8. 十人の卓
昼前の裏庭に、卓を三つ並べた。四人、三人、三人で十席。林檎の蕾は赤くふくらみ、枝の影が低い花の上をゆっくり揺れる。茶の缶を開けると、土の匂いに甘い香りが混じった。予約の紙の〈十日後 昼 十人〉は、今日の席だ。母は杯を十並べ、空の盆を抱える。
「卓を三つも並べるなんて、私も初めてですもの。注いで戻ったら、次の杯が待っているわ。ふふ、早く淹れたい!」
「お母様、お茶会にはお客様も必要なのよ。今のうちに、お花の間を通ってね。盆が枝に触れないように、少し寄せておくわ」
「あはは、知っているわ。皆様が座られたら、すぐ注ぐわね。十の杯が、空っぽで待っているんですもの」
「そんなに急ぐと、枝が引っかかってしまうわ! 花の先まで、よく見てあげて」
母は盆を抱え直し、花の間でぴたりと足を止めた。
「ほら、通れるわ。枝にも触れていないし、お茶もこぼしていないわよ」
「お茶は、まだ淹れていないもの! ほら、こちらからなら、皆様のお顔も見えるわ」
低い台を卓の端へ寄せ直す。昼、エルワンが七人を案内してきた。商人夫婦の後ろに、取引相手の方たち。商人の妻が、空いている椅子へ目を向ける。
「三人は、伯爵家に寄ってから来るそうです。こちらと同じ時刻にお招きがあって。代は要らないと、お使いの方が。ですから、先にあちらのお茶を頂くそうです」
エルワンは門を閉めず、客の通った先を振り返る。
「二日前に、伯爵家の使いが宿に招きを置いていきました。使いの方には、こちらのご予約のことも、お伝えしてあります」
取引相手の一人が、椅子の背を押さえる。
「三つの席は片付けて、詰めてはいかがですか? 離れて座ると、お茶の話も遠くなりますし。お見えになるかも、まだ分かりませんから」
答える前に、母の顔を見てしまう。椅子の背に置いた指へ力が入る。母は林檎の蕾を見上げたままだ。
「知らないわ」
空いた椅子の背から手を離し、私はその手を挙げた。
「では、私が。お三方のお席は、このまま空けておきます。ご予約のお席ですもの。お話でしたら、椅子の向きを少しこちらへ。皆様のお声が届くようにいたしますわ」
三つの空席に、低い花と伏せた杯が残る。杯の底を枝の影がかすめても、取っ手へ伸びる指はない。母が七人に茶を注いだ。盆が戻る。残りの杯は、まだ伏せたままだ。母は湯気の向こうへ声を掛ける。
「温かいうちに、お召し上がりになってね。お話が続いて杯が冷めたら、新しく淹れますので、ごゆっくり……」
二人とも空いている卓に目がどうしても動いてしまう。折角用意した卓なのに――。
と、その時、門からほかの三人が入ってきた。エルワンが迎えに出る。
現れた先頭の年配の客は、空いた椅子と伏せた杯の手前で足を止めた。
「遅れて申し訳ない……私どもの席まで、そのままに。お待たせしてしまいました。もう、片付けられているかと。お花まで、皆さんと同じように置いてくださって」
私は椅子を引いた。土をこすった脚が、足元で止まる。
「お席の花も、お待ちしておりましたわ。お掛けくださいませ。ここからでしたら、皆様とお顔を合わせられます。お話の続きも、ぜひここで」
伏せていた杯を起こし、取っ手を客の指へ向ける。母の茶が白い底を隠した。湯気の向こうで、年配の客がひと口飲み、両手で杯を包む。
「うぅ~ん、いい香りだ……。なるほどこれですな。二年前に商人から聞いた茶は。熱いうちに、と急いで飲むのがもったいない。でも、もうひと口頂きたくなる。ああ、ゆっくり飲むのは難しい」
