表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/39

第20話: 疫病の影

 咳が街角を曲がって近づいてくる。


 乾いた咳。湿った咳。喉の奥を削るような咳。

 その奥に別の匂いが混じっていた。


 ヴェルナーは大神殿の高い窓から王都の朝を見下ろしていた。

 いつもならこうの煙の向こうに橙色の屋根と白い湯気が広がっているはずだった。


 今朝は違う。


 屋根の下から薄い灰色が立ち上っている。

 病人を運ぶ手押し車の影が石畳をいくつも横切っていく。


 「……熱病だな」


 声に出してみても、確証にはならない。

 神官見習いが背後で短く息を吸った。


 「大神官様」

 「言うな」

 「ですが」

 「もう、聞こえている」


 階下から、すでに呻きが届いていた。

 大神殿の白い階段は、夜明け前から病人の川になっていた。




 ヴェルナーが扉の前に立つと列の先頭で女がよろめいた。


 「神官様」

 「お並びください」

 「うちの子が、もう三日も」

 「順番に診ます」

 「順番なんてもう、待てません」


 毛布に包まれた子どもの唇が紫だった。

 女の指は毛布の縁を握りしめて白くなっている。


 ヴェルナーは手のひらを掲げた。

 いつもの詠唱えいしょう。いつもの呼吸。いつもの——光。


 淡い金色が指先でぱちりと弾けただけだった。


 「……あれ?」

 「もう一度」

 「あれ、神官様、いま、いま光が」

 「もう一度やる。下がっていなさい」


 二度目。三度目。

 光は出る。確かに出る。

 けれどそれは皮膚を撫でるだけの無力なともしびだった。


 子どもの咳は止まらない。

 女がヴェルナーの神官服の裾を掴んだ。


 「お願いします」

 「待ちなさい」

 「神様、お願いです」

 「待ちなさいと、言っている」


 ヴェルナーは振り払いそうになった自分の手を慌てて引いた。

 民の前で神官が民を払うわけにはいかない。

 冷たい汗が襟の内側を伝っていった。




 副神官が扉の影から小走りに寄ってきた。


 「大神官様」

 「なんだ」

 「奥で、お話を」

 「ここを離れろと言うのか」

 「離れろ、ではなく、整え直しを」


 声は低い。

 しかしその低さに恐怖が滲んでいた。


 ヴェルナーは振り返らずに問うた。


 「他の神官は」

 「全員、出ております」

 「治っているのか」

 「……治っておりません」

 「一人も?」

 「軽い者は、薬湯で押さえております。重い者は」


 副神官が言葉を切った。

 その沈黙が答えだった。


 ヴェルナーは喉の奥でひとつ唸った。

 目の前の列を見渡す。

 毛布。板。汗。指。眼。

 全部が自分を見ていた。


 神官のひとりが後ろで囁いた。


 「魔力が、足りないのではないか」

 「違う。これは、別の——」

 「別の?」

 「病が、違うのだ。我々の知る病ではない」


 言ってしまってからヴェルナーは唇を噛んだ。

 言ってよかった言葉ではない。

 民の前で言ってよかった言葉では絶対にない。


 ざわりと列の前列が動いた。


 「いま、なんて言った?」

 「知らない病だって」

 「神官様が知らないのか?」

 「神官様が知らない病を、誰が治すんだ」




 列の中ほどで痩せた男が立ち上がった。

 布で口を押さえ、もう片方の手で自分の胸を叩いた。


 「神官様」

 「下がっていなさい」

 「俺の妻が、昨日、ここで」

 「順番に、診ます」

 「順番に診て、死んだんですよ」


 男の声は震えてはいなかった。

 震えるところを通り過ぎて、ただ平らになった声だった。


 「金、払いました」

 「……」

 「神殿の水も飲ませました」

 「……」

 「祈りました。一晩中」

 「……」

 「妻は、朝、冷たくなってました」


 男は咳を一つ落とすとヴェルナーをまっすぐに見た。


 「神官様、ひとつ訊いていいですか」

 「……なんだ」

 「聖女様は、どこですか」


 ヴェルナーの喉が鳴った。


 風が石畳を一度撫でた。

 誰も動かない。

 女も子どもも神官見習いも副神官も、息を止めてその問いの答えを待っていた。


 ヴェルナーは用意していた言葉を口の中で並べた。

 「神の御心により」「聖女様は今、別の祈りを」「我々が代わりに」——どれも舌の上で乾いた。


 代わりに出てきたのは別の声だった。


 「私は……神の意思に従っただけだ」


 言った瞬間ヴェルナーは気づいた。


 それがいちばん人を怒らせる言葉だと。


 男の頬がゆっくりと歪んだ。

