようやく舌の上に乗った。
「うん」
「分からないって、言っていいんですか」
「いいよ」
「……何度でも、ですか」
「うん。何度でも言っていいさね」
エルザさんは、湯気越しに笑う。
笑い皺の奥が、少し赤い。
「あたしらもね」
「はい」
「結婚するときも、子を産むときも、ずっと、分からんかったよ」
「……そうなんですか」
「分かったふりして決めるとね、あとで全部、自分が泣くんだよ」
その言葉は、私の頭の中の鈴を、ひとつ静かに止めた。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
その音が、まだ鳴っている。
でも、少しだけ、間ができた。
戸が鳴ったのは、昼前だった。
風が板壁を撫でる音に混じって、短いノックが二回。
エルザさんが立ち上がるより先に、私は反射で背筋を伸ばした。
誰かが“必要”と言ってくれるのを、待ってしまう癖。
扉が開いて、冷気と一緒にレオンが入ってくる。
肩に積もった粉雪を払う指が、無駄がない。
視線だけが一瞬、私の顔に止まって、すぐに逸れた。
「聞いた」
それだけ。
けれど、その短さが、逃げ道を作らない。
「……はい」
私は、椅子の背を握った。
指の関節が白くなる。
「ヴェルナーは」
「神殿の階段で、立ち往生してるってさ」
エルザさんが代わりに答えた。
声色が、いつもより低い。
「治癒は」
「効かないらしいよ。何度詠唱しても、光が皮膚をなぞるだけだって」
「……死者は」
「昨夜の倍、って手紙に書いてあった」
レオンは小さく舌打ちをして、それを途中で飲み込んだ。
「……そうか」
レオンは小さく頷いて、私の前の椅子を引いた。
座った。
見下ろさない距離。
逃げない距離。
しばらく、薪の爆ぜる音だけがした。
私はその音に合わせて呼吸を整えようとして、うまくできない。
「凛」
呼ばれた瞬間、背中がぞくりとした。
いつもなら「レオンさん」と呼ぶ私が、今日は、彼に名前で呼ばれている。
名を呼ばれるのは、役割を呼ばれるのと違う。
レオンは、膝の上で指を組み直してから、言った。
「行くなとは言わない」
彼の声は、いつもより低かった。
刃のように鋭くて、それでいて、冷たくはない。
「でも、ひとつだけ、聞かせろ」
「……はい」
「あんたの中にあるのは、“行かなきゃ”か。“行きたい”か」
その問いは、霧を切った。
私は息を止めた。
“行かなきゃ”は、簡単に言える。
言えば、みんなが安心する。
言えば、私はまた“聖女”になれる。
“行きたい”は——。
怖い。
自分の欲を、口にするのが怖い。
欲を選んで、誰かが傷ついたらどうしよう。
欲を選んで、失敗したらどうしよう。
その責任を、私は一人で抱えられるんだろうか。
「……レオン、さん」
「ん」
「分かりません」
声が震えた。
恥ずかしい震えじゃない。
長い間、閉めていた扉の蝶番が軋む震えだ。
「分からないまま、答え、出さなきゃ、駄目ですか」
レオンは、すぐには答えなかった。
膝の上の手が、一度開いて、ゆっくり閉じた。
「駄目じゃない」
短い。
短いのに、肩の何かが、ふっと外れた。
「分かんねえなら、分かんねえまま、ここに座ってろ。俺、待つ」
待つ。
その二音が、胸の奥にすとんと落ちる。
エルザさんが、台所の奥へ下がった。
鍋の火を弱めるふりをして、私たちの間に場所を作ってくれる。
見守り方が、あたたかい。
窓の外で、誰かの足音が遠ざかる。
雪を踏む音は、ゆっくりだった。
「……レオンさん」
「ん」
「王都の、石畳って、冷たかったです」
「だろうな」
「大神殿の白い壁、いつも、眩しくて。祈り《いのり》の間で、誰も、触ってこなくて」
「……」
「追い出された夜の手、まだ覚えてます」
レオンは黙って、私の手元を見た。
