表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話: 聖女の限界

 倒れた凛に向けられた最初の言葉は、「大丈夫ですか」ではなかった。


「——代わりの聖女は?」


 大神官ヴェルナーの声が、白い大理石を撫でて落ちてきた。


 視界が滲む。


 手のひらに、まだ翡翠色ひすいいろの残光がある。生命の温度を切り売りした証だ。指先がぴくりと跳ねて、止まった。




 大神殿の広間は、血と消毒液の匂いで満ちていた。


 昨夜、王都ルミエールの商業区で魔獣まじゅうが暴れ、三十人を超える重傷者が運び込まれた。朝の祈り。昼の祈り。夕方の鐘。凛は数えるのをやめてから、もう何時間も担架の列を渡っていた。


「聖女様、次の患者を」


 侍女長マティルダの声は、いつも分厚い布越しに届く。


「はい」


「腹部裂傷。出血多量です」


「お続けします」


 凛は頷いた。頷いたつもりで、次の担架へと足を運ぶ。床が傾いて見える。


 翡翠色の光が手から溢れ、青年の腹を覆った。骨が寄る。筋肉が繋がる。裂けた皮膚が閉じていく。光が一筋走るたびに、凛の内側から温度が一枚ずつ剥がされていった。


 息が、できない。


 ——でも、まだ動ける。


「次は」


「左大腿の骨折と、頭蓋陥没です」


「お続けします」


「聖女様、お顔の色が」


「平気です」


「お休みになっては」


「あと、もう少しだけ」


「聖女様」


「もう少し、です」


 凛は微笑んでみせた。前世で何千回も使った、便利な微笑だ。


「次の方を」


「肋骨多発骨折と、内臓損傷でございます」


「重傷ですね」


「はい、最も重い患者です」


「お続けします」


「聖女様、本当に、続けられるのですか」


「続けます」


「お顔が、もう」


「平気です、と申し上げました」


「……かしこまりました」


 ふらつく足を、一歩。もう一歩。


 ああ、前と同じだ、と思った。




 ——柊木さん、今日も夜勤お願いできる? 鈴木さんが急に休んじゃって。


 ——柊木さんって本当に頼りになるよね。いつもありがとう。


 ——あれ、柊木さん、今日も休憩取ってないの?


 大丈夫ですよ、と前世の凛は答えた。


 大丈夫ですから、と笑ってみせた。


 まだ動けますから——その続きを、何回飲み込んだだろう。




「聖女様!」


 マティルダの叫び声で、意識が引き戻される。


 いつの間にか、凛は膝をついていた。白い大理石が目の前にある。両の手のひらに、ひやりと冷たい大理石。指の関節が、まだ薄く光っていた。


「……大丈夫、です」


 口が勝手に動いた。この言葉だけは、どんなに辛くても出てくる。


「リーネ様、もう限界でございます。お部屋へ——」


「いえ」


 凛は床に手をついた。立ち上がろうとする。腕が震える。


「あと、お一人だけなら」


「聖女様」


「お続け、します」


「リーネ様!」


 マティルダの声に、初めて狼狽が混じった。


 視界がまた、白く滲む。


 倒れる、と思った瞬間、肩が大理石にぶつかった。鈍い音がして、頬の片側が冷たい床にぴたりと張り付く。耳のすぐ横を、誰かの足音が走り抜けた。


「聖女様が倒れた! 誰か、誰か——!」


「大神官様をお呼びしろ!」


 騒ぎ声が、遠ざかっていく。


 遠ざかる音の代わりに、別の声が、はっきりと届いた。


「——代わりの聖女は、いないのか」


 ヴェルナー大神官の、慇懃な声だった。


「リーネ様が倒れたのなら、治癒はどうなる」


「まだ患者が残っているのですよ、大神官様」


「神の御心の御業を、止めるわけにはいかぬ」


 誰も、凛の名前を呼ばない。


 誰も、凛の心配をしない。


 彼らにとって凛は「聖女」という機能だった。「リーネ・フォルトゥーナ」でも「柊木ひいらぎりん」でもない、ただの治癒の窓口だった。


 ああ、やっぱり、前と同じだ。




 前世の記憶が、走馬灯のように流れる。


 小児科病棟の白い廊下。子どもたちの笑い声。夜勤明けの、眩しすぎる朝日。


 ——柊木さんならやってくれる。


 ——柊木さんは頑張り屋さんだから。


 ——柊木さん、ありがとう。


 ありがとう、ありがとうって、みんな言ってくれた。


 だから、嬉しかった。必要とされることが、嬉しかった。休むことができなくなって、休もうとすると胸の奥が痛んで——


 二十七歳の冬。夜勤明けの朝。柊木凛は病院の廊下で倒れた。


 最期に届いたのは、同僚の慌てた声だった。


 ——柊木さん! 大丈夫!?