 笑ったのか泣いたのか、区別がつかない歪みだった。


 「神の意思」

 「……」

 「神の意思で、俺の妻、死んだんですか」

 「そうではない、それは」

 「神の意思で?」

 「言葉が、足りなかった」

 「足りなかったのは、言葉じゃないでしょう」


 列の後ろから別の声が突き上げた。


 「聖女様を追い出したのは、誰だ!」




 王宮の回廊では香が二重に焚かれていた。


 それでも窓の外から流れ込む匂いを香では覆いきれない。

 濡れた布。汗。血。すす


 セドリックは窓枠に手をついていた。

 手袋越しに石の冷たさが伝わってくる。


 遠くの鐘がひとつ低く鳴った。

 その音がいつもの倍ほど長く空に残った。


 「殿下」

 「言え」

 「死者の数を、申し上げます」

 「言え」

 「昨日の倍です」

 「……倍?」

 「下町から、商業区へ。今朝、東門の外でも、三人」


 侍従の声は低く平らだった。


 倍。

 その一語がセドリックの胃の底を掴んで軽く捻った。


 「神殿は」

 「混乱しております」

 「治癒は」

 「効かぬ、とのことです」

 「効かぬ、とは」

 「光は出るが、病に届かぬ、と」


 光は出るが、病に届かぬ。

 その言い回しの隙間に別の意味が見えた。


 いままで効いていたのではない。

 効くだけの聖女が、いたのだ。


 淡い金の髪が脳裏をかすめた。

 怯えながらも誰よりも必死に手を伸ばしていた、あの少女の指。

 あれを自分たちは振り払った。


 「殿下」

 「もう少し、黙っていろ」

 「は」

 「いや、いい。続けろ」

 「神殿は、兵をご所望です」

 「兵で、咳が止まるか」

 「……止まりません」

 「なら、なぜ送る」

 「神殿は、暴動を恐れております」


 暴動。

 その単語が香の煙の中でいやに重く沈んだ。


 セドリックは窓に額をつけた。

 冷たさが額から眉間へ抜けていく。


 「……彼女がいれば」


 呟きは喉の奥で血の味になった。


 胸の底で別の声がゆっくりと頭をもたげる。

 報いだ、と。


 それが自分の心にあると知った瞬間、セドリックは自分自身を強く嫌った。




 大神官の執務室の扉を開けた瞬間、香の濃さが鼻を突いた。


 厚い絨毯じゅうたん。金の燭台しょくだい。窓には重い緞帳どんちょう

 外の現実から何重にも隔てられた部屋だった。


 ヴェルナーは机の向こうに立っていた。

 言葉はもう用意してあった。


 「これは神の試練——」

 「神官長」

 「殿下」

 「試練で済む人数では、ありません」

 「殿下、民は弱い」

 「弱いから、死ぬのです」

 「殿下、お聞きを」

 「聞いています。続きを言ってください」


 ヴェルナーは机に指を一度置いてから上げた。


 「治癒が効かぬのは、信仰が薄れたからです」

 「殿下、民が悔い改めれば」

 「神官長」

 「悔い改めれば、神は——」

 「神官長」


 セドリックが声を一段落とした。

 部屋の奥の燭台の炎がわずかに揺れた。


 「いま、王都に必要なのは、悔い改めではない」

 「では、何だと」

 「水と、薬と、隔離です」

 「殿下、それは医者の仕事です」

 「医者が、足りない」

 「神殿が、なんとか」

 「神殿が、なんとかしてきたのですか」


 ヴェルナーが目を伏せた。

 伏せたまぶたの下で瞳がわずかに揺れた。


 その瞬間。

 窓の外から怒号が突き刺さった。


 「嘘をつくな!」

 「神のせいにするな!」

 「聖女様を返せ!」




 セドリックは窓に駆け寄った。


 広場に黒い人の塊が渦を巻いていた。

 松明たいまつの煙が灰色の冬空をもう一段灰色にしていた。


 先頭の男が布で口を押さえながら叫んだ。


 「俺の子は死んだ!」

 「神殿の階段で、誰にも、触れられないままだ!」

 「金を取ったくせに、何ひとつ治せない!」

 「『新聖女候補』だの、神の器だの——」

 「結局、必要だったのは、あの人じゃないのか!」


 あの人。

 名前が出ないのに誰のことか、ここに居る全員に分かってしまう。


 ヴェルナーが背後から早口に言った。


 「殿下、兵を」

 「鎮圧して、病が止まるのですか」

 「殿下」

 「止まらない、と、いま自分で言ったでしょう」

 「殿下、責任を問われるのは、神殿だけではありません」


 おどし。


 セドリックは歯を食いしばった。

 歯の奥で舌が痺れた。


 言い返したかった。

 言い返せなかった。

 神殿が崩れれば王宮も連帯責任を問われる。それがこの国の作法だった。


 外で石が飛んだ。

