第4話 銀の小刀の刻印を知る鍛冶屋
翌朝、レインはいつもより早く目を覚ました。窓の外では市場へ向かう荷車が石畳を鳴らしている。暁の剣にいた頃なら、仲間の朝食を確保して水筒を洗う時間だった。今日は誰の支度も頼まれていない。それなのに寝坊できないのは、長年の習慣というものだろう。
宿の一階で朝食を済ませ、ギルドへ向かう前に靴屋へ寄った。昨夜確かめた靴底の亀裂は、思ったより深い。
「このまま採石場まで歩いたら、帰りは裸足になるぞ」
靴屋の老人はそう言って、二日あれば直せると教えてくれた。レインは代わりの古い靴を借り、修理代を帳面に記す。仕事を始める前から出費が増えるのは痛かったが、足を傷めればもっと高くつく。
靴の修理を頼んだ後、レインは店先でしばらく足を止めた。背の低い棚に、子ども用の革靴が並んでいたからだ。彼が師匠のところへ引き取られた頃、最初に渡されたのも新品ではなく、誰かが履き古した靴だった。師匠はその靴底を剥がして縫い直し、紐を替えた。
「新品が買えないのと、古い物を使えないのは別の話だ」
その時は単に節約家だと思っていたが、今なら少し分かる。道具を手入れするのは、金の問題だけではない。どの部分が傷み、次に何を交換すればいいかを知ることでもある。
いずれ開きたい店には、立派な装飾はいらない。客が使い続けられるよう、直せる物は直す。そんな店であればいいとレインは考えていた。ただ、現実には靴一足の修理代も痛い。昨夜、所持金を数えた時に思ったほど余裕がないことは、帳面の数字が示していた。
ギルドへ向かう足は自然と速くなった。調査の依頼に使える日数も、無制限ではなかった。
ギルドではリシアが保護室の前に立っていた。左腕には昨日より薄い包帯が巻かれている。
「おはようございます。医者の先生に、街を歩く程度なら構わないと言われました」
「よかった。ただし、痛くなったらすぐ戻ろう」
リシアは頷き、手元の小さな包みを差し出した。食堂で受け取ったパンが二つ。レインの分も頼んでしまったらしい。
「昨日はごちそうになったので。お代は、あとでちゃんと返します」
「じゃあ、今度仕事が見つかった時にね。今日はそのパンをありがたくもらうよ」
礼を言うと、リシアは少しだけ笑った。初めて会った時より顔色は良いが、人が近くを通るたびに肩が強張る。本人は気づかれまいとしているようだったので、レインも何も言わなかった。
小刀はギルドの保管庫から、立ち会いの職員によって運ばれてきた。ノーラが預けた品を勝手に持ち出さないよう、調査中の持ち運びには記録が必要だという。レインは受領書に署名し、革の包みを受け取った。
「この刻印に心当たりのある工房を探します。調査の間は俺が保管して、夕方には返します」
職員の説明を聞いたリシアは、小刀へ視線を落とした。
「私も持っていた理由を思い出せればいいんですけど」
「無理に思い出さなくていい。印を作った人なら、道具の方から分かることがあるかもしれない」
職員は二人を送り出す前に、革の包みについた札を指した。そこには、小刀が保管庫へ預けられた日と、受け取った職員の署名がある。
「調査中に誰かが『自分の物だ』と言っても、渡さないでください。いったんここへ戻して、持ち主を確認します」
「承知しました」
レインが答えると、リシアが小さく首をかしげた。
「持ち主を探す仕事なのに、見つかっても渡せないんですか」
「本人かどうか調べるためだよ。見た目だけなら、誰でもこの小刀を見て名乗れるからね」
「私が持っていた、というだけでも駄目なんですね」
「君の物かもしれない。でも、まだ分からない。分からないことは、分からないままにしておいた方が安全な時もある」
彼女は不服そうな顔をしなかった。代わりに小刀を包んだ革紐を見て、しばらく考え込んだ。無理に記憶を探そうとする様子があったので、レインは通りの向こうのパン屋を指さして話題を変えた。
「刻印の調査が終わったら、あそこで昼食にしよう。朝のパンだけじゃ腹が減る」
「おいしいお店ですか」
「分からない。俺も初めて入る」
リシアが笑ったので、レインは少し安心した。
二人は市場の北側、鍛冶屋が集まる通りへ向かった。火床から上る煙が屋根の間に細く伸び、店先には農具や短剣が並ぶ。どの工房でも仕事の手を止めてもらうには少し勇気が要った。
一軒目の職人は小刀を一瞥し、「王都の品じゃないか」と言った。二軒目では星形の印を見て首を振られた。三軒目の主人は刃に使われた金属の質を褒めたものの、刻印については知らなかった。
「当たりをつけるのが難しいな」
レインが帳面を開くと、リシアが肩越しに覗いた。
「全部記録しているんですね」
「同じ店に二回行って、同じ質問をしたくないからね」
「それなら、次のお店では最初に印を見せた方が早いかもしれません。さっきまでは刃の話ばかりでした」
言われてみれば、その通りだ。鍛冶職人は刃の出来に関心が向きやすい。刻印の調査が目的なら、先に話を絞るべきだった。
「助かった。次はそうしよう」
三軒目を出たところで、レインは一度足を止めた。通りの隅に水桶が置かれており、リシアがその水面へ顔を映していた。
「疲れた?」
「いいえ。ただ、鍛冶屋の音を聞くと、何かを思い出しそうになるんです」
「何を?」
「それが分からなくて。剣を打つ音なのか、別の音なのかも」
