第2話: 使い潰される花
喉が、ひゅ、と鳴った。
まぶたの裏に光が滲み、意識が水面へ押し上げられる。揺れているのは私だ。誰かの腕の中で運ばれている。
「……起きたか」
低い声が、世界の輪郭を先に作った。私は息を吸おうとして、胸が痛む。
「大丈夫、です……」
反射のように口が動いた。言い終えた瞬間、自分で自分が怖くなった。大丈夫なわけがないのに。
「……言うな」
抱えている腕が、ほんの少しだけ強くなる。鎧の冷たさと、その奥の体温が、頬に伝わってきた。
「レオン、さん」
「俺だ」
それだけ。けれど、その“それだけ”が、いつも私に与えられていた言葉と違った。
いつもは、もっと綺麗で、もっと正しくて、もっと逃げ道のない言葉だった。
石畳を急ぐ足音が遠のくたび、頭の奥がずきりと疼く。
痛みは、思い出の形をしていた。
——あの日も、私は揺れていた。
小さな身体を抱えられて、神殿の門をくぐった日。三歳の春だった。
「この子は“選ばれた”のです」
白い天井が、高い。香の匂いが濃い。息が苦しい。でも泣くと迷惑だと分かっていた。
泣くと、嫌われる。捨てられる。私は、そういう“いい子”だった。
「リーネ。あなたは神の祝福を受けた花でございます」
大神官ヴェルナー・クラウディウスは、私を見下ろして微笑んだ。
「はな、ですか」
「そうとも。可愛い、可愛い花。神があなたを選んだのです」
「えらばれた、の」
「ええ。たくさんの子どもの中から、あなただけが」
花。可愛いと言われた。特別と言われた。それだけで胸の奥がふわりと軽くなった。私は褒められるのが好きだった。褒められると、ここにいていい気がした。
「リーネ。怖くはありませんか」
「……すこし」
「痛みも、いつか喜びに変わります。あなたが民を救うのです」
「みんなを、たすけるの」
「そうです。だから泣いてはなりませんよ。涙は、神の御心を曇らせます」
「……はい」
“民を救う”。その言葉は、後から私の骨にまで染みていった。
その日から、私の部屋は豪華だった。絹の天蓋。磨かれた床。甘い菓子。けれど窓の外は、格子越しにしか見えなかった。
「外へ出ても、いいですか」
「いけません。聖女様、外へ出る必要はありません」
「でも、お花を」
「お花でしたら、こちらに用意いたします。外の者と関わるのは、罪でございます」
マティルダはそう言って、私の手から窓の鍵を取り上げた。罪は、いやだった。だから私は、もう窓に手を伸ばさなかった。
侍女長マティルダは、笑わなかった。笑っても、形だけだった。
「聖女様、お身体を清潔に。姿勢を正しく。食事は残さず」
声は丁寧で、氷みたいに冷たい。
「マティルダ様、あの、外の風に当たっても」
「いけません。外の者と話してはなりません。不要な感情は、穢れです」
感情。
泣きたいと思うのも、怒りたいと思うのも、寂しいと思うのも。ぜんぶ、穢れ。“いらないもの”。だから私は、いらないものを捨てる練習をした。
笑う練習。頷く練習。
「はい、聖女として、努めます」
言葉の練習。
「大丈夫です」
その一言があれば、誰も眉をひそめない。その一言があれば、誰も困らない。誰も、私のせいで止まらない。
私は、止まってはいけない。
止まったら——捨てられる。
十五歳の冬、私は“第21代聖女”になった。
戴冠の朝、ヴェルナーは私の手を取って祈った。
「あなたの命は、民のために——」
その言葉の途中で、私の指先が震えた。震えを見せたらいけない。怖がったらいけない。私は笑った。
「はい。光栄です」
「光栄、と」
「はい。神に選ばれたことを、誇りに思います」
「素晴らしい。聖女様は、神の御心を理解しておられる」
「ありがとうございます、大神官様」
「お身体は、つらくはありませんか」
「いいえ。少しも」
嘘だった。けれど、嘘だと気づかれないように笑った。理解しているふりをするほど、私は褒められた。褒められるほど、私は“役に立つ”と思えた。
役に立つなら、ここにいていい。ここにいていいなら、痛くても大丈夫。そんなふうに、考える癖がついた。
最初の聖癒は、戦場帰りの兵士だった。
血と鉄の匂いがする人だった。私より大きくて、なのに子どもみたいに震えていた。
