第8話 盗まれた荷車を取り戻すには、中の人を降ろさなければ
盗まれた荷車の持ち主は、穀物商のオルドという男だった。ギルドの相談室へ入ってきた彼は、帽子を両手で握り、ひどく疲れた顔をしていた。
「夜明け前に納屋から一台なくなっていたんだ。車輪の右側に、うちの店の印が入っている。町の南で見たって人もいる」
「荷物は何を積んでいましたか」
「豆の袋が二十。あと空の樽が三つ。荷車だけでも高いのに、中身まで持っていかれたら商売が立たなくなる」
レインは購入時の証書を確認し、荷車の形と塗装を帳面に記した。印があれば本人の所有物かどうかを判断する助けになるが、それだけでは他人の車と見間違うこともある。
「目撃した人がいる場所へ行きましょう。ただ、荷車に誰か乗っていたという話が気になります」
「そいつらも盗人に決まってるだろ」
「そうとは限りません。荷台に人がいるなら、急に動かすと危ないので」
オルドは苛立ちながらも頷いた。レインはリシアを同行させるか迷ったが、彼女が自分から、車を探すだけなら手伝いたいと申し出た。
「危険そうなら引き返す。約束できる?」
「はい。昨日のこともありますから」
出発前にレインはギルドの受付で、依頼にどこまでの権限があるのか確かめた。物を探す仕事と、犯人を捕らえる仕事は違う。たとえ盗難が事実でも、レインが勝手に人を縛るわけにはいかない。受付係は警備員への連絡先を紙に書き、危険を感じたら調査を打ち切ってよいと念を押した。
「これまで荷物の管理を任されていたので、品物の特徴を確かめるのは得意です。でも人を相手にするなら別ですね」
「そう言ってくれると安心です。今回は荷車の発見と持ち主への連絡が第一ですから」
外へ出ると、リシアは小さな包みを差し出した。昼に食べるためのパンが二つ入っている。
「朝、宿のおかみさんが安く分けてくれました。仕事の途中でお腹が空いたら困ると思って」
「助かる。でも、代金は半分出すよ」
「昨日のお給金がありますから、今日は私が出します」
リシアが少し得意げに胸を張ったので、レインは素直に礼を言った。採石場から戻った夜、初めて稼いだ硬貨を何度も数えていた姿を思い出す。彼女にとって、この買い物も大切な一歩なのだろう。
二人は南の市場へ向かった。荷車の車輪跡は朝の人混みで消えていたが、オルドの車は右の車輪がわずかに歪んでいて、走ると特徴的な音が出るという。
その音を手掛かりに聞き込みをすると、街外れの製粉所へ向かった車を見たという老女がいた。
「ガタ、ガタって二回ずつ鳴るやつだろ。男が一人で押してたよ。荷台には布をかぶせてあった」
「人が乗っていたと聞いたんですが」
「それは知らないね。けど布の下が動いていたようには見えたよ」
レインは礼を言い、製粉所へ向かった。途中、リシアが話しかけてきた。
「盗んだ人がまだ車に乗っていたら、どうしますか」
「まず降りてもらう。暴れるなら警備員を呼ぶ」
「《返却》を使えば、取り戻せるんですよね」
レインは以前から、持ち主を確認できなければスキルは使えないと説明していた。だが、荷車ほど大きな物まで動かせるのかは、リシアにも分からないらしい。
「車は重すぎるし、積み荷や人をどう扱うかも分からない。いきなり使うつもりはないよ」
「万能というわけじゃないんですね」
「そう。地味な能力なんだ」
「地味でも、助かった人がいるなら十分だと思います」
リシアはまっすぐ言った。褒められ慣れていないレインは、返事を探しているうちに製粉所へ着いてしまった。
製粉所の敷地には小麦の粉が薄く積もり、荷を運ぶ人々が忙しく行き来していた。敷地の中まで踏み込む前に、レインは入口の見張りへ用件を伝えた。見張りは不審そうにしたが、ギルドの依頼書を見せると親方を呼ぶと言ってくれた。
「荷車がここへ入ったことは分かるんですね」
「見張りの人は知らないと言っていました。裏口から来たのかもしれません」
リシアは地面についた車輪の跡を見ていた。二本の溝のうち、右側が時々大きく曲がっている。オルドが話していた歪んだ車輪の特徴と似ているが、荷車を見つけるまでは断定できない。レインは跡を追って裏へ回ると、建物の陰で足を止めた。
「いたとしても、すぐに声を荒らげないでくれ。人が乗っていたなら、まず安全を確かめたい」
「分かりました。私も剣は抜きません」
リシアが腰の剣に目を落とす。本人は用心しているつもりだろうが、レインは剣を握る手に力が入りすぎていないかを確かめた。彼女は少し肩を落とし、手を離す。
裏の小屋に、見覚えのある紺色の荷車があった。右車輪の縁には白い傷があり、店の印も残っている。オルドの証書に描かれた特徴と一致した。
「荷車を探しているんです」とレインが声をかけると、小屋から若い男が現れた。顔には疲れがあり、袖は粉で白くなっている。
「何の用だ」
「その車、穀物商オルドさんの物ではありませんか」
男は身構えた。リシアは一歩後ろへ下がり、表情を変えずに相手の手元を見ている。
「車は借りたんだ。返すつもりだった」
「持ち主は盗まれたと言っています。本人と一緒に確認してもらえますか」
「だめだ。今は動かせない」
男が荷台の布に目を向けた。レインはそこに人がいるのだと気づいた。
「誰か乗っているんですか」
「妹だ。熱が高い。医者へ運ぼうと思ったんだ」
