表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/39

第22話: 聖女の帰還——条件付き

 ——戻るのは、聖女としてじゃない。命を削る治癒は、もう二度としない。


 王宮の扉は、開く音さえ威圧する。

 巨大な銅の蝶番が、低く軋んだ。


 冬の朝の冷気が、磨かれた大理石の床を撫でて、足首まで這い上がってくる。

 その冷たさを、今日は飲み込まれずに踏みしめる。


 私は連れ戻されに来たんじゃない。

 自分の足で、ここまで来た。




 謁見えっけんの間は冬の井戸の底みたいに冷たかった。


 赤い絨毯じゅうたんの先に玉座。

 左右に並ぶ貴族の列。重ねた絹の擦れる音と、香炉から漂う没薬もつやくの匂いが空気を重たくしている。


 扉が私の背後で閉じた。


 その音は合図だった。

 貴族たちの視線が一斉に私の上で止まる。


 私は一歩、前へ出る。

 絨毯の毛足が革靴の底をわずかに沈ませた。

 その沈み込みの分だけ心臓の鼓動が遅くなる。


 背後に黒い影が寄り添った。


 レオンは何も言わない。

 ただそこに立つだけで貴族たちの首が一つ、また一つと彼の方へ向く。

 無言の重さ。剣を抜くより先に空気を制圧する立ち方。


 大丈夫です——その口癖を私は喉の奥に押し戻した。

 ここで言えばまた「いい子の聖女」に戻される。


 「……聖女、殿」


 きざはしの上から、セドリックが言った。

 声に、隠しきれない驚きが混じる。


 その隣で、大神官ヴェルナーが息を呑んだ音が、はっきり聞こえた。

 白い長衣の胸元で、彼の指が祭服の縫い目を強く握る。


 私を「使う側」だった二人が、今は「助けてくれ」という顔をしている。


 「戻ってきてくれたのか、聖女殿」


 ヴェルナーの声が、半歩、踏み出してくる。

 嬉しさより、安堵が先にある声。


 「ああ、神よ感謝を……これで王都は救われる。聖女殿、すぐに、すぐに大聖堂へ。祭壇の準備は整っております」


 その安堵が、私の胸の古傷を一度だけ疼かせた。


 私は笑わない。

 笑えば、また札に戻る。


 代わりに、息を一度、深く吸った。

 胸の奥で、レオンの言葉が静かに灯る。

 ——行かなきゃ、じゃない。行きたい。


 「戻りました」


 声が、思ったよりも低く出た。

 貴族たちの背筋が、わずかに動く。


 「ただし、条件があります」


 空気が、ざわめいた。

 絹擦れの音。誰かの咳。香炉の煙が一瞬、流れを乱す。


 セドリックが、一拍置いて、背筋を伸ばし直した。

 「……条件を、聞こう」


 その声には、王太子としての矜持と、わらにすがる男の必死さが、同じ重さで同居していた。




 私は玉座を見上げた。


 白髪混じりの王は頬がこけていた。

 眠れない夜が目の下に薄い影を刻んでいる。

 ガルディア王は無言のまま顎を一度わずかに動かす。続きを促す合図。


 値踏みではない、と分かった。

 王の目は私を「相手」として扱う目だ。

 その視線が私の背中をまっすぐにする。


 「命は削りません」


 私は言い切った。


 「な——」


 ヴェルナーの声が割れた。

 大神官の長衣の裾が、神経質に揺れる。


 「治癒魔法ちゆまほうは使いません。今回の疫病えきびょうには」


 胸の奥がひりつく。

 光を出せば目の前は綺麗になる。

 けれどその光を出すたびに私は削れて倒れて、また同じ声に呼ばれる。

 ——代わりは。


 もう、繰り返さない。


 「私のやり方でやります」


 言い切った瞬間、レオンの気配が半歩私の背に近づいた気がした。

 触れない距離。

 でも私が転んだらその場で受け止められる距離。

 無言の圧が私の言葉を「交渉の札」に変えていく。


 私は一度だけ息を吸い直した。

 胸の中で決め台詞の頭が固く整う。


 「命は削りません。私のやり方で。嫌なら帰ります」


 その一言で貴族の背筋が揃った。


 絨毯の上、香炉の煙、王の沈黙。

 全部が一度だけ止まる。


 「聖女」が席を立つという意味をここにいる全員が知っている。

 席を立たれて困るのは私じゃない。

 そのことに十二年かけてようやく気づいた。


 ヴェルナーが踏み出す。長衣の裾が、絨毯を引きずる音。


 「何を、言っておられるのか、聖女殿。貴女は神に選ばれた身。治癒なくして、何のための聖女ですか。神の恵みを、民から奪うおつもりか」


 「黙れ」


 低い声が、間を切った。


 玉座の王が、片手を、ほんの少しだけ上げる。

 ただそれだけで、ヴェルナーは言葉を飲み込んだ。

 大神官の喉仏が、ひとつ、上下する。


 「——聖女殿の、条件を、聞こう」


 王の声には、疲労の底に、まだ折れない芯が残っていた。

 その芯が、私の芯と、まっすぐに向き合う。


 セドリックが、玉座の傍らで、ゆっくり頷いた。

 「承諾する」

 短く、しかし退路を残さない声。

 「聖女殿の条件を、受け入れる」


 ヴェルナーが信じられない顔で声を上げる。


 「セ、セドリック殿下! お聞きになっておられるのか。疫病ですぞ。治癒なくして、どうやって民を救うのか」


 「だからだ、ヴェルナー」


 セドリックが、短く切った。


 「治せば終わると、私は思っていた。聖女を呼べば、光が出れば、全部片付くと。結果は、この有様だ。三百人が床に伏し、神殿は祈りだけを返してくる。同じ過ちを、私はもう繰り返さない」


