第1話: 聖女の限界
倒れた凛に向けられた最初の言葉は、「大丈夫ですか」ではなかった。
「——代わりの聖女は?」
大神官ヴェルナーの声が、白い大理石を撫でて落ちてきた。
視界が滲む。
手のひらに、まだ翡翠色の残光がある。生命の温度を切り売りした証だ。指先がぴくりと跳ねて、止まった。
大神殿の広間は、血と消毒液の匂いで満ちていた。
昨夜、王都ルミエールの商業区で魔獣が暴れ、三十人を超える重傷者が運び込まれた。朝の祈り。昼の祈り。夕方の鐘。凛は数えるのをやめてから、もう何時間も担架の列を渡っていた。
「聖女様、次の患者を」
侍女長マティルダの声は、いつも分厚い布越しに届く。
「はい」
「腹部裂傷。出血多量です」
「お続けします」
凛は頷いた。頷いたつもりで、次の担架へと足を運ぶ。床が傾いて見える。
翡翠色の光が手から溢れ、青年の腹を覆った。骨が寄る。筋肉が繋がる。裂けた皮膚が閉じていく。光が一筋走るたびに、凛の内側から温度が一枚ずつ剥がされていった。
息が、できない。
——でも、まだ動ける。
「次は」
「左大腿の骨折と、頭蓋陥没です」
「お続けします」
「聖女様、お顔の色が」
「平気です」
「お休みになっては」
「あと、もう少しだけ」
「聖女様」
「もう少し、です」
凛は微笑んでみせた。前世で何千回も使った、便利な微笑だ。
「次の方を」
「肋骨多発骨折と、内臓損傷でございます」
「重傷ですね」
「はい、最も重い患者です」
「お続けします」
「聖女様、本当に、続けられるのですか」
「続けます」
「お顔が、もう」
「平気です、と申し上げました」
「……かしこまりました」
ふらつく足を、一歩。もう一歩。
ああ、前と同じだ、と思った。
——柊木さん、今日も夜勤お願いできる? 鈴木さんが急に休んじゃって。
——柊木さんって本当に頼りになるよね。いつもありがとう。
——あれ、柊木さん、今日も休憩取ってないの?
大丈夫ですよ、と前世の凛は答えた。
大丈夫ですから、と笑ってみせた。
まだ動けますから——その続きを、何回飲み込んだだろう。
「聖女様!」
マティルダの叫び声で、意識が引き戻される。
いつの間にか、凛は膝をついていた。白い大理石が目の前にある。両の手のひらに、ひやりと冷たい大理石。指の関節が、まだ薄く光っていた。
「……大丈夫、です」
口が勝手に動いた。この言葉だけは、どんなに辛くても出てくる。
「リーネ様、もう限界でございます。お部屋へ——」
「いえ」
凛は床に手をついた。立ち上がろうとする。腕が震える。
「あと、お一人だけなら」
「聖女様」
「お続け、します」
「リーネ様!」
マティルダの声に、初めて狼狽が混じった。
視界がまた、白く滲む。
倒れる、と思った瞬間、肩が大理石にぶつかった。鈍い音がして、頬の片側が冷たい床にぴたりと張り付く。耳のすぐ横を、誰かの足音が走り抜けた。
「聖女様が倒れた! 誰か、誰か——!」
「大神官様をお呼びしろ!」
騒ぎ声が、遠ざかっていく。
遠ざかる音の代わりに、別の声が、はっきりと届いた。
「——代わりの聖女は、いないのか」
ヴェルナー大神官の、慇懃な声だった。
「リーネ様が倒れたのなら、治癒はどうなる」
「まだ患者が残っているのですよ、大神官様」
「神の御心の御業を、止めるわけにはいかぬ」
誰も、凛の名前を呼ばない。
誰も、凛の心配をしない。
彼らにとって凛は「聖女」という機能だった。「リーネ・フォルトゥーナ」でも「柊木凛」でもない、ただの治癒の窓口だった。
ああ、やっぱり、前と同じだ。
前世の記憶が、走馬灯のように流れる。
小児科病棟の白い廊下。子どもたちの笑い声。夜勤明けの、眩しすぎる朝日。
——柊木さんならやってくれる。
——柊木さんは頑張り屋さんだから。
——柊木さん、ありがとう。
ありがとう、ありがとうって、みんな言ってくれた。
だから、嬉しかった。必要とされることが、嬉しかった。休むことができなくなって、休もうとすると胸の奥が痛んで——
二十七歳の冬。夜勤明けの朝。柊木凛は病院の廊下で倒れた。
最期に届いたのは、同僚の慌てた声だった。
——柊木さん! 大丈夫!?
