第19話: 王太子の求婚
——「王妃にする」。それは愛の言葉じゃなく、檻に戻す合図だった。
王太子の馬が、リンデン村の土を踏んだ。
護衛は、たった三人。
それがいちばん、この村に似合わなかった。
朝の冷えた空気に、蹄の音が混じる。
それだけで、村の呼吸が変わったのが分かった。
王都の人は、音が違う。
鎧の擦れる音も、馬具のきしみも、乾いている。
土の匂いに混じらない、金属の匂い。
畑仕事に出ていた人が手を止め、井戸のそばの女たちが顔を上げる。
子どもが、笑い声を途中で切った。
私は薬草の束を抱えたまま、家の門の内側で立ち尽くしていた。
指先が冷たくなるのは、風のせいだけじゃない。
「凛ちゃん」
背後から、エルザさんが呼ぶ。
名前で呼ばれるのは、もう当たり前になったはずなのに。
いまは、その二音がやけに胸の奥へ沈んだ。
「……来ましたね」
「来たね」
エルザさんの声は低い。
怒ってはいない。怯えてもいない。
ただ、現実をそのまま受け止める人の声だった。
「凛ちゃん、奥に隠れていてもいいんだよ」
「いえ」
「無理は、しなくていい」
「無理じゃないんです。隠れて、村のひとに矢面に立ってもらうほうが、ずっと無理です」
エルザさんは、ふっと笑った。
目尻のしわが、朝の光の中で深くなる。
「言うようになったね、凛ちゃん」
「……エルザさんが、教えてくれました」
「教えてないよ」
「では、見せてくれました」
喉の奥に、昔の癖が湧いてくる。
戻らなきゃ。
私が行けば丸く収まる。
私が——。
でも、その続きが途中で止まった。
自分の中に、別の言葉が生まれている。
ここに、居場所がある。
私は薬草の束を台所の籠に置いた。
指先から、緑の匂いが離れていく。
代わりに、私は自分の手の重さを確かめた。
「行くのかい?」
エルザさんが訊ねる。
“行くな”でも、“行け”でもない。
選ぶのは私だ、という問い。
「行きます。……私の口で、言います」
「うん」
「もし、声が震えたら——」
「震えても、いいよ」
エルザさんは、私の背中に手のひらを当てた。
大きな手だった。土と火と、薬草の匂いがした。
「震える声でも、ちゃんと届く声だ」
村の入口に続く道は、霜で白い。
その上を、黒い馬がゆっくり踏んでいた。
王太子セドリック・レイ・ガルディア。
遠目でも分かるほど、整った姿勢。
旅装の外套に身を包んでいても、光が集まる場所を知っている人の歩き方だ。
護衛は三人。
村に押し入る人数じゃない。
だからこそ、逃げ道を塞ぐための“覚悟”に見えた。
村人たちが、半円を作る。
誰も武器を振り上げない。
ただ、立つ。
この村のやり方で、守る。
私はその輪の前に出た。
足が震えていないのに、自分で驚く。
怖いのに、逃げる方向を選ばない自分が、ちゃんといる。
セドリック殿下は馬から降り、外套の前を整えた。
笑顔を作るのは、相変わらず上手い。
けれど、その目の奥は焦っていた。
呼吸が少しだけ速い。
「リーネ」
名を呼ばれた。
——聖女名で。
村の風が、私の髪を揺らす。
この髪は、神殿の香の匂いじゃなく、薪の煙の匂いがする。
「お待たせしました、殿下」
「待ってなどいない。来てくれただけで十分だ」
「来たわけでは、ありません。ここに、住んでいるだけです」
殿下の眉が、ほんの少しだけ動く。
でも、表情はすぐに整えられた。
「リーネ、戻ってきてくれ。王妃の座を約束する」
私は静かに、首を横に振った。
「申し訳ありません。お断りします」
言葉は、丁寧に。
でも、曖昧にしない。
「考え直してくれ」
「考えました。何度も」
「神殿の体制は変える。大神官は罷免する。約束する」
「殿下が、約束できるのは、神殿のことだけです」
「……どういう意味だ」
「私の名前を、私の意思を、約束できるのは、私だけだということです」
風の音が、少しだけ大きくなる。
村の誰かが息を呑む気配。
けれど私は、続けた。
「殿下は、私を『国の宝』だと言いました」
「ああ。今もそう思っている」
「宝は……箱に入れられます。磨かれます。傷がつかないように」
「だから君を守る」
「でも、宝は、息をしません」
殿下の唇が、止まった。
私は自分の胸に手を当てる。
そこにあるのは、役目じゃない。
ただの、呼吸だ。
「私は、息をしたかったんです」
「リーネ……」
「私が、ではなく『聖女』が、必要なんですよね」
「違う」
「では、伺います」
息を、吸う。
「あなたは治癒が必要なとき以外、一度も私の名前を呼ばなかった」
……僕は。
その一言で、足元の土が抜けた気がした。
