9. 試し
朝の台所に、母が茶の缶を並べる。蓋を開けるたびに、違う香りが一つずつ立つ。まだ湯気もないのに、台所だけがお茶会を始めているようだ。先代公爵夫人からの言付けは、いちばん濃い茶と、伯爵家と同じ百合。母は缶の蓋へ指を掛けた。
「試されるなんて、私も初めてですもの。お茶を淹れる前から、杯をのぞかれているようね。ふふふっ、底まで拭いて行かなくては」
「お母様、杯は毎朝拭いているわ。今日はお茶を試されるのよ。杯の底ではないのよ。真剣に考えて欲しいわ」
「あら、底が見えたら、残さず飲んで頂けたということよ? 底こそお茶の神髄なのよ?」
「もう! お茶よりお母様のほうが、よほど濃いわ!」
母は蓋を缶に戻し、口元を隠しもせずに笑う。
「あははっ、私を薄めても、おいしくないわよ」
「薄めないわよ。……今日は、その缶を持って行くのね? 私も桶を積んでくるわ」
門では、エルワンが荷車に布を敷いている。私は言付けどおりの百合の桶を積み、もう一つ、自分で選んだ白い小手毬の桶を載せた。なぜ二つなのかは母に言わず、母も訊かない。細い枝が揺れるたび、白い花が寄り合っては離れる。布越しでも、百合の香りは強く鼻に届く。エルワンは桶を板の間へ寄せる。
「こちらなら倒れません。枝先も、板には当たりません。川べりの間は、もう空けてあります。着いたら、窓の側からご覧ください」
◇
渡し場亭の川べりの間には、卓が二つある。窓の外に渡しの舟が見えた。川の水音が、窓の下から絶えず上がってくる。水に反射した光が、卓の端でも揺れる。先代公爵夫人は椅子に掛け、頭に巻いた白い三つ編みを光へ向ける。
向かいの卓には父とアリスティード、侍女が二人。母の持つ茶器の下で、盆の布が小さくこすれる。先代公爵夫人が杖で床を一つ突いた。
「いちばん濃いお茶を。どちらの家にも、同じことを頼みましたよ」
伯爵家の侍女が先に茶を注ぐ。アリスティードは、背の高い百合の花瓶を卓に置いた。花の向こうから、父が言う。
「我が家の茶は、ご注文どおりに淹れさせました」
伯爵家の茶会の茶を淹れてきた手は、いま私の隣で盆を支えている。夫人はひと口で杯を置く。百合の香りが、卓の上を覆っている。濃い茶の匂いは、その下に沈んで届かない。次の卓へ母と茶器を運んだ。エルワンが百合の桶を脇に置く。
「百合は、伯爵家と同じ高さに? あなたは、どう思います?」
母のほうへ向きかけた顔を、自分で止めた。桶の百合の先が、座った夫人の顔より高い。茎を握っていた指を、少し緩める。
「百合は、活けません。母のお茶の香りを、奥様に届けたいのです。花は、こちらにいたしますわ」
百合の桶から手を離し、空いた手を挙げる。
「では、私が」
私は花鋏を取って小手毬を寄せ、座った夫人の目線より下で茎を切った。低い花の向こうから、深い緑の目がこちらを見る。水へ差した枝は、指を離しても、その高さにとどまる。茎の切り口から、水が指の腹へ落ちる。母が茶の缶の前で、夫人へ向き直る。
「濃いお茶は、お出しできませんわ」
母は菩提樹の花を合わせ、薄い茶を淹れた。杯の底が、湯気の向こうにも見える。湯気を追うと、甘くやわらかな香りが鼻先へ届く。夫人が取っ手へ伸ばした指を止める。
「私は、濃いお茶と言いましたよ。こちらは、底まで見えていますよ。伯爵家には、そのとおりのものがありましたけれど?」
母は盆を下げずに答える。
「ええ。でも、十二年前の伯爵家の茶会で、奥様は濃いお茶の二杯目を伏せられましたわ。その晩は眠れないから、と。今日は、川向こうへお帰りになるのでしょう?」