大丈夫です、と答えようとした。喉が動いた。でも、声にならなかった。
ああ、また、と凛は思った。
また「大丈夫」と嘘をつこうとしていた——
「……おい」
低い声が、耳のすぐ近くで響いた。
誰、と凛は思った。
「死ぬな」
短い、低い、命令のような声だった。
次の瞬間、床の冷たさが消えた。代わりに、硬い胸板に頭が寄りかかった。誰かが、凛を抱き上げたのだ。
黒い騎士服。
見上げると、前髪の隙間から灰青色の瞳がのぞいていた。左頬から顎にかけて走る、古い刀傷——
護衛騎士、レオン・アッシュフォード。
長身。鍛えられた体躯。装飾のない実戦仕様の黒い騎士服。感情の読めない目。今まで一度も必要以上に近づいてこなかった人が、凛を、抱いていた。
「レオン、何をする」
マティルダの硬い声。
「連れて行く」
「聖女様はまだ治癒の途中です。患者が——」
「知るか」
レオンの声に、初めて感情が混じった。怒りとも違う、もっと底の方にあるもの。
「こいつは、もう限界だ」
「限界はご本人がお決めになります。あなたは騎士でしょう」
「だから連れて行くんだ」
「ですが——」
「ですが、じゃねえ」
「リーネ様は神に選ばれた——」
「神じゃねえ。あんたたちが選んだだけだ」
「無礼な」
「事実だろ」
「退いてください、護衛騎士。私の聖女様です」
「あんたの所有物じゃねえ」
「……っ」
「退け」
マティルダが息を呑んだ。
レオンが歩き出す。凛を抱えたまま。広間の出口へ向かって。
「待て、護衛騎士! 聖女様を勝手に——」
「うるせえ」
レオンの腕の中で、凛の意識はまた薄れかけていた。けれど、不思議と落ち着いていた。温かい。誰かに守られているという感覚を、凛は前世でも今世でも、初めて知った気がした。
「……どこ、へ」
か細い声で、凛は尋ねた。
レオンは答えない。ただ、凛を抱く腕に、少しだけ力をこめた。
「……こんな場所に、いる必要はない」
ぽつりと、レオンが呟いた。
大神殿の廊下を、レオンは凛を抱えたまま歩いていく。
すれ違う神官たちが、目を丸くしてこちらを見る。
「お、おい、護衛騎士、何を——」
「どけ」
「聖女様、ご無事ですか」
「どけ」
「リーネ様、お顔の色が」
「見ればわかる」
「神官長殿に、報告を——」
「勝手にしろ」
レオンは止まらない。一度も振り返らない。まっすぐに、外へ向かって。
「……あの、レオンさん」
「なんだ」
「殿下が、怒り、ますよ」
形式上の婚約者。王太子セドリック。彼は凛を「国の宝」と呼ぶけれど、その口で凛の名前を呼んだことは、片手で足りる回数しかない。
「構わん」
「大神官様、も……」
「あいつもだ」
「神官の方々、も……」
「全員だ」
大神官ヴェルナー。凛を「神に選ばれた特別な存在」と言い続けた人。その笑顔の奥に何があるのか、凛は知ろうとしてこなかった。知れば、立っていられなくなるとわかっていたから。
「あの、お願いです」
「言え」
「……降ろして、ください」
「断る」
「歩け、ます」
「歩けねえだろ」
「歩けます。本当に、もう少し休めば——」
「リーネ」
レオンが、初めて凛の名を呼んだ。
聖女名の「リーネ」だけ。それでも、初めてだった。
「……はい」
「もう大丈夫って、嘘つくな」
その一言で、喉の奥に押し込んでいたものが、音を立てた。
嘘? 凛が?
