10. 二人の名前
朝の裁き所の奥の間は、石の床から冷えが上がってくる。膝に置いた包みを押さえると、中の紙の角が手に触れた。墨と古い紙の匂い。黒い長衣の初老の裁き手が、書付を広げる。脇には書記、父の後ろにはアリスティード。母と私の前には、筆を載せた卓がある。裁き手が日付を読み上げた。
「申し立てから、今日が三十日目である。伯爵、離縁の書付に署名するか?」
父は筆を見もしない。
「署名はしない。家を出て商いをしても、まだ私の妻だ」
父は胸を張り、私たちの前の卓を見据えた。
「あの家は我が家の別館だ。妻の稼ぎも、伯爵家のものだ」
裁き手は眉も動かさず、別の書付を開く。
「妻が親から継いだ家と、妻が自分で稼いだ金は、妻のものである。十八を過ぎた子が、自分の名で稼いだ金も、その子のものである」
父の指が金の鎖を握る。指の間で、細い金の光が隠れる。
「客は、伯爵家の名で来た。稼ぎは、伯爵家の名の上にある。茶会へ招いたのは私だ。それを、妻と娘だけの働きとするのか?」
裁き手が、筆を卓の端へ寄せた。
「では、その稼ぎの受け取りは?」
膝の包みを開く。祖母の茶器の棚の箱から持ってきた、控えが四枚。私の指で押さえた角が、どれも少し丸い。皺を伸ばし、名前が隠れないように並べた。紙の上を動く指は、思ったより落ち着いている。
「受け取りを書いたのは、私です。お代を頂いた方へ同じ紙を渡して、こちらを取っておきました。淹れ手と活け手の名を、それぞれ書いております」
裁き手が一枚ずつ読む。令夫人たち、侯爵家、十人の卓、先代公爵夫人。花だけの侯爵家の一枚には、私の名だけがある。ほかには母の名も。紙をめくるたび、書いた日の筆の重さが指に戻る。裁き手は最後の紙を伏せずに置いた。
「受け取りの名は、オディルとガランス。この稼ぎは、妻と娘のものである」
紙の端から手を引く。父の声が、並べた控えの上を越えてきた。
「オディル! 娘のために家を出たのだろう? 娘は、もう自分の名で稼いでいる。お前が戻らない理由は、もう無い」
私は控えから顔を上げる。母の名の横に、自分の名がある。
「お父様、母は、私を――」
母は私の言葉の途中で、指輪のない手を卓へ置いた。
「いいえ。私のためよ」
父の口が、口髭の下でわずかに開く。
「……お前の、ため?」
母は父から目を逸らさない。卓の上の手も、そのままだ。
「ええ。この子のためだけなら、この子一人を母の家へ送って、私はあの広間に残っていたわ。私が、あの家で茶を淹れたいの。あなたの家へは戻りません」
父は懐中時計を出した。金の鎖が垂れたまま、時計を持つ手は動かない。母の指の白い輪を見て、膝の上の私の手がほどける。
涙が出たのは、婚約を解かれた昼でも、家を出た夜でもなく、母のその一言のあとだった。
膝の布に、濡れた丸が出来る。母の手を家から引っぱり出してしまったつもりで、その指の白い所ばかり見ていた。私が引っぱらなくても、お母様はここにいる。目をこすると、卓の控えまで滲む。喉が勝手に鳴って、声にならない。母は自分の名のある紙へ、指を添えた。裁き手が書付を閉じる。
「離縁は、成ったものとする」
アリスティードが父の後ろで、母にだけ頭を下げた。茶の染みた母の指先が、私の頬に触れる。母は指の腹でそっと拭い、私の顔をのぞき込む。
「泣き顔では、看板が書けないわよ。ほら、頬に手の跡までついたわ。筆を持つ手は、空けておきなさいな」
私は鼻をすすった。口の端を結んでも、うまく閉じない。
「お母様、そんなこと言っても……。字まで、にじんで見えるんだもの。少しだけ……待って……」
母の指が頬を滑る。拭われるたび、冷えた所があたたかい。