 神殿の紋章もんしょうが刻まれた門に当たって乾いた音が鳴った。


 人々は笑っていた。

 泣きながら笑っていた。


 「ざまあみろ!」


 その四音が冬の空気をまっすぐに割った。


 病に苦しみながら。

 それでも。

 自分たちを高みから見下ろしていた者が震えているのを見て——胸の奥が少しだけ温まる。


 それが群れの感情だった。

 セドリックはその感情を政治の理屈で否定できなかった。




 ヴェルナーは執務室を出て、ふたたび階段の上に立っていた。


 日が傾く頃には列はもう列ではなかった。

 押し合い、奪い合い、倒れた者を踏む。


 「離れろ!」

 「秩序を、守れ!」

 「神官様、押すなって、押すなって言われても」

 「離れろ!」

 「うちの子、踏まれてます!」


 ヴェルナーの靴の下で毛布の角が滑った。

 その毛布の中に誰がいたのか、見るのが怖くて見られなかった。


 列の中央で別の男が叫んだ。


 「秩序?」

 「秩序を守れと、言っている」

 「俺たちの秩序は、どこにあった」

 「秩序がなければ、治療も」

 「お前らが、追い出したんだろ!」

 「聖女様は、どこだ!」


 ヴェルナーの脳裏にもう一度、少女の顔が浮かんだ。


 淡い金の髪。

 痩せた肩。

 手のひらの、白い光。


 必要だったのは彼女だった。

 その一文が喉に刺さったとげのように抜けない。


 だが彼はそれを飲み込んだ。

 飲み込まなければ、いま、ここで自分が崩れる。


 「……神が、神がそうお望みだったのだ!」


 言い切った瞬間、群衆の目が、一斉に冷えた。


 「神のせいに、するな」

 「神のせいに、すんな!」

 「お前が、決めたんだろうが!」


 次の瞬間、汚れた雪玉が飛んできてヴェルナーの頬を叩いた。


 冷たさより屈辱のほうが熱かった。


 神官たちが盾を構えた。

 だが盾は病からは守ってくれない。

 咳は近づき、熱は広がり、恐怖は確実に伝染でんせんする。


 ヴェルナーは一歩引いた。

 階段の端まできびすが下がった。


 そこで何かに踵が当たった。

 見下ろすと金のさかずきが転がっていた。


 施しの水を入れるために朝、用意したものだった。


 空だった。


 空っぽで冷たくて、底の金箔が夕陽でわずかに鈍く光っていた。


 神殿の象徴のように空だった。




 王都から数日。


 リンデン村へ続く街道の宿で旅商人が囁いた。


 「王都が、病で埋まってる」

 「ほんとか」

「ほんと。咳ひとつで、倒れるってよ」

 「神殿は」

 「治せねえってさ」

 「治せねえ?」

 「ああ。……聖女を追い出した罰だって、皆が言ってる」


 罰。

 その一語が酒場の卓の上をゆっくりと転がっていった。

 誰かが拾い、誰かが置き、やがて全員の足元に沈んだ。


 「じゃあ、こっちにも、来るのか」

 「風向き次第だ」

 「風次第かよ」

 「荷も、人も、動く。病も、動く」

 「封鎖したって、聞いたぞ」

 「したらしいな。けど」

 「けど?」

 「封鎖ってのは、いつも、遅いんだ」

 「遅い?」

 「咳は、先に旅をする」


 旅商人は暖炉の火を見つめた。

 炎が彼の頬を一度橙に染めて消した。


 店の隅で粗末な外套を着た若い男が、黙って立ち上がった。

 視線は窓の外——雪の向こう、丘の奥に置かれている。


 その丘の向こうに村の外れの一軒家がある。

 傷ついた者をいやす手がそこに居る。

 人々はまだその価値を知らない。


 だが。


 暖炉の灯がぱちりとはぜた。

 火の粉がひとつ宙で消えた。


 王都の疫病の影が白い息となって街道を渡り——

 いま、確実に、村のともしびへ近づいていた。



EP20「疫病の影」、お読みいただきありがとうございました。


この話は珍しく、凛もレオンも出てきません。

ざまぁ第四波——神殿側と王宮側、二つの「責任ある場所」で、何が起きているかを描きました。


ヴェルナーは焦り、セドリックは胃の底が冷えて、それぞれが「彼女がいれば」という言葉に至ります。けれどそれは、後悔ではなく、ただの「報い」の自覚です。彼らはまだ、自分からゆるしを請いには行きません。


民の「ざまあみろ」を、私は罵倒ではなく、病に殴られながら笑う人間の、最後の体温として書きました。泣きながら笑うあの感情を、否定したくなかったのです。


そして章末——空の金杯と、暖炉でぱちりとはぜる火。

辺境の村に、白い息となって近づくものがあります。


凛がどう動くのかは、次話「選ぶのは私」で。


次話もお待ちいただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