空けておいた椅子が、客の重みで土に沈む。私は杯を起こした指を、膝でそっと拭った。椅子の背へ向けていた肩が、やっと下がる。空の席へばかり向いていた目を、ようやく花へ戻せる。
◇
門に馬車が止まる。父とアリスティードだ。走らせてきた馬の汗の匂いが、格子の外に溜まっている。母と私、エルワンに続いて、年配の客たちも門へ出た。父は格子戸の外から、客へ顎を向ける。
「お三方は、我が家の宴の客だ。伯爵家の名で招いた。広間に席はある。まだ茶会の途中だぞ」
年配の客が、杯の中ほどの高さを指で示す。
「伯爵。あちらの杯は、半分残してまいりました」
父の口髭が動く。
「伯爵家の茶会と同じ茶を、出したはずだ。席を立つほど、違うものか?」
年配の客は、母の持つ盆へ顔を向ける。
「同じではありませんでした。だから、こちらで頂きます。いまの茶を淹れてくださる方の所で、ゆっくり頂きたいのです」
父が格子を掴んだ。
「オディル! お前が広間で淹れれば、済む話だ。客の席も、茶器も、向こうに揃っている!」
母は空いた盆を抱え直す。格子へ寄らず、卓のほうへ体を向けた。
「今日の私の杯は、ここに十あるわ。皆様、まだ飲み終わっていらっしゃらないわ」
父は後ろの家令に問う。
「……アリスティード。広間の客は、何人残っている?」
アリスティードは面長の顔を伏せる。
「旦那様。本日の宴は、十人分のお支度で、お残りのお客様はございません」
父が懐中時計を出し、見ずにしまった。金の鎖が胴着へ戻る。鎖の端が収まっても、父の指はそこから離れない。父は馬車へ向きを変え、アリスティードが戸を押さえる。
客のいない広間の椅子が浮かぶのに、父へ何も言えない。格子戸を閉じた手が、木に残った。戸を閉めることはできても、手を離すことは、うまくできない。後ろから杯の触れ合う音がする。
母が盆を抱えたまま、私の隣へ来た。
「ガランス。お茶が冷めるわ」
私は格子から手を離す。手のひらに残る木の硬さを、指でこすった。
「……ええ。いま行くわ、お母様」
卓へ戻ると、三つの卓の話し声が、さっきより大きい。商人の妻が銀貨三十六枚を並べる。杯を持った指の跡が、銀貨の縁にも少し残る。
「十人ぶん、お願いしたとおりに。席を空けておいてくださって、ありがとうございます。取引の話も、皆で続けられます。座る所が離れていたら、話を持ち帰るところです。お茶が冷めてもよいと言われると、つい長くなってしまいますね」
「ありがとうございます。お席を詰めずにお待ちして、よかったですわ。お代の受け取りをお書きしますね」
受け取りに名を書いて渡し、控えを取った。控えの名を指で汚さないように手を引く。エルワンがその紙をよけ、卓に残る水差しを端へ寄せる。
「渡し場亭に、先代公爵夫人から言付けです。六日後の昼、渡しの舟を待つ間に、二つの家のお茶を飲み比べたいと。伯爵家にも、同じ言付けが行っています」
「母の茶を、お聞きになったのですか? こちらのお茶会は、まだ始めたばかりですのに」
エルワンは通りの先を指す。
「あの年かさの奥様から、淹れ手を聞いたそうです。場所は宿の川べりの間です。あなたは、どう思います?」
「お受けしますわ。お茶だけでなく、卓の花も持ってまいります。奥様が座られるお席を、先に拝見させてくださいませ。花でお顔が隠れない高さにしたいですわ」
エルワンの右の頬にえくぼが出来た。母が空になった杯を盆へ載せる。花の向こうでは、客たちの話がまだ続いている。私は空いた盆を、母の手元へ差し出す。
「お母様、その杯は、私の盆へ」




