第7話 鍛冶屋も知らない、リシアの腕の銀の印
クロフト工房は朝から忙しかった。ミーナが赤く熱した金具を水へ落とすと、白い湯気が立ち上がり、工房の奥まで広がっていく。レインは彼女の仕事がひと段落するまで、入口の外で待っていた。
「今日は何。昨日の金具が壊れた?」
「いや。採石場で拾った金属を見てほしいのと、小刀のことで少し聞きたい」
レインが紙包みを差し出すと、ミーナは金属の粒を指先で確かめた。
「これは鉄じゃないね。銀にも似てるけど、普通の銀より固い。どこで採ったの?」
「採石場の古い坑道。鉄喰いが出た場所だよ」
「魔物の腹から出たものかもしれない。屑の中に別の鉱石が混じってたんだろう」
ミーナは小さな皿に粒を入れ、炭の火にかざした。しばらくしても色は変わらず、熱に反応しない。
「材料としては珍しいけど、これだけじゃ何とも言えない。小刀と同じ成分かどうかは、比べてみなきゃ分からないね」
工房の棚には、修理を待つ農具と旅人の短剣が並んでいた。ミーナが使っていた秤の片側には小さな重りが載り、もう片側では金属片がかすかに揺れている。レインは、それを何のために量っているのか尋ねた。
「重さの違いを見るんだよ。同じ大きさに削っても、材質が違えば重さが変わる。もちろん、それだけで種類は決められないけどね」
「じゃあ採石場の粒が、小刀と同じ材料かどうかも?」
「形も大きさも違うんだから、そんな簡単には分からない。細工師が残した癖の方が手掛かりになることもあるよ」
工房の外では、荷馬車を押す職人が一度立ち止まり、通りすがりの子どもに道を譲っていた。レインはその様子を見て、前のパーティではいつも出発の時間ばかり気にしていたと思い出す。今は急がせる人がいない。調査に時間をかけられること自体が、少し不思議だった。
ミーナは仕事台の端から傷のついた皿を取り、そこに銀色の粒を一つ載せた。火箸でつまんで加熱する間、リシアは入口の方へ顔を向けていた。往来の馬車が石畳を走る音がして、そのたび彼女の肩が少し強張る。レインは声をかけようとしたが、彼女が自分で窓際から離れたので、何も言わなかった。
「採石場では、怖い思いをしただろう」
レインが火の様子を見ながら言うと、リシアは少しだけ笑った。
「怖かったです。でも、何をしたらいいか分かった時は、考えるより先に体が動きました。剣を持つ時もそうです」
「記憶がなくても、体が覚えていることはあるんだな」
「便利なことばかりじゃありません。誰に教わったのかも分からないのは、変な気分です」
レインは気軽な励ましを言いかけてやめた。思い出せないものを、必ず思い出せると約束することはできない。その代わりに、ミーナへ尋ねた。
「古い工房を探すなら、どこから調べたらいい?」
「市の台帳かな。工房を閉めても、納めた税金や製品の印が残ってることはある。今日の材料調べで答えが出なくても、次に行く場所はあるよ」
レインは帳面の空いている頁にその言葉を書いた。分からないことを書き留めるのは、荷物持ちの仕事をしていた頃からの癖だった。ただ、今は誰かに命じられているわけではない。自分で選んだ調査のために、次に必要なことを控えている。
レインはギルドから持参した小刀を取り出した。今回も保管記録に署名し、調査目的と返却予定時刻を確認してある。ミーナは刃を光に透かした後、柄の銀飾りへ目を向けた。
「銀色のところ、細い線が幾つも入ってるでしょう。飾りじゃなくて、継ぎ目を埋めた跡だよ」
「何度も修理されている?」
「そうかもしれない。けど、その割には刃の傷みが少ないんだよね」
リシアは黙って小刀を見ていた。ミーナが試しに金属の粒を柄の近くへ置くと、彼女の肩がわずかに揺れた。
「どうした?」
「いえ。ちょっと、寒気がしただけです」
リシアは右腕で左袖を押さえた。顔色が悪くなっている。レインは火のそばから離れるよう促し、椅子を借りた。
「今日はもう切り上げようか」
「大丈夫です。少し休めば」
ミーナが水を持ってきた時、リシアの左袖の隙間から、薄い銀色の線が覗いた。
「その腕、見せてもらっていい?」
リシアは反射的に袖を下ろした。ミーナはすぐ手を引く。
「無理にとは言わない。けど、いま光ったのが金属の粉じゃなく、あんたの腕だった気がして」
レインは二人の顔を見比べた。リシアの右手は袖を強く握っている。
「今は見せなくてもいいよ。気になるなら医者へ相談しよう」
「……レインさんには、昨日見られたと思います」
「傷の跡みたいなものがあるのは見た。でも、詳しくは分からなかった」
リシアはしばらく迷った末、袖を肘の少し上までまくった。包帯とは別の位置に、細い銀線が輪を描いている。刺青にも古い傷にも見えるが、線の端に小さな切れ目があった。
「私も、いつからあるのか覚えていません」
ミーナは触れずに目を凝らした。
「少なくとも、私が知っている焼き印とは違うね。皮膚が盛り上がってないし、色が皮膚の下にあるように見える。治療師に見せた?」