 王太子の指が、玉座の肘置きを、軽く叩いた。

 その音が、空気を一段、引き締める。




 私は、息を吸う。

 ここから先は、私の言葉だ。


 「では、始めます」


 声が、自分でも驚くほど、落ち着いていた。

 恐れがなくなったわけじゃない。

 恐れたまま、言える。


 「まず必要なのは——石鹸せっけんと、清潔な布です」


 沈黙が、ひとつ落ちた。


 次に、困惑のざわめき。

 貴族たちが互いに顔を見合わせる。絹の擦れる音が、波のように広がる。


 「……石鹸」

 ヴェルナーが、呆けたように繰り返した。


 「手を洗うためです」

 私は淡々と言った。

 「布は、拭くため。煮沸しゃふつして、干して、また使う。共有のおけは、廃止します。飲み水と、洗い水を、分けます」


 誰かが、低く呻いた。

 貴族の中の一人が、不快を隠さず、長椅子の手すりを指で叩く。


 「そんなことで、疫病が止まると? 聖女殿、我らをからかっておられるのか。石鹸など、下女が皿を洗うのにしか使わぬ代物ですぞ」


 「変わります」


 私は、遮った。


 「疫病は、祈りより先に、触れる、で広がります。なら、触れ方を、変える」


 声が、自分の中で硬い形を保つ。

 私の手のひらに、汗がにじんだ。

 でも、震えはない。


 レオンの背後の静けさが、また一段、深くなる。

 誰も私を笑えない空気が、絨毯の上に降りた。


 私は続けた。


 「症状が出た者は隔離かくり。看病する者は固定。出入り口は一つに絞ります。出入りのたびに手と靴を洗う場所を、扉のすぐ内側に作ります。記録係を一人置いて、誰が、誰と、いつ会ったかを紙に残します」