茶碗を握る私の指は、白いまま、震えていない。
「今は、温かいです」
「……ああ」
「エルザさんの『好き』、知ってます。畑の土の匂いも。眠っていい夜があるのも、知ってしまった」
だから、戻るのが怖い。
怖いからこそ、気づいてしまう。
「レオンさん、私、いま、いちばん怖いのは、戻ることじゃ、ないんです」
「じゃあ、何だ」
「……選ばずに、戻ること」
もし私が、いま「行かなきゃ」と言って腰を上げたら——その瞬間、ここで知った全部の温度を、私は自分で裏切ったことになる。
息を吐いた。
白い靄が、いつもより少しだけ薄い。
「……レオンさん」
「ん」
「“行かなきゃ”、って言えば、楽です」
「だろうな」
「でも、それだと……また、私が、私じゃなくなる」
レオンは何も言わない。
頷きもしない。
ただ、逃げずに、見ている。
その視線が、私に“選べ”と命じない。
選ぶのは私だと、静かに返してくる。
私は唇を噛んで、言葉の形を作った。
口に出すのが怖いほど、そこに自分がいる。
「……行きたい、です」
言った。
言ってしまった。
胸の奥の固い塊が、ふっと軽くなる。
体の中に、空気の通る道ができる。
息が、入る。
ちゃんと、入る。
「私の、やり方で」
付け足した一言は、自分でも驚くほど、はっきりしていた。
しばらく、薪の音だけが続いた。
レオンは目を伏せて、ひとつ息を吐いた。
それから、短く言う。
「なら、俺も行く」
「……え」
「あんたのやり方を、見届ける」
“守る”じゃない。
“連れていく”でもない。
見届ける。
その響きが、背中に手を置くみたいだった。
押さない。
引かない。
ただ、そこにいる。
「……レオンさん、いいんですか」
「いいか悪いかは、あんたが決めるとこじゃない」
「でも」
「俺の足を、どこに向けるかは、俺が決める」
ぶっきらぼうなのに、温かい。
私はそれを聞いて、初めて口元が緩んだ。
「ずるい、です。そんな言い方」
「……ずるいか」
「ずるいです」
「悪い」
「謝らないでください。余計、ずるい」
「……どうしろってんだ」
「分かりません」
「同じだな」
「同じ、ですか」
「俺も、分からん」
レオンは、視線を逸らした。
耳の縁が、薪の火より少しだけ赤い。
「……レオン」
呼び捨てにした自分に、少し驚いた。
でも、その驚きは嫌じゃなかった。
口元が、痛いくらいに緩む。
エルザさんが、台所の奥から戻ってきた。
目が少し赤いのに、笑っている。
「決まったんだね。……凛ちゃん」
「……はい。エルザさん」
頷きは、前より速い。
迷いが消えたわけじゃない。
怖さがなくなったわけでもない。
それでも、私の中に一本、芯が立った。
「でも、無理はしません。私のやり方で、やります」
“しなきゃ”じゃなくて、“する”。
言い換えただけなのに、指先が温かい。
「それでいいさね」
エルザさんは私の頭を撫でた。
手のひらが、あったかい。
その温度は、私の決意を溶かさない。
守るみたいに、包むだけだ。
「あ、それと、凛ちゃん」
「はい」
「行く前に、お腹いっぱい食べていきな」
「……はい」
「腹減ってる聖女様、いないからね」
「……ふっ」
「笑った」
「すみません」
「謝らないの。笑っていいの」
私はつい、もう一度、小さく笑ってしまった。
笑った自分に、また、少しだけ驚いた。
準備は、思っていたより現実的だった。
外套のほつれを縫い直す針の感触。
乾燥させた薬草の匂い。
水袋の革が軋む音。
荷物を分けるたび、私は自分の体の重さを確かめる。
“全部背負わない”ために、分ける。
誰かに預ける。
一人で抱えない。
それが、私のやり方。
レオンは無駄なものを持たない人なのに、今回は包みをひとつ増やした。
「それ、何ですか」