 大丈夫です、と答えようとした。喉が動いた。でも、声にならなかった。


 ああ、また、と凛は思った。


 また「大丈夫」と嘘をつこうとしていた——




「……おい」


 低い声が、耳のすぐ近くで響いた。


 誰、と凛は思った。


「死ぬな」


 短い、低い、命令のような声だった。


 次の瞬間、床の冷たさが消えた。代わりに、硬い胸板に頭が寄りかかった。誰かが、凛を抱き上げたのだ。


 黒い騎士服。


 見上げると、前髪の隙間から灰青色はいあおいろの瞳がのぞいていた。左頬から顎にかけて走る、古い刀傷——


 護衛騎士、レオン・アッシュフォード。


 長身。鍛えられた体躯。装飾のない実戦仕様の黒い騎士服。感情の読めない目。今まで一度も必要以上に近づいてこなかった人が、凛を、抱いていた。


「レオン、何をする」


 マティルダの硬い声。


「連れて行く」


「聖女様はまだ治癒の途中です。患者が——」


「知るか」


 レオンの声に、初めて感情が混じった。怒りとも違う、もっと底の方にあるもの。


「こいつは、もう限界だ」


「限界はご本人がお決めになります。あなたは騎士でしょう」


「だから連れて行くんだ」


「ですが——」


「ですが、じゃねえ」


「リーネ様は神に選ばれた——」


「神じゃねえ。あんたたちが選んだだけだ」


「無礼な」


「事実だろ」


「退いてください、護衛騎士。私の聖女様です」


「あんたの所有物じゃねえ」


「……っ」


「退け」


 マティルダが息を呑んだ。


 レオンが歩き出す。凛を抱えたまま。広間の出口へ向かって。


「待て、護衛騎士! 聖女様を勝手に——」


「うるせえ」


 レオンの腕の中で、凛の意識はまた薄れかけていた。けれど、不思議と落ち着いていた。温かい。誰かに守られているという感覚を、凛は前世でも今世でも、初めて知った気がした。


「……どこ、へ」


 か細い声で、凛は尋ねた。


 レオンは答えない。ただ、凛を抱く腕に、少しだけ力をこめた。


「……こんな場所に、いる必要はない」


 ぽつりと、レオンが呟いた。




 大神殿の廊下を、レオンは凛を抱えたまま歩いていく。


 すれ違う神官たちが、目を丸くしてこちらを見る。


「お、おい、護衛騎士、何を——」


「どけ」


「聖女様、ご無事ですか」


「どけ」


「リーネ様、お顔の色が」


「見ればわかる」


「神官長殿に、報告を——」


「勝手にしろ」


 レオンは止まらない。一度も振り返らない。まっすぐに、外へ向かって。


「……あの、レオンさん」


「なんだ」


「殿下が、怒り、ますよ」


 形式上の婚約者。王太子セドリック。彼は凛を「国の宝」と呼ぶけれど、その口で凛の名前を呼んだことは、片手で足りる回数しかない。


「構わん」


「大神官様、も……」


「あいつもだ」


「神官の方々、も……」


「全員だ」


 大神官ヴェルナー。凛を「神に選ばれた特別な存在」と言い続けた人。その笑顔の奥に何があるのか、凛は知ろうとしてこなかった。知れば、立っていられなくなるとわかっていたから。


「あの、お願いです」


「言え」


「……降ろして、ください」


「断る」


「歩け、ます」


「歩けねえだろ」


「歩けます。本当に、もう少し休めば——」


「リーネ」


 レオンが、初めて凛の名を呼んだ。


 聖女名の「リーネ」だけ。それでも、初めてだった。


「……はい」


「もう大丈夫って、嘘つくな」


 その一言で、喉の奥に押し込んでいたものが、音を立てた。


 嘘? 凛が?