布をめくると、小柄な少女が横になっていた。額には汗が浮かび、呼吸が荒い。
「どうして救護所へ頼まなかったんですか」
「金がない。橋の通行料も払えなかった。こっちへ来れば、製粉所の親方が手伝ってくれると思ったんだ」
レインはすぐに叱る言葉を飲み込んだ。勝手に荷車を持ち出したのはよくない。けれど、まずは少女を診てもらう必要がある。
「俺が医者を呼んでくる。リシアはここで様子を見てくれる?」
「分かりました。水を飲ませて大丈夫か、確認してみます」
レインは製粉所の親方に事情を説明し、近くの治療院へ走った。しばらくして戻ると、リシアが少女のそばに座り、男へ落ち着いた声で話しかけていた。
「呼吸が少し楽になりました。先生が来るまで動かさない方がいいそうです」
治療師は少女を診察し、高熱の原因は肺の炎症だと説明した。処置のためには治療院へ運ぶ必要があるが、荷車を使っても揺れで悪化するおそれがあった。そこで製粉所から担架を借り、四人で交代しながら運ぶことになった。
治療院までの道は平坦ではなかった。担架の前を運ぶ親方が石畳の継ぎ目を避け、後ろに回ったレインが歩幅を合わせる。リシアは先回りして人通りの多い角を空けてもらった。少女の兄は担架の横を歩きながら、何度も妹の名を呼んでいた。
「声は届いているよ。今は揺らさないことを考えよう」と治療師が言う。
治療院に着くと、兄は妹の寝台から離れようとしなかった。レインは治療師から容体の説明を受け、薬代については勝手に引き受けられないと判断した。自分にも店を借りるための貯えが必要だ。それでも、ギルドで利用できる救護制度を知っていたので、兄に窓口を教えた。
「助けてくれたのに、こんなことまで……」
「妹さんが落ち着くのが先です。でも荷車の件は、別に話をしないといけません」
兄の表情が硬くなったが、レインは言葉を続けた。
「事情があっても、他人の荷物を無断で持ち出したことは消えません。俺が全部なかったことにはできない。持ち主と警備員に説明してください」
男はしばらく口を閉じていた。やがて寝台の妹を見て、ゆっくり頷いた。
少女が安全に移された後、レインは若い男に向き直った。
「車を持っていく前に、持ち主へ頼むべきだったと思う」
「断られるに決まってる」
「断られるかどうかは、聞いてからじゃないと分からない」
男はうつむいた。レインはオルドを呼び、事情を説明した。商人は真っ赤になって怒ったが、少女が治療院に運ばれたことを知ると少し声を落とした。
「だからって、勝手にうちの車を使っていいわけじゃない」
「その通りです。盗難の扱いは警備員に判断してもらいましょう。車と積み荷は確認して、引き渡します」
車は自分たちで元の場所へ押して戻すことになった。レインは《返却》を使わなかった。荷物が載った大きな車を無理に動かす危険があり、そもそもすでに持ち主がその場にいる。能力を使う必要がない。
オルドは豆の袋を数え、樽も確かめた。中身がいくつか減っていたが、男は妹のために豆を煮たのだと説明した。レインは事実だけを帳面に記し、処分については当事者と警備員に任せた。
「もっと早く見つかると思ったのに、ずいぶん手間がかかったな」
オルドは苦笑した。
「手間がかかっても、荷車が戻ったなら依頼は終わりです」
「そうだな。礼は払う。あの兄妹のことは……うちの店でも少し考えるよ」
リシアはその言葉を聞いて、肩の力を抜いた。
オルドとの話し合いは簡単には終わらなかった。車の右輪には新しい傷があり、豆の袋も二つ破れていた。兄は修理代と減った分の代金を少しずつ払うと申し出たが、金額の見当がつかず、オルドは眉をひそめた。レインは仲裁を買って出そうとして、すぐに思い直した。商売の損を負った人の気持ちを、外から簡単に決めてはいけない。
「修理の見積もりなら、車輪職人に出してもらった方が公平です」
レインの提案に、オルドは少し考えてから頷いた。
「分かった。損を全部許すとは言わん。ただ、病人の妹まで責めるつもりはない」
兄は頭を下げた。オルドもすぐには笑わなかったが、表情はわずかに和らいだ。
帰り道、リシアがぽつりと言った。
「《返却》の出番は、ありませんでしたね」
「うん。でも仕事が失敗だったとは思わないよ」
「私もです。荷車が戻ったのに、それだけじゃ終わらないんですね」
「人の暮らしが関わると、品物だけ動かしても片づかないことがある」
リシアはその言葉を何度か口の中で繰り返し、やがて歩調を合わせてきた。レインも、自分の力の使い方を前より少し分かった気がした。
ギルドへ戻ると、依頼は正式に完了となった。ただ、レインは帳面に「能力未使用」と書き添えた。
「今日みたいな依頼では、力を使わずに済む方がいいんですね」とリシアが言う。
「使うかどうかも、俺が決めていいからね」
彼女はしばらくその言葉を考え、それから頷いた。
夕方、少女を診ていた治療師から連絡が届いた。容体は落ち着き、兄もそばで付き添っているという。レインは安心したが、まだ疑問が残った。あの男はなぜ製粉所へ向かったのか。話していないことがあるのかもしれない。
それでも、今は知る必要がないことまで追いかけない。依頼は終わったのだ。
ギルドの掲示板に、自分の名前が書かれた仕事の完了記録が二枚並んでいるのを見つけた時、レインは小さな達成感を覚えた。