「ふふっ。紙はまだ濡らしていないわ。書くのは、お家に帰ってからよ。看板まで泣かせたら、お客様が入りにくいわ」
「看板は泣きません! ……お母様、笑わせないで。鼻まで忙しくなるわ」
「あら、私の手も忙しいわ。拭いても拭いても、あなたがちっとも待ってくれないんですもの」
「……もう。筆は、自分で持つから」
◇
昼、林檎の木の家の門に、花の影が揺れている。蕾が開き、白い花びらの間から甘い匂いが降ってくる。裁き所の外で待っていたエルワンの荷車から、母と一緒に降りた。石の床の冷たさは、もう足の裏にない。
エルワンが古い棚板を下ろし、門の内側の卓へ置く。拭かれた木目には、棚として使った跡が残っていた。彼は板の端を卓に揃え、筆を持つ私へ向き直る。
「宿の古い棚板です。少し跡は残っていますが、字を書く所はよく拭いてあります。名は、どちらを先に? あなたは、どう思います?」
母へ顔を向けず、板の白い所に筆を当てる。木目の筋に沿って、字を置く幅を決めた。
「オディルとガランス。母の名が、先ですわ。淹れ手と活け手の順で。板の端まで、両方書けますもの」
板の向こうで、母の声が弾む。
「あら、私が先なの? 照れるわね。ふふ、お茶を淹れるより落ち着かないわ。筆を持っているのは、あなたなのに」
筆を置き、空いた手を挙げた。
「では、私が」
私は筆を取り直し、棚板へ字を置いていく。木目のくぼみに筆先を取られ、力をゆるめた。
〈林檎の木の家 お茶会 オディルとガランス〉
最後の字の横に、まだ余白がある。両方の名を書いても、こんなに残る。窓の紙の白い所にも、同じ二人の名を書いた。筆先を浮かせると、白かった場所に墨が光る。エルワンが板を門の脇へ掛け、看板を読む。
「オディルとガランス。……いい看板ですね、ガランスさん」
筆の柄を握る指が止まる。窓の前で「どなたが?」と訊いた声が、今日は名を呼んでいる。看板から彼の顔へ、ようやく目を上げた。
「……はい。ありがとうございます、エルワンさん。これからは、窓の紙を見た方にも、私たちの名が分かりますわ」
◇
夕方、裏庭と客間の四つの卓が埋まる。商人夫婦とポム、三人の令夫人、取引相手の三人。杯を置く音に笑い声が重なり、林檎の花の下まで届いてくる。窓の花のそばには、エルワンも客として腰を下ろした。花の向こうで、杯を持つ手が動く。母は杯を運びながら、こちらへ笑い掛ける。
「満席なんて、私も初めてですもの。ガランス、盆が空くのを待つ間がないわ。お茶もお花も、見ていただけるのが嬉しいわ」
年かさの令夫人が、杯を持ったまま看板の見える窓へ顔を向けた。
「ええ。今日は、お名前を見て入ってきましたわ。帰ったら、この名でお友達にもお話しできますもの。この看板を目印に、と添えれば、迷わずに来られますわね」
門へ先代公爵家の使いが来る。差し出された手紙を受け、母と客間の戸口で開いた。
〈孫の婚礼の前の茶会を、オディル殿とガランス殿に頼みます。二十九日後の昼、公爵家の庭にて〉
母の指が、茶の染みを避けて紙の端を持つ。私は反対の端を押さえた。どちらの指のそばにも、名がある。私の指先で、紙の角がまた少し丸くなる。母は手紙を棚へ置き、杯に茶を注ぐ。
「今度は、お茶の缶も持っていけるわね。ほら、私たちの杯も空いているわ。こんなに近くにあるのに、自分の分はつい忘れるわね。お客様の次は、私たちよ」
私は自分の杯を、母の杯の隣へ寄せた。
「お母様、ここで飲みましょ? お花も、看板も、両方見える所で。お茶が冷めないうちに」
門の看板に、林檎の花びらがひとひら留まる。母の杯の縁と、私の杯の縁が触れた。薄い音が、笑い声の間をすっと通る。杯を寄せたまま、看板の二人の名を見て言う。
「私たちのお茶会に、乾杯」