 ——わかってる、と凛は思った。


 わかってる。


 「大丈夫です」は、嘘だ。


 本当は大丈夫じゃない。辛くて、苦しくて、もう限界で——けれど、それを言ったら、必要とされなくなる。捨てられる。前世も、今世も。だから嘘をつく。


 まだ動けますと言う。


 お続けしますと言う。


 ご心配にはおよびませんと笑う。


 全部、嘘だ。


 本当は——助けて、と言いたかった。


 前世でも、今世でも。


 一度も、言えなかった。


「……ごめん、なさい」


 涙が、零れた。止め方を凛は知らない。レオンの騎士服に、温かい染みが広がっていく。


「謝るな」


 レオンの声が、少しだけ柔らかくなった。


「あんたは、何も悪くない」


「……でも、私が、もう少し動けたら」


「動けたら、また倒れるだけだ」


「でも、患者さんが」


「あんたが死んでも、患者は減らねえ」


「……」


「悪いのは……こんな使い方をしてきた、俺たちだ」


「俺たち、って」


「神殿だ。騎士団もだ。俺もだ」


「レオンさんは、何も」


「黙って見てた。それが一番悪い」


 レオンの腕が、凛を抱き直す。今度は、もっと丁寧に。さっきまでとは、力の入れ方が違っていた。「運ぶ」腕ではなかった。鎧越しなのに、温かかった。


「もう少しだけ、我慢しろ」


 どこへ行くつもりだろう、と凛は思った。


 でも、もう、いい。


 どこでも、いい。


 このまま、ここから——




「待て! レオン・アッシュフォード!」


 背後から、威厳のある声が響いた。


 大神官ヴェルナーだ。


 レオンの足が止まる。けれど、凛を降ろそうとはしない。腕に込められた力が、ほんの一段、強くなった。


「聖女様を、どこへ連れて行くつもりか」


「……」


「答えなさい、護衛騎士」


「……」


「あなたの剣は、神殿の剣ですよ」


「違うな」


「なに?」


「俺の剣は、こいつのためにある」


「聖女様はまだ、治癒の任務の途中だ。民が苦しんでおる。それを見捨てるというのか」


「見捨ててるのは、あんたたちだろ」


 レオンの声に、初めて刃が混じった。


「こいつの命を、何だと思ってる」


「聖女様の犠牲は、神の御心——」


「黙れ」


「な、なんだと——」


「神の御心の御業だの、尊い殉教だの。御託はもう、聞き飽きた」


「貴様、誰に向かって——」


「あんただよ、大神官」


 レオンの一言が、大神殿の廊下に響いた。


 ヴェルナーが、息を呑む。


「これ以上、この聖女を使い潰すってんなら——俺が、あんたたち全員を敵に回す」


 誰も、すぐには息をしなかった。


 祈りの声も、足音も、白い廊下の奥で凍りついた。


 レオンは、凛を抱えたまま、再び歩き出す。今度は誰も止めない。止められない。


 回廊を曲がり、また曲がる。祈りの間から遠ざかるたびに、血と消毒液の匂いが薄くなっていった。


 レオンは大扉のほうへは向かわなかった。脇廊下を抜けて、使われていない控えの間に滑り込む。


 扉が、閉まる。


 静かだった。


 硬い長椅子の上に、そっと降ろされる。外套が掛けられた。レオンの体温が離れて、凛の身体が急に寒くなった。


「……どこ、へ」


「夜になったら動く」


「行き先、は」


「俺の故郷だ」


「故郷……」


「辺境の村だ。神殿の手は届かん」


「あの、レオン、さん」


「なんだ」


「殿下や、大神官様が、追って来られたら……」


「俺が止める」


「一人で、ですか」


「ああ」


「無茶、です」


「無茶じゃない」


「でも——」


「あんたを連れ戻させる方が、無茶だ」


 短い声。けれど、迷いはなかった。


 もう、戻れないかもしれない、と凛は思った。


 いや——戻りたくない。


 初めて、その言葉が胸の内で輪郭を持った。


「……ありがとう、ございます」


 小さく、凛は呟いた。


「何が」


「来て、くださって」


「仕事だ」


「仕事、ですか」


「ああ」


「それでも、ありがとう、ございます」


「礼はいらん」


「……言わせて、ください」


「……」


「ずっと、誰かに、言いたかった気がします」


 レオンには、聞こえたかどうか、わからない。


 けれど、壁にもたれて腕を組んだレオンの横顔が、ほんの少しだけ緩んだ——気がした。


「……レオン、さん」


「なんだ」


「ここに、いて、くれますか」


「ああ」


「ずっと」


「ずっとだ」


 意識が、遠のいていく。


 今度は、怖くなかった。


 レオンの気配が、すぐそばにある。


 それだけで——少しだけ、楽になった気がした。


 長椅子の縁から、凛の腕が、力なく垂れた。


 その手のひらに、まだ翡翠色のかすかな残光が、ちらりと灯っていた。


 ——切り売りされ続けた、二度目の命の証だった。



はじめまして、歩人あゆとと申します。


 この物語は、なろうで公開中の『「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました』(n3063218)の全面改訂版です。本文の手触りから組み直しました。原作とは別作品としてお読みいただけたら嬉しいです。


 第一話、凛のいちばん深い夜に、レオンの腕が差し込まれるところまでをお届けしました。「大丈夫です」と言わずに生きられる場所はあるのか。次回は、凛が「大丈夫です」という嘘を、いつから自分にもつき始めたのか——回想で辿ります。


 毎日十九時更新予定です。「いいね」「ブックマーク」、感想、いつでもお待ちしています。


 歩人

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