「左腕のけがを診てもらった時には、何も言われませんでした」
「なら、まず専門家だね。私には刃物のことしか分からない」
ミーナのきっぱりした答えに、リシアは少し安心したようだった。気味悪がられると思っていたのかもしれない。
レインは銀の線の形を帳面に写そうとしたが、本人に許可を取るまで筆を止めた。
「形だけ記録していいかな。小刀の印と関係があるかもしれないから」
「はい。ただ……人には、あまり見せないでください」
「分かった。君の許可なく話したりしない」
書き写してみると、銀の線には小刀の星印と似た切れ込みがあった。正確に同じかどうかは分からない。レインは似ているとだけ書き、断定は避けた。
ミーナは肘掛けのない椅子をリシアへ寄せ、窓から射す光の下で腕の印を確かめた。鍛冶職人としての好奇心は抑えきれないようだったが、触れようとはしない。
「小刀の印と似ているからって、同じ人が付けたとは限らないよ。丸に切れ目を入れる飾りは、昔からあるからね」
「それでも調べてみたいです」とリシアが言った。
「自分のことだものね。分かるよ。でも、痛むようならやめな。金属なら叩いて確かめられるけど、人の腕はそうはいかない」
その言い方に、リシアは口元を緩めた。レインも釣られて笑う。ミーナは不思議そうに二人を見比べ、また作業台を片づけ始めた。
小刀はレインの私物ではない。ギルドの管理品を調査のために預かっているだけだ。刻印の形を写すことはできても、勝手に削ったり、刃を折って材質を調べたりはできない。ミーナはその事情を聞くと、試すつもりで用意した砥石を棚へ戻した。
「持ち主探しをしてるのに、壊しちゃ本末転倒だからね。今日は見たままで記録しよう」
レインは頷き、紙に二つの図を並べた。小刀の刻印とリシアの腕の線は確かによく似ている。しかし、柄の模様には三本の短い線があり、腕の方は二本に見えた。光の加減かもしれないし、まったく別の模様なのかもしれない。分からないうちは分からないまま残す。それが、この先誰かに尋ねる時にも役に立つはずだった。
その後、三人で市の古い工房記録を調べた。鋳造所の台帳には、かつて特殊な合金を扱っていた記録がある。だが、星の一角が欠けた印は見つからなかった。
「これだけ古いと、持ち主を探すより作った人を探す方が難しいかもね」とミーナが言う。
「それでも、少しずつ分かってきてる。最初はどこの品かすら分からなかったんだから」
レインが答えると、リシアは袖を下ろしながら頷いた。
帰り際、ミーナが小さな紙片を渡してきた。東門の治療院にいる年配の治療師の名前だ。
「昔、工房で金属による皮膚の異変を診たことがある人。腕を見せる気になったら行ってみなよ」
「ありがとうございます」とリシアが言った。
「礼はまだ早いよ。分かることがあるかどうかも知らないんだから」
口調は相変わらず強い。それでも紙に書かれた場所は丁寧で、迷わないよう目印まで添えてあった。
古い台帳を持っていた事務員は、工房名の読み方が時代によって違うことを教えてくれた。似た印を使う工房が二つ見つかったが、どちらも今は営業していない。住所が移転前の街区名で記されているため、現在の地図だけでは場所も特定できなかった。
「今日はそこまでにしましょう。私のことを調べてもらっているのに、時間ばかり使わせています」とリシアが言った。
「俺も知りたいから調べてるんだよ。それに、何も分からなかったわけじゃない。古い名前を探せばいいと分かった」
「前向きですね」
「荷物の中から必要な物を見つける仕事を長くやってたからかな。ないと思っても、箱の底から出てくることがある」
「それ、探すのが下手だっただけでは?」
ミーナが横から口を挟んだので、レインは言い返せなかった。リシアは声を立てて笑い、慌てて口元を押さえた。レインはその笑顔を見て、今日の調査が無駄ではなかったと感じた。
工房を出ると、街では昼の鐘が鳴っていた。リシアは少し遠くを見るようにして言った。
「私、ここへ来る前のことを思い出そうとすると、頭が痛くなるんです。でも、さっきの印を見ても、怖いとは思いませんでした」
「じゃあ、急がなくていい。痛くなるほど思い出す必要はないよ」
「……はい」
レインは小刀の包みを抱え直した。まだ誰の持ち物なのかは分からない。だから《返却》は使えない。それを不便だと思ったこともあったが、今はむしろ良かったのかもしれない。事情を知らないまま物を動かしてしまえば、彼女が自分で確かめる機会まで奪うところだった。
ギルドへ戻ると、受付係が珍しく慌てた様子で近づいてきた。
「レインさん、採石場の件で評判を聞いた商人から依頼が来ています。荷車が一台盗まれたそうです」
「荷車?」
「中に商品が積まれたままで、しかも、目撃した人の話では途中で人が乗っていたとか」
レインは眉を寄せた。盗品を返すだけなら話は早いが、人を乗せたまま車を動かすわけにはいかない。依頼書を受け取り、まず荷車の所在と持ち主の証明を確認することにした。