「頼む、聖女様……母に、会わせてくれ」
「はい。お任せください」
「俺、まだ、死ねないんだ」
「分かりました。じっとしていてください」
「聖女様、ありがとう、ありがとう」
「お話は、後で」
私は祈りの言葉を紡いだ。手のひらから光が溢れ、傷が塞がっていく。
「お、おお……傷が」
「閉じております。もう少しだけ、目を閉じていてください」
「あったかい、光だ」
「はい。じっとしていてくださいね」
「聖女様、ありがとうございます!」
歓声。拍手。その瞬間だけ、私は“必要”だった。胸が熱くなった。
——そして、世界が少し暗くなった。
視界の端が欠けて、胃がひっくり返るように痛い。膝が崩れて、床が近づく。マティルダの手が私を支えた。
「聖女様、しっかり」
「……平気、です。少し、ふらついただけ」
「左様でございますね。少しだけ」
その声は優しさじゃない。仕事が倒れるのを止める手つきだった。ヴェルナーは慈しむように目を細めた。
「よく耐えました。あなたの犠牲は尊い」
「……ありがとう、ございます」
尊い。その二文字が、私の痛みを正当化した。
痛みは悪じゃない。痛みは価値。価値があるなら、私は存在していい。
王城へ呼ばれたのは、聖女として名が広がってからだった。
白い広間。金の装飾。甘い香水。王太子セドリック・レイ・ガルディアは、柔らかく微笑んだ。
「リーネ、君は国の宝だ。僕が守るよ」
「もったいない、お言葉でございます」
「いや、本当だ。君がいなくては、ガルディアは立ち行かない」
守る。その言葉は綺麗だった。けれど、彼の視線は私の目ではなく、私の“肩書”に触れていた。
「ありがとうございます、殿下」
「無理はしないで。君が倒れたら、国が困るからね」
「はい、心得ております」
「治癒の数を、もう少し増やせるかい」
「……どれほど、でしょうか」
「週に三日ほど」
「承知、いたしました」
困る——守ると言いながら、彼が守りたいのは国の仕組みだった。
私は、仕組みの部品。壊れたら困る部品。だから大切。だから守る。
「いい子だ。さすが、僕の婚約者だ」
「……はい。大丈夫です」
背筋を伸ばしている限り、倒れない。倒れない限り、迷惑をかけない。
その優しさに、私は頷くしかなかった。
それからの日々は、濃縮された祈りと命だった。
病の流行。魔獣の襲撃。貴族の怪我。民の熱。私は呼ばれて祈った。光を流した。崩れそうになったら立て直した。
「聖女様、本日は六件のご依頼がございます」
「はい、参ります」
「明日は王宮、その次は西の戦線。お休みの時間はございません」
「……はい」
マティルダは私の食事を管理し、睡眠を管理し、会話を管理した。
「聖女様、本日はお魚を残されましたね」
「すみません、少し、喉が」
「お喉も、聖女様のものではございません。民のものです」
「……はい」
「余計なことを考えてはなりません。考えると、力が濁ります」
「分かりました」
“自分のこと”は、いつも余計だった。
痛い。眠い。寒い。怖い。
言うと、空気が止まる。止まると、私が悪い。だから言わない。
「マティルダ様、私、平気ですから」
「左様でございますか。それでこそ聖女様です」
それが、最適解になった。私の喉は、最初にそれを選ぶようになった。
選んでいるつもりで、選ばされているのに。
前の聖女、リアナ様のことを思い出すのは、禁じられていた。
「マティルダ様、前の聖女様は」
「そのお名前を口にしてはいけません」
「でも、私の前任の」
「リーネ様は“次”でございます。前の花を思い出すのは、新しい花の価値を下げます」
「価値、ですか」
「ええ。そういうものです」
そう言われた。私が“次”だから、口にしてはいけない。それが、神殿の決まりだった。
けれど私は、夜になると耳を澄ませた。廊下の向こうで、誰かが咳き込む音。骨の中から削られるような、乾いた咳。
ある晩、私はこっそりと扉を開けた。格子の影を踏まないように歩いた。足音が怖くて、息を殺した。
あの部屋は、閉ざされていたはずなのに、扉が半分だけ開いていた。光が漏れていた。
中には、リアナ様がいた。
細かった。私よりも、ずっと。白い寝台に沈んで、指先だけが布の上に出ていた。その指先が微かに動いて、私を招いた。