「……あんたのだ」
「私の」
「手が冷えるだろ」
差し出されたのは、指先まで覆う厚手の手袋。
毛糸の編み目が少し不揃いで、たぶん村の誰かの手。
私はそれを受け取って、指で撫でた。
ざらりとして、優しい。
「……ありがとうございます」
礼を言う声は、前よりも自分のものだ。
「もうひとつ」
レオンが、別の小さな包みを置いた。
「これは」
「飴だ」
「あめ」
「エルザの婆さんが、握らせた」
「……いつ」
「あんたが、外で薬草数えてるとき」
「あ」
包みを開くと、蜂蜜色の塊が、紙の上で鈍く光っていた。
「……甘い、ですね」
「まだ食ってないだろ」
「匂いで、分かります」
「そうか」
「レオンさん」
「ん」
「ひとつ、食べてもらえますか」
「……俺が?」
「はい」
「いらん」
「ひとつだけ」
「……一個な」
彼はぶっきらぼうに包みから飴をひとつ取って、口に入れた。
頬の片側だけが、少しだけ膨らむ。
「……甘い」
「そうでしょう」
レオンは少しだけ眉を上げて、それから、視線を窓に流した。
窓の外で、風が鳴った。
遠い空の色が、薄い鉛みたいに沈んでいる。
あの向こうに、王都がある。
そこに、今、誰かの“行かなきゃ”が積もっている。
私は荷物の紐を結びながら、最後に心の中で確かめた。
行かなきゃ、じゃない。
行きたい。
私が、私として。
「明日の朝、出る」
レオンの声が、薪の火みたいに低く響いた。
命令じゃない。
決めた私に、合わせる段取り。
「……はい」
「歩ける時間は」
「日のあるうちは」
「無理だと思ったら、言え」
「言います」
「即だぞ」
「……即で」
「ああ」
「レオンさん」
「ん」
「一緒に、お願いします」
頷きながら、外套の内側で、手袋を握りしめた。
その温度が、まだここにある居場所を覚えている。
だから、戻ってこれる気がした。
夜更け。
村の鐘が一度だけ鳴った。
風の向きが変わって、遠くの空気が、わずかに鉄の匂いを運んでくる。
王都で、何かが待っている。
祈り《いのり》の声が、裂けるような夜が——。
それでも私は、布団の中で目を閉じた。
逃げるためじゃない。
明日、自分の足で歩くために。
枕元には、革袋に詰めた薬草の包みと、毛糸の手袋と、蜂蜜色の飴がひとつ。
三つの形が、闇の中でぼんやり輪郭を持っている。
それは、私が「行きたい」と言った日の、最初の重さだった。
今話は、凛が初めて「自分の言葉」で一歩を選ぶ回でした。
“行かなきゃ”は、十二年間ずっと凛を支えてきた言葉でもあります。役に立つことでしか自分の居場所を確認できなかった子が、その言葉を投げ捨てるわけではなく、そっと横に置いて、別の音——“行きたい”を、舌の上に乗せる。たったそれだけのことが、彼女にとってはずっと、いちばん重い決断でした。
レオンの「俺の足をどこに向けるかは、俺が決める」は、書きながら自分でもこの人を好きになりました。守る・連れていく、ではなく、見届ける。選ぶ権利を、最後まで凛に返してくれる人です。彼が飴をひとつだけ口に含む場面は、彼の不器用な“一緒にいる”の形でした。
エルザさんの「腹減ってる聖女様、いないからね」は、台所の人にしか言えない一言。決意した瞬間よりも、その手前で食べる温かい一杯が、人を立たせるのだと思います。「分からないって、言っていいんですか」「いいよ。何度でも言っていいさね」——このやり取りに、今話の核は全部入っているつもりです。
枕元の三つ——薬草の包み、毛糸の手袋、蜂蜜色の飴。凛が「行きたい」と言った日の、最初の重さです。
次回、聖女の帰還——条件付き。凛は、自分の言葉で王都に戻ります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