 「紙、ですか」


 セドリックが低く繰り返した。


 「紙です」


 私は頷いた。


 「接触を追います。次に誰が倒れるか。その前に止めます」


 「止める……」

 セドリックが、その言葉を一度自分の中で確かめるように繰り返した。

 「治す、ではなく、止める、か」


 「治す前に、広げない。それが先です」


 貴族の列が、再びざわめいた。


 「貴族の屋敷も例外にはしません」


 私は先に刺した。


 「王族も例外にしません。従えないなら、私は帰ります」


 「な——」

 ヴェルナーが、また半歩前に出た。

 「王族を、聖女の指図に従わせると、そう仰せか。畏れ多くも陛下のお身体を——」


 「黙れと言ったぞ、大神官」


 王の声が、低く間を切った。


 「畏れ多い、と言うなら、まず病で死にゆく民にこそ畏れを抱け」


 空気が、凍った。


 その凍りついた静けさの中心で、王が、頷いた。


 「良い」


 短い、しかし揺るがない声。

 「聖女殿の条件を、王が受け入れる」


 玉座の言葉が、命令になる。

 絨毯の左右で、貴族たちが、半歩、退いた。


 セドリックが、深く頭を下げた。

 「物資と人員を、動かす。聖女殿の指示に、王宮の全機構が従う」


 ヴェルナーは、唇を噛んだ。

 遅れて、頭を下げる。

 「……承知、しました」


 その「しました」の声が、十二年間、彼が私に押し付けてきた言葉の重さの、ちょうど反対側にあった。


 私は、一度だけ息を吐く。

 勝ち負けじゃない。

 私のやり方を、私の条件で、通しただけだ。




 謁見の間を出ると、廊下の冷気が、額の汗を一気に乾かした。


 石造りの天井から、薄い反響音が落ちてくる。

 遠くの窓から、冬の薄い陽が、斜めに差していた。


 私は、外套の内側で、指先を握りしめた。

 指が、わずかに、震えていた。


 怖かった。

 怖いまま、言えた。


 その差が、十二年分の重みだった。


 隣を歩くレオンが、私の歩幅に合わせて、足を遅らせる。

 彼の靴音が、私の半歩遅れて、絨毯の終わりで石畳に変わる。


 ぽつり、と低い声が落ちた。


 「折れなかったな」


 短い。

 でもその短さの中に、一晩中起きていた人の声があった。


 「……折れたら、元に戻ります」


 私は答えた。


 「それだけは嫌なんです。十二年かけて、やっと、ここまで来たから」


 「ああ」


 レオンが、ひとつ、頷いた。


 「あんたは折れない」

 頷きだけ。

 その沈黙が、私の背中に、温かい板を当ててくれる。


 手袋の編み目の感触が、外套の内側で蘇った。

 毛糸の、わずかに不揃いな結び目。

 あの夜、エルザさんの台所で渡された温度が、今でも指の腹に残っている。


 ここまで来られた理由が、その温度だ。




 廊下を曲がると、薬草と汗の匂いが、空気の層を変えた。

 誰かの咳が、重なって聞こえる。


 病舎びょうしゃの扉が、廊下の先で、半開きのまま揺れていた。


 私は、足を止めた。


 「まず、病舎を見ます」

 声に、迷いはなかった。

 「入口、洗い場、隔離の区画。今日中に、形にします」


 「分かった」

 レオンが頷く。


 「石鹸は、工房へ。なければ、作ります。油と灰さえあれば、できます」

 「了解だ」


 「布は、神殿の倉から徴発します。白衣の在庫があるはずです」

 「俺が掛け合う」

 「煮沸用の鍋は、城の厨房から借ります。大きいのを、三つ」

 「分かった」

 「薪は、いくらあっても足りません。城下の薪屋に、買い上げの触れを」

 「手配する」


 短い、短い、短い。

 会話の長さが、そのまま、二人の信頼の形だった。


 私は、一度だけ振り向いた。


 「護衛を、ですか」

 「いや」

 レオンは、私の問いの先を、先に否定した。

 「言わない。あんたが要らないと言うなら、要らないんだろう」


 その短い一言の中に、二十一話の夜の答えが、まるごと入っていた。


 胸の奥が、熱くなる。

 私はそれを、ちゃんと、温度として感じられる。


 「必要なのは、運び屋です」

 私は前を向いた。

 「布と、水と、薪を運べる人。命を救うのは、光じゃない。手と、道具です」


 レオンの口元が、ほんの少しだけ動いた。

 笑った、と気づくのに、私は二拍かかった。


 「了解だ。……聖女殿」


 その「殿」が、わざとだと分かる。


 私は、一度だけ足を止めて、彼を見上げた。


 「呼ぶなら、凛で、いいです」


 言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

 鎖だった肩書きが、今日はただの札になった。

 札なら置ける。置いて、また持ち上げる。それが私の選び方だ。


 「……凛」


 レオンの声は、低く、ためらいなく、私の名前の輪郭を一度だけなぞった。


 「了解だ、凛。あんたの言う通りに、動く」


 その「了解だ」が、命令を受ける声ではなかった。

 二人で並ぶ側の、合意の声だった。




 病舎の扉の前に、私は立った。


 半開きの扉の隙間から、消毒薬の鼻を突く匂いと、湿った布の匂いが、まじって流れてくる。

 奥で、子どもの咳がひとつ、長く続いた。

 その咳の止まり方が、私の前世の記憶を、瞬間で呼び起こす。


 夜勤の小児科。

 白い天井。

 モニターの単調な電子音。

 あの夜、私は「大丈夫です、まだ動けます」と言って、倒れた。


 今日は、違う。


 「動けます」とは、言わない。

 「動かします」と、言う。

 主語が、私から、仕組みに、変わる。


 私は、外套の内側で、手袋の指を、もう一度、握り直した。


 石鹸と、清潔な布と、一冊の白紙の帳簿ちょうぼ

 明日の朝までに、王都の地図の上に、隔離の線を、引く。


 それが、私の奇跡きせきの領分だ。


 扉の取っ手は、冷たかった。

 冷たいまま、押した。


 軋む音と一緒に、薄暗い病舎の空気が、廊下に流れ出てくる。

 咳の重なりが、ひと回り近くで聞こえる。

 その密度の中へ、私は、最初の一歩を踏み出した。


 背後でレオンが、扉の枠に、肩を預けた音がした。

 遠ざからない距離。

 見届ける距離。


 ——王都の疫病対策が、ここから始動する。


 扉が、ゆっくり、私の後ろで、閉じた。




**

**


二十二話、お読みいただきありがとうございます。


二十一話で「行きたい」と選んだ凛が、今回ついに王都へ戻りました。

ただし、連れ戻されてではなく、自分の足で。条件付きで。


書きながらいちばん大事にしたのは、凛が「席を立つ」と言える側に立ったことです。

「聖女が席を立つ意味を、ここにいる全員が知っている」——この一行が、十二年間ずっと立場が逆だった彼女の、はじめての反転でした。


そして凛は、治癒魔法ではなく、石鹸と清潔な布を最初に求めます。

前世の看護師として知っている、もっとも地味で、もっとも強い武器。

派手な光ではなく、手と道具で、人を救う側に立つ。


レオンは今回も、ほぼ喋りません。

喋らないまま、凛の半歩後ろから、空気を作ります。「折れなかったな」——たった一言の遅い祝福が、わたしはこの話でいちばん好きです。


次話、病舎の中で、凛の前世の知識がいよいよ動き出します。

聖女の奇跡ではなく、凛の知恵が、王都の疫病とどう向き合うか。


引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