「……リーネ?」
声が、糸みたいだった。私は駆け寄りたいのに、足が言うことを聞かなかった。
「リアナ、様」
「来てくれたのね……ふふ、ありがとう」
「あの、お加減は」
「いいの、いいの。気にしないで」
いいわけがなかった。
「聖女様、いけません」
背後から、マティルダの声。いつの間に——彼女の手が私の肩に置かれ、爪が食い込む。痛い。
「平気です……少し、様子を見るだけ」
「いけません。今すぐ、お部屋へ」
「でも」
「リアナ様はもう“済んだ方”です。聖女様には、聖女様のお務めがございます」
リアナ様は、私たちのやりとりを聞きながら、それでも笑おうとした。笑おうとして、咳き込んだ。枕が赤く染まる。私は息を呑んだ。
「リーネ、ちゃん」
「……はい」
「来て、くれたのね」
「もっと、早くに」
「ううん。今でいいの」
「リアナ、様」
「大丈夫……だよ。あなたは、いい子だから」
いい子。その言葉が、私の胸を締め付けた。私が欲しかった言葉。そして、私を縛る言葉。
「無理、しないで……ね」
「リアナ様、あの」
「あなたまで……同じ目に、遭わせたく、ない」
「そんな、おっしゃらないで」
「リーネちゃん。あなたの“大丈夫”は、嘘でしょう」
息が、止まった。
「私の“大丈夫”も、ぜんぶ……嘘だったよ」
「リアナ、様」
「逃げて、ね」
言い終わる前に、リアナ様の目が閉じた。閉じたまま、二度と開かなかった。
その瞬間、部屋の空気が冷たくなった。マティルダは私の肩を掴み、引き剥がした。
「見てはなりません」
「でも……」
「聖女様は次代です。弱さは不要です」
不要。私は唇を噛んだ。そして、喉の奥で、言葉を折った。
「……大丈夫です」
あの夜から、私は“絶対に言う”ようになった。
大丈夫ですと言えば。リアナ様みたいに誰にも迷惑をかけずに消えられる。それが“正しい終わり方”なのだと教え込まれた。
「聖女様の犠牲は、神の御心でございます」
葬儀の壇上で、ヴェルナーは涙を流していた。涙の粒は綺麗だった。彼の声は優しかった。だからこそ、気づけなかった。
その涙が、リアナ様のためではないことに。次の計算をしていることに。“空席”を埋める段取りを、もう終えていることに。
壇を降りた廊下で、彼は私の肩に手を置いて言った。
「リーネ。あなたが第二十一代となります」
「……はい」
「リアナ様の御遺志を継いで、励みなさい」
「謹んで、お受けいたします」
「よろしい。明日から、依頼を倍に増やします」
「……はい。大丈夫です」
私は白い花を手に持ち、頭を下げた。花の匂いが、甘くて、吐き気がした。
その日から、聖癒の依頼は増えた。国は困っていた。だから私が、もっと頑張らなければならなかった。
「リーネ。あなたならできます」
「国のために」
「神のために」
「民のために」
言葉が、私の背中を押す。押すというより、壁に縫い付ける。逃げ道を塞ぐ。
「リーネ、お返事を」
「……はい。問題ありません」
「よろしい。さすが、聖女様」
「明日の朝には、出立できますか」
「はい」
「お身体は」
「……お任せください」
その言葉の裏に、何が隠れているかも、もう分からなかった。
「……あんた、震えてる」
今の声が、思い出の中の声を裂いた。私ははっとして、目を開いた。
空が近い。灰色の雲が流れている。大神殿の天井じゃない。格子もない。風が頬を撫でて、冷たいのに、泣きたくなるほど気持ちよかった。
レオンの腕の中で、私は小さく息を吐いた。
「……私、今、思い出していました」
「何を」
「ぜんぶ、です」
言葉が続かない。続けたら、また“いつもの”を言ってしまう。大丈夫です、と。
それを言ったら、レオンの腕の力が緩む気がした。私が“戻ってしまう”気がした。
「無理に喋るな」
「でも」
「今は、呼吸しろ」
命令みたいで、でも嫌じゃなかった。誰かに“私のため”の指示をされたことが、ほとんどなかったから。
私は頷いて、息を吸った。胸が痛い。身体の奥が、空っぽみたいに冷たい。
それでも——外の空気が入ってくる。
私は生きている。生きて、しまっている。
その事実に、罪悪感が波みたいに押し寄せた。
リアナ様は死んだ。私は生きている。私だけが、外にいる。