冷たい霜が、靴の底から這い上がってくる。
僕は、彼女の名前を呼んでいたはずだ。
リーネ、と。
何度も——。
脳裏に浮かんだのは、彼女の声じゃなく、書類の山だった。
治癒依頼の山。嘆願書。報告書。
そして、僕の口から出る言葉。
「聖女。急いでくれ」
「聖女リーネ殿、こちらへ」
「国の宝なんだ。君は分かってくれるだろう?」
——君。
僕は、“君”で済ませてきた。
笑って、撫でて、褒めて。
それで十分だと思っていた。
相手は宝だ。宝に名前を呼んで“許可”をもらう必要はない。
必要なのは、光だけだ。
必要なのは——。
「……君は、僕の婚約者だった」
喉が震える。
言い訳みたいに聞こえてしまうのが嫌で、言葉が細くなる。
「婚約者の名前を、どんなときに呼びました?」
彼女は、静かに訊いた。
責める声じゃない。確認する声だった。
それがいちばん、応える。
「……朝の挨拶で」
「朝、私は神殿の祈祷室にいました」
「夜会のときには」
「夜会に、私を連れて出たことは、ありません」
「……」
彼女の目は、僕の顔を映しているのに。
そこには、期待がない。
怯えもない。
ただ、確定した答えがある。
僕は、そのとき初めて気づいた。
彼女が、僕の前で“人”として立っていることに。
そして同時に、僕が今まで彼女を“人”として見ていなかったことに。
セドリック殿下は、言葉を探しているようだった。
けれど、探す場所が違う。
政治の引き出しを開けても、ここには答えがない。
私は、そのことが不思議じゃなかった。
殿下はずっと、そういう人だった。
悪意がないまま、痛みを踏む人。
「殿下」
私が呼ぶと、殿下の瞳がわずかに揺れた。
その揺れは、迷いに見えた。
でも、迷いは“変わる”とは限らない。
「私は……聖女として、殿下の役に立ったのでしょう」
「立った。誰よりも」
「けれど、私が倒れた夜——」
記憶が刺さる。
白い部屋。光の残像。喉の渇き。
そして、耳に届いた言葉。
『代わりは?』
「あの夜のこと、覚えていますか」
「……治癒の後、君が高熱を出した夜のことか」
「はい」
「侍医を、すぐに手配した」
「殿下は、いらっしゃいませんでした」
「公務が」
「ええ。公務でした。それでいいんです」
私は、首をわずかに傾けた。
「ただ、あの夜、大神官様が私の枕元で何を言ったか、ご存じですか」
「……何を、言った」
「『代わりは』と」
殿下の喉が、ひとつ動いた。
「私が、たとえ目を覚まさなくても、次の聖女がいる。そういう声でした」
「それは、ヴェルナーが——」
「殿下は、その後、私に何か仰いましたか」
「……」
「『よかった、生きていてくれて』とは、仰いませんでした」
風が、霜の上を走った。
「『代わりが要らなくてよかった』と、仰ったんです」
殿下の唇が、白くなった。
「覚えていますか」
「……記憶に、ない」
「私は、覚えています。ずっと」
私は、息を吐いた。
恨みじゃない。別れだ。
「私は、ここで暮らしています」
「土に触れて、匂いを嗅いで、笑って——眠れます」
エルザさんの家の台所。
村の子どもたちの手。
レオンの、黙って隣にしゃがむ背中。
それらが、私を“生きている”ほうへ引っ張ってくれた。
「もう戻りません。ここに私の居場所がありますから」
セドリック殿下が、唇を噛む。
悔しそうで、悲しそうで——でも、そのどちらも自分のための顔だ。
「リーネ」
呼ばれた。
たぶん、今日ここへ来るまでに一番“本気”の声だった。
「リーネ、頼む。考え直してくれ」
「考え直すのは、殿下のほうです」
「僕の何を」
「『考え直してくれ』と、また私に言ったこと、です」
殿下の目が、わずかに見開かれた。
「……ああ」
「気づかれましたか」
「君は、いつも僕の言葉の中に、僕自身を見せる」
「殿下が、置いていらしたから、お返ししただけです」
私は小さく、首を振った。
否定は怒りではなく、確認だ。
「私は凛です」
殿下の目が見開かれる。
——そう。殿下は、知らない。
私の本当の名前を。
「凛、と読みます」
「凛……」
「覚えなくていいです。もう、必要ありませんから」
「リーネ。いや——」
「殿下」
私は、首を振った。
「呼ばないでください。覚える努力を、今ここでされても、私は受け取れません」
言い切ると、胸の奥が静かになった。
勝った、という熱じゃない。
ただ、終わった、という静けさ。
護衛騎士のひとりが、殿下の耳元で何かを囁く。
殿下は一瞬だけ迷って、それから、村人たちに視線を巡らせた。
この村の輪は、崩れない。
殿下が持っているものでは、ほどけない。
セドリック殿下は深く息を吐いた。
そして、いつものように外套の前を整え、王太子としての顔を作る。
「分かった。今日は退こう」
「ありがとうございます」
「だが、君が必要になる日が来る。必ずだ」
必要。
その言葉は、もう鎖にならない。
私は微笑んで、答えた。
「その日が来ても——選ぶのは、私です」
「……ああ」
「殿下」
「なんだ」
「あの夜の高熱、もう、ありません」
「……そうか」
「ご報告まで」
殿下の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
それが謝罪なのか、敗北なのか、私には分からない。
でも、どちらでもよかった。
殿下は馬に乗り、来た道を戻っていく。
蹄の音が遠ざかるにつれて、金属の匂いも薄れていった。
最後に、外套の隙間から、何かが落ちた。
小さな、銀の輪。
婚約の指輪——だったもの。
誰も、それを拾わなかった。
私も、拾わなかった。
村の空気が、ゆっくりと元に戻っていく。
誰かが息を吐き、誰かが小さく笑い、子どもが走り出す。
生活の音が、また近づく。
「凛ちゃん」
エルザさんが、私の肩に手を置く。
私はその手の温度で、ようやく自分の指先が冷えていたことに気づいた。
「……平気です」
口癖が出かけて、私は一瞬だけ言葉を選び直した。
「……ううん。ちょっと、冷たいです」
「うん」
「でも、ちゃんと、最後まで言えました」
「うん」
エルザさんが、しわだらけの目を細める。
それだけで、胸がほどけていく。
「あの指輪、どうする?」
「……拾わないで、いいですか」
「いいよ」
「あれは、私の指に、嵌まったことが一度もないんです」
「そうかい」
「だから、土の上にあって、ちょうどいいんです」
エルザさんは、それ以上、何も訊かなかった。
代わりに、私の手の甲を、しわだらけの親指で一度だけ撫でた。
道の向こう。
木立の影が、ひとつ動いた。
黒い外套。
目立たないように立っていたのに、私には分かる。
レオンが、そこにいた。
最初から、ずっと。
私が自分で選べるように、距離を保ったまま。
私が視線を向けると、レオンは短く頷いた。
それだけで、十分だった。
レオンは木立から出てきて、村の道をゆっくり歩いてくる。
私のところまで来ると、すこし離れた場所で足を止めた。
「凛」
「はい」
「指、伸ばせるか」
「……はい?」
「握ったままだろ」
言われて、初めて気づいた。
私の右手は、ずっと拳を作っていた。
外套の前で、爪が掌に食い込むくらいに。
「……ほんとうですね」
「貸せ」
レオンが、私の右手をそっと取った。
革手袋を外したままの、彼の手。
指の節が、私の指の関節を、ひとつずつ外していく。
ぱき、と小さく鳴って、力が抜けた。
「痛いか」
「……いいえ」
「跡、付いた」
「跡くらい、平気です」
「平気って言うな」
「……はい」
「言うな、っていうのは、命令じゃない」
「では、なんですか」
「お願いだ」
私は、こくんと頷いた。
頷くだけで、目が熱くなる。
——たぶん、これで終わりじゃない。
王都は、動く。
神殿も、きっと。
それでも。
私の隣には、村がある。
そして、あの人がいる。
レオンは、去っていく王太子の背を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……次は、俺が前に出る」
「だめです」
「だめか」
「いっしょに、出ます」
風が、霜のかけらを散らした。
その霜の中で、銀の指輪だけが、誰にも拾われないまま、土の色に紛れていった。
## あとがき
EP19「王太子の求婚」をお読みいただき、ありがとうございました。
決め台詞は最初から決まっていました。
「あなたは治癒が必要なとき以外、一度も私の名前を呼ばなかった」——この一行だけを着地点にして、村の朝の温度と、セドリックの足の冷たさと、凛の拳の固さで、周りを組みました。
ざまぁのカタルシスは、声を荒げないほど深くなる、と私は思っています。
凛は最後まで丁寧に話します。震えながら、それでも質問を返します。「あの夜、覚えていますか」と。
覚えていない、と答えた瞬間、勝負は終わっています。
落ちた銀の指輪を誰も拾わない場面が書きたくて、この回を書きました。
ひとつだけ転がる、嵌まったことのない輪。
それが、凛の十二年間の正体です。
次話、王都に疫病の影が落ちます。
凛は、もう「行かなきゃ」では動きません。
「行きたい」と思えるかどうか、その問いの前に立ちます。
歩人