——わかってる、と凛は思った。
わかってる。
「大丈夫です」は、嘘だ。
本当は大丈夫じゃない。辛くて、苦しくて、もう限界で——けれど、それを言ったら、必要とされなくなる。捨てられる。前世も、今世も。だから嘘をつく。
まだ動けますと言う。
お続けしますと言う。
ご心配にはおよびませんと笑う。
全部、嘘だ。
本当は——助けて、と言いたかった。
前世でも、今世でも。
一度も、言えなかった。
「……ごめん、なさい」
涙が、零れた。止め方を凛は知らない。レオンの騎士服に、温かい染みが広がっていく。
「謝るな」
レオンの声が、少しだけ柔らかくなった。
「あんたは、何も悪くない」
「……でも、私が、もう少し動けたら」
「動けたら、また倒れるだけだ」
「でも、患者さんが」
「あんたが死んでも、患者は減らねえ」
「……」
「悪いのは……こんな使い方をしてきた、俺たちだ」
「俺たち、って」
「神殿だ。騎士団もだ。俺もだ」
「レオンさんは、何も」
「黙って見てた。それが一番悪い」
レオンの腕が、凛を抱き直す。今度は、もっと丁寧に。さっきまでとは、力の入れ方が違っていた。「運ぶ」腕ではなかった。鎧越しなのに、温かかった。
「もう少しだけ、我慢しろ」
どこへ行くつもりだろう、と凛は思った。
でも、もう、いい。
どこでも、いい。
このまま、ここから——
「待て! レオン・アッシュフォード!」
背後から、威厳のある声が響いた。
大神官ヴェルナーだ。
レオンの足が止まる。けれど、凛を降ろそうとはしない。腕に込められた力が、ほんの一段、強くなった。
「聖女様を、どこへ連れて行くつもりか」
「……」
「答えなさい、護衛騎士」
「……」
「あなたの剣は、神殿の剣ですよ」
「違うな」
「なに?」
「俺の剣は、こいつのためにある」
「聖女様はまだ、治癒の任務の途中だ。民が苦しんでおる。それを見捨てるというのか」
「見捨ててるのは、あんたたちだろ」
レオンの声に、初めて刃が混じった。
「こいつの命を、何だと思ってる」
「聖女様の犠牲は、神の御心——」
「黙れ」
「な、なんだと——」
「神の御心の御業だの、尊い殉教だの。御託はもう、聞き飽きた」
「貴様、誰に向かって——」
「あんただよ、大神官」
レオンの一言が、大神殿の廊下に響いた。
ヴェルナーが、息を呑む。
「これ以上、この聖女を使い潰すってんなら——俺が、あんたたち全員を敵に回す」
誰も、すぐには息をしなかった。
祈りの声も、足音も、白い廊下の奥で凍りついた。
レオンは、凛を抱えたまま、再び歩き出す。今度は誰も止めない。止められない。
回廊を曲がり、また曲がる。祈りの間から遠ざかるたびに、血と消毒液の匂いが薄くなっていった。
レオンは大扉のほうへは向かわなかった。脇廊下を抜けて、使われていない控えの間に滑り込む。
扉が、閉まる。
静かだった。
硬い長椅子の上に、そっと降ろされる。外套が掛けられた。レオンの体温が離れて、凛の身体が急に寒くなった。
「……どこ、へ」
「夜になったら動く」
「行き先、は」
「俺の故郷だ」
「故郷……」
「辺境の村だ。神殿の手は届かん」
「あの、レオン、さん」
「なんだ」
「殿下や、大神官様が、追って来られたら……」
「俺が止める」
「一人で、ですか」
「ああ」
「無茶、です」
「無茶じゃない」
「でも——」
「あんたを連れ戻させる方が、無茶だ」
短い声。けれど、迷いはなかった。
もう、戻れないかもしれない、と凛は思った。
いや——戻りたくない。
初めて、その言葉が胸の内で輪郭を持った。
「……ありがとう、ございます」
小さく、凛は呟いた。
「何が」
「来て、くださって」
「仕事だ」
「仕事、ですか」
「ああ」
「それでも、ありがとう、ございます」
「礼はいらん」
「……言わせて、ください」
「……」
「ずっと、誰かに、言いたかった気がします」
レオンには、聞こえたかどうか、わからない。
けれど、壁にもたれて腕を組んだレオンの横顔が、ほんの少しだけ緩んだ——気がした。
「……レオン、さん」
「なんだ」
「ここに、いて、くれますか」
「ああ」
「ずっと」
「ずっとだ」
意識が、遠のいていく。
今度は、怖くなかった。
レオンの気配が、すぐそばにある。
それだけで——少しだけ、楽になった気がした。
長椅子の縁から、凛の腕が、力なく垂れた。
その手のひらに、まだ翡翠色のかすかな残光が、ちらりと灯っていた。
——切り売りされ続けた、二度目の命の証だった。
はじめまして、歩人と申します。
この物語は、なろうで公開中の『「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました』(n3063218)の全面改訂版です。本文の手触りから組み直しました。原作とは別作品としてお読みいただけたら嬉しいです。
第一話、凛のいちばん深い夜に、レオンの腕が差し込まれるところまでをお届けしました。「大丈夫です」と言わずに生きられる場所はあるのか。次回は、凛が「大丈夫です」という嘘を、いつから自分にもつき始めたのか——回想で辿ります。
毎日十九時更新予定です。「いいね」「ブックマーク」、感想、いつでもお待ちしています。
歩人