彼女は困ったように眉を寄せた。レインはそれ以上問い詰めず、次に行く工房の名前を帳面へ書き込んだ。誰かに急かされると、かえって思い出せなくなることがある。以前、師匠に頼まれて倉庫の鍵を探した時も、探すのをやめて食事を始めた途端、置いた場所が浮かんできた。
「今日は刻印の方だけ調べよう。記憶のことは急がなくていい」
「……ありがとうございます」
二人は並んで歩き出した。道すがらリシアは、店先の刃物の形が町ごとに違うのだろうか、と何気ない質問をした。レインは知っている範囲で答えたが、農具に詳しい職人もいれば、馬具の金具を得意とする職人もいる。どんなに腕が良い鍛冶師でも、すべての鉄製品を知っているわけではない。それを説明しながら、尋ねる相手を間違えれば答えが見つからないのも当然だと思った。
四軒目で紹介されたのが、路地の奥にあるクロフト工房だった。店先には剣よりも鍋や工具が多く、開け放した扉から金槌の音が響いている。
「依頼ならそこに置いて。修理は順番待ちだよ」
炉の前で赤毛の若い女性が振り返った。頬に煤をつけ、片手に長い火箸を持っている。彼女は二人の旅装を見て、さらに小刀へ視線を移した。
「鍛冶の仕事をお願いしたいわけじゃないんです。この印について聞きたくて」
「印?」
レインが包みを開くと、女性の眉がわずかに動いた。しかし、驚いた理由をその場で話す気はないらしい。
「そいつ、どこで手に入れたの」
「俺の物じゃありません。持ち主を探す依頼を受けています」
「だったら、まず手を離して。刃物は人の顔に向けない」
レインは刃先を自分へ向け、作業台の端に小刀を置いた。女性は火箸を戻してから柄を確かめ、明るい窓のそばへ持っていった。
「この銀の飾りは、あとから付け直したものだね。刃と柄の古さが違う。しかも星の印が一角だけ欠けてる」
「傷じゃないんですか」
「違う。きれいに削ってある。こんな加工をする工房は、街じゃ一軒しか知らない」
女性は小刀を机に戻した。
「私はミーナ・クロフト。北門の外に古い鋳造所があるでしょう。あそこが使われていた頃の印に似てる。ただし、そっくり同じってわけじゃない」
レインは名乗って礼を言い、鋳造所の場所を帳面に書き込んだ。
「そこへ行けば持ち主が分かるでしょうか」
「建物はとうに閉鎖されてる。記録なら、市の倉庫に移されたはず。でも期待しすぎないで。古い台帳は火事でかなり失われたから」
リシアは小刀を見つめたまま、低い声で尋ねた。
「これ、危ない物なんでしょうか」
「今は刃が折れてるし、振り回さなければ危なくないよ。……ただ、あんたはこの印を見たことがあるの?」
「分かりません」
リシアは答えた後、唇を結んだ。ミーナはそれ以上追及せず、代わりにレインの腰の道具袋を指さした。
「その留め具、今にも取れそう。仕事に使うなら直しときなよ」
「金具だけ売ってもらえますか。自分で直せます」
「材料代だけでいいから、そこでやって。下手な仕事をされたまま帰られると気になる」
レインが苦笑すると、ミーナはようやく笑った。
作業台の端で留め具を交換しながら、レインは彼女の道具の手入れに目を留めた。古い工具にも番号が振られ、刃先の摩耗したものは種類別の箱へ分けられている。師匠の店に似た几帳面さがあった。
「使う人が困らないように、いつも整理しているんですか」
「私が困りたくないだけ。道具を探す時間が一番もったいないから」
ミーナは肩をすくめた。口調はきついが、客に向き合う目は真剣だ。
修理が終わる頃、外で子どもの声がした。荷車を引く男が、道を塞ぐように置かれた鉄材を避けきれず立ち往生している。レインは手伝いに出ようとしたが、リシアが先に立ち上がった。
「片腕でも、道を空けるぐらいはできます」
「重い物は俺が持つ。声だけかけてくれる?」
結局、レインとミーナが鉄材を運び、リシアが行き交う人に回り道を頼んだ。荷車の男が何度も礼を言って去ると、三人の間に妙な連帯感が残った。
「手が空いたら、鋳造所の古い記録についても調べてみるよ」とミーナが言った。「ただし、仕事として頼むなら代金は取るからね」
「それでいい。無料で働かせるわけにはいかない」
レインは帳面に工房の住所を記し、午後のうちに市の倉庫へ問い合わせることを約束した。
ギルドへ戻る途中、リシアが口を開いた。
「あの人、最初は怒っているのかと思いました」
「道具を大切にする人なんだろうね」
「レインさんも、同じことを言いそうです」
「俺は壊れた道具を見ても、あそこまで怖い顔はできないかな」
リシアは声を立てて笑った。その笑い声を聞いて、レインは今日初めて、彼女が追っ手の方を振り返っていないことに気づいた。
保管庫へ小刀を返すと、受付係から一枚の紙を渡された。市の倉庫には古い工房記録があるが、閲覧にはギルドが発行する正式な調査依頼の証明が必要だという。
「日雇いの仕事を一つこなして、実績をつくれば推薦できます」と職員は教えてくれた。
レインは掲示板を見上げた。採石場への工具配達、失くした荷札の捜索、北門の資材確認。どれも報酬は安い。
それでも、自分の名前で引き受けられる依頼がここにある。
「どれから始めようか」
レインが尋ねると、リシアは少しだけ考えて、採石場の札を指さした。
「歩く許可は出ています。荷物の数を数える仕事なら、私にも手伝えそうです」
最初の共同作業は、思っていたより地味なものになりそうだった。