先代公爵夫人の杖が、床を一つ突く。夫人が今度は低い花へ目を向けた。
「……母娘そろって、私の注文を聞かないのですね。お嬢さんの百合も、桶の中ですよ」
私は小手毬の枝先を少し起こす。指の腹は、濡れたままだ。
「お花も、お茶も、奥様のお顔のほうを見ましたの。こちらなら、お話しする方のお顔を、枝の間から探さずに済みますわ」
先代公爵夫人が笑う。皺の多い小さな顔で、鉤鼻の先まで揺れた。
「ほほっ、お見事だわ。わざと頼んだのですよ。花の向こうから声だけ聞いて、相手が笑ったのかも分からない茶会は、もうたくさんですからね」
夫人は薄い茶を飲み、父へ顔を向ける。
「言われたとおりの茶なら、私の台所でも淹れられます」
先代公爵夫人は自分の卓の小手毬を指した。
「孫の茶会も、何でもご注文どおりに、と請け合ったのは、伯爵でしたね。この花も、そちらが同じ手で用意できると?」
父が懐中時計の鎖に手をやる。金の鎖が、指の間で張る。
「茶は、客の望むとおりに出すものです。注文を違えれば、別の客は腹を立てます。そのために、客の望みを伺っております」
夫人は百合の花瓶を見た。
「望むとおりと、言うとおりは違います。杯を伏せた客の顔まで見てもらいたいから、私は茶会を頼むのですよ」
先代公爵夫人が、母の持つ盆へ目を戻す。
「孫の茶会の話は、裁きが済んでからにしましょう。離縁の済まない家に、孫の祝いは頼めませんもの」
父は懐中時計を見て、黙って出ていった。アリスティードが出る前に、小手毬を一度見る。残った花の水面へ、窓の光が戻る。切った茎が、水の中で少しだけ明るくなった。母は夫人の杯へ手を伸ばす。
「お帰りの舟まで、まだお茶はございますわ。薄くても、花の香りは残りますもの。杯を置かれたあとにも、ほんの少し。お口に合いました?」
先代公爵夫人が杯を寄せた。
「ええ。この茶なら、今晩は眠れそうですよ。続きを頂きます。お嬢さん、花はそのままにしておきなさい」
私は花鋏を卓に置く。握り締めていた指を伸ばすと、柄の形がまだ掌に残っている。
「はい、奥様。お舟が来るまで、この高さでお待ちしておりますわ」
渡しの舟の鐘がする。夫人は銀貨十二枚を卓に置いた。伯爵家の卓にも、同じ値の銀貨がある。高さも香りも違う花の前に、同じ銀の光が並ぶ。受け取りに名を書いて渡し、控えを取った。
エルワンが夫人の杖の側に付く。黒檀の杖と彼の腕に手を掛け、小柄な体が戸口へ進んだ。夫人がこちらを振り返る。
「茶を淹れた方と、花を活けた方。お顔も、よく見えました。お二人の名で、ちゃんと頂きましたよ」
小手毬の葉についた水を指で払う。葉の先が、私の指からふっと離れた。母は茶器を拭きながら、こちらを見ずに言う。
「あの小手毬、悪くないわね」
布巾を動かす手は止まらない。戻ったエルワンが、桶の百合をのぞく。
「さっき、お母様のほうを見ないで答えましたね。花を選ぶときです。あの高さなら、私も奥様と話しやすいです。決めたのはあなただと、私にも分かりました」
私は控えの紙を畳みかけて、手を止める。見ていてくれたのは、花だけではなかった。紙の角が、親指の腹に食い込む。
「……ありがとう、エルワンさん。訊いてくださって」
その先にも言いたいことがあるのに、紙の角を揃える指だけが動いた。頬が熱いのは、川べりの日差しのせいにしておく。エルワンは空の杯をよけて、花の置き場所を空ける。
卓に残した小手毬の枝先が、彼の袖のそばで揺れている。