「……俺のせいで、怖いか」
レオンの声が、少しだけ揺れた。怖い。怖いのは彼じゃない。怖いのは戻されること。戻ってまた笑って、削って、また——。
「……怖い、です」
「うん」
「戻されたく、ありません」
「戻さない」
「本当に、ですか」
「ああ」
私は正直に言ってしまった。言った瞬間、喉が熱くなった。“正直”は穢れだと教わってきたのに。
レオンは、黙って歩き続けた。そして、短く言った。
「……大丈夫だ。俺がいる」
その声が、鎧の振動を通して、胸に届いた。
守る。あの王太子の言葉と似ているのに、全然違う。
セドリック殿下の“守る”は、宝石箱に鍵をかける音だった。この人の“俺がいる”は——扉を開けたまま、隣に立ってくれる音。私が逃げてもいい場所が、そこにある。
——そう思ってしまって。
胸の奥に溜めていたものが、じわりと溶けた。
「あの」
「ああ」
「私、泣いても、いいですか」
しばらく、沈黙が頬に降りた。
「……好きにしろ」
「いい、ですか」
「ああ。誰も見てない」
「見られたら、駄目ですか」
「俺だけだ。気にするな」
「はい」
“大丈夫です”と言いかけて、言葉を噛み砕いた。代わりに、息を吐いた。
「……すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝るな、と言った」
即答だった。それだけで、涙が滲んだ。
どれくらい歩いたのか分からない。
揺れが変わった。布の匂い。木の匂い。馬のいななき。荷台か馬車か。身体が横たえられて視界が天井に変わった。布が掛けられる。温かい。
「眠れ」
「……はい」
「水は」
「あとで、お願いします」
「分かった」
「あの、レオン、さん」
「ああ」
「ありがとう、ございます」
「謝るな、と言ったろ」
「お礼、です」
「……眠れ」
私は頷いたつもりだった。けれど首が動かない。まぶたが重い。意識が、また沈む。
沈む直前、思った。
“頑張らなければ”が、私の骨になっている。その骨を、外に持ち出してしまった。
この先、私はどうすればいい。頑張らないで生きる方法を私は知らない。知らないままどこへ連れて行かれるの。
その答えを聞く前に、夜が来た。
どこかで、水の音がする。
遠くで、火がはぜる音。人の気配は、少ない。
静寂が、耳の奥でゆっくり鳴っている。
静かすぎて、怖い。私は飛び起きようとして、身体が軋んだ。痛い。
痛いのに——「大丈夫です」が、喉まで来て、止まった。
私は息を吸って、周りを見ようとした。薄暗い天井。知らない木目。窓から、月明かり。
大神殿の金色じゃない。私の部屋の絹でもない。
指先が震える。怖い。でも、怖いのに、胸のどこかが少しだけ軽い。
私は掠れた声で、問いかけた。
「……ここは、どこですか」
近くで、何かが動いた気配がした。
「起きたか」
レオンの声だった。低くて、短くて、もう知っている声。
「ここは、どこ、ですか」
「街道の宿だ。今夜だけ借りた」
「街道の、宿」
「ああ」
「明日、は」
「もう少し、北へ行く」
「北、ですか」
「眠れるなら、もう少し眠れ」
「……はい」
火が、ぱちりと爆ぜた。
## あとがき
歩人です。第二話、お読みいただきありがとうございました。
第一話は「倒れる瞬間」でしたが、第二話は「ここまで凛がどう削られてきたか」の回想に踏み込みました。最も悲しいのは、凛自身が“正しい”と教えられて従っていたこと——大神官の優しい声と、侍女長の冷たい管理と、王太子の空虚な気遣い。三者の言葉はすべて違うのに、行き着く先は同じ「あなたは止まるな」だったのだと、今回書いていて改めて気が遠くなりました。
前聖女リアナ様の最期の「いい子だから」は、凛が一番欲しかった言葉でありながら、凛を縛り続けた呪いでもありました。リアナ様自身も、おそらく同じ呪いを背負ったまま消えていったのだと思います。
それでも凛は今、レオンの腕の中で「怖い」と言えた。たった三文字、けれど神殿の十二年間ぶんの壁を割った三文字です。
次話、凛は知らない部屋で目覚めます。窓の外の空気と、火のはぜる音と、——彼女がまだ知らない、誰かの台所の朝。よろしければ、もう少しだけお付き合いください。




