7. 侯爵家の宴
朝の門の前で、荷車の白い雪柳が揺れる。見積書どおり、二十卓ぶんの花だ。枝が触れ合うたび、冷たい空気に青い匂いがほどける。エルワンが枝の先へ布を掛け、母は両手に水桶を提げた。茶の染みた指が、取っ手にぴたりと収まっている。
「侯爵家に水運びで入るなんて、私も初めてですもの。ガランス、お茶の缶を忘れた気がして、手が棚へ伸びるのよ。お茶を淹れないで帰るのが、今日いちばんの大仕事ね」
「今日は花だけよ、お母様。お水をこぼさないでね。枝に飲ませる前に、お母様が浴びないで。帰りは、桶を空にして戻りましょ?」
行き先は、婚約を解かれたあの庭だ。あの昼、私は指輪を握って庭を出た。今日は、花鋏の柄を握り直す。指の置き場は、探さなくても分かる。エルワンは手綱を取る前に、こちらへ向き直った。
「侯爵家の裏門で、私も待っていましょうか? あなたは、どう思います?」
「……待っていてくださいませ。花を全部、降ろしてからも。帰りの荷車で、空の桶を数えたいの。ここへ戻るまで、お願いしてよろしいですか?」
エルワンの右の頬にえくぼが浮かぶ。
「はい。帰りも、この荷車で。桶を置く所を空けておきます。花を降ろしたあとも、裏門から動きませんから。急がなくて大丈夫です。戻っていらしたら、出しましょう」
◇
侯爵家の裏門から母と庭へ入り、二十の卓に雪柳を活けた。座った客同士の目線より低く、白い枝を流す。芝はあの日と同じ高さに刈られ、踏むと、靴の底でかすかに鳴る。足を置くたび、覚えのある柔らかさが戻ってくる。私は枝先の高さへ目を移した。使用人たちが椅子を揃える向こうを、固く結い上げた白金の髪が近づいてくる。
侯爵夫人だ。その後ろでは、結い上げた栗色の髪に真珠が光る。侯爵夫人が令嬢を振り返った。
「ナデージュ。こちらも見ておきなさい。……伯爵夫人が、水桶を?」
ディディエ様の新しい婚約者が、枝の向こうへ身を寄せる。母は桶を持つ手を少し上げた。
「今日は、娘の水運びですもの。お茶を淹れない私なんて、私がいちばん珍しいわ。花の水なら、茶の湯と違って冷たくてもいいでしょう?」
侯爵夫人は花の高さを指で測るように見ている。言葉の代わりに、視線が枝の端をたどる。次の卓へ移った背を見送り、私は茎を持つ指を緩めた。
◇
宴が始まり、庭の端で水差しを持つ。楽の音と杯の触れ合う音が、白い枝の上を渡っていく。母は水桶の脇、上座には侯爵夫人。招かれた父の金の鎖も、客の間で光った。
ナデージュ様がディディエ様の腕から離れ、低い椅子の祖母を振り返る。私へ向く菫色の目が、雪柳の先で止まった。
「祖母の席のお花を、もう少し下げていただけます? 祖母から、向かいのお顔が見えないの。お声だけ聞こえるなんて、ちょっと悔しいわ。隣の卓へも、お話しできるようになります?」
答える前に母の顔を見てしまう。母は前掛けの隠しから砂糖菓子を出して食べ、水面へ目を落とした。白い花が、その水に小さく揺れる。私は水差しを置き、手を挙げる。
「では、私が。お座りの高さに合わせますわ。枝の先を少し下げれば、隣の卓まで見えますもの。すぐに直しますわ」
茎を短く切り、枝を横へ寝かせる。ナデージュ様の祖母が、向かいの客と顔を合わせて笑った。白い枝の上に、笑い合う口元が並ぶ。近くの客たちへ、父が口を開く。
「この卓の花は、我が家の祝いの品でして――」
上座の侯爵夫人が見積書を広げる。水色の目が活け手の欄まで下りて、侯爵夫人は紙を読み上げた。
「見積書の活け手の欄には、ガランス、とあるわ。代を払ったのは、こちらよ。伯爵家からの贈り物では、ないわね」
客たちの目が父へ向く。父は口髭の下で言葉を止める。胴着の金の鎖が日を一度弾いて、それきり動かない。枝の高さを決めた手は、ここにある。私は水差しの取っ手を握り直した。ナデージュ様がディディエ様の袖を引く。
「ディディエ様、ガランスさんって、どなた? こちらのお花を活けた方なのでしょう? お知り合いなら、私にも教えてくださらない?」
ディディエ様は前髪を払った。
「白ばかりで、地味な花じゃないか。……前から知っているよ。僕の宴には、もっと華やかな花でもよかったのに。これでは、せっかくの花が目立たないよ」
ナデージュ様が庭の卓を見渡す。花の向こうの顔を追い、またディディエ様へ目を戻す。
「では、活けた方のお名前を、皆様に教えて差し上げて。私、さっそくお礼を申し上げたいわ。こんなに見事な枝ぶりのお花ですもの!」
ディディエ様の指が前髪から下りる。視線が私をかすめ、白い花の上で止まった。
「……ガランスだ。この花を活けたのは、ガランスだよ」
ナデージュ様が私とディディエ様を見比べ、ぱちんと手を打つ。ディディエ様を少し見下ろす背丈だ。笑うと、鼻の上のそばかすが寄る。ナデージュ様は丸い目をさらに大きくした。
「地味だなんて、どなたがおっしゃったの?」
ディディエ様が、払ったばかりの前髪へ指を戻す。
「白だけじゃ、そう思う人が居てもおかしくない……ふんっ!」
私は水差しを持ち直す。口の端を噛むのをやめ、枝の上から顔を上げた。
「ディディエ様、白には白にしか出せない輝きがございますわ」
ナデージュ様が低い花へ手をかざす。
「うふふ。私、このお花、好きよ。活け方も見事だし、お顔も見えるんですもの。祖母とお話ししてきますわ。ガランスさんも、こちらから見ていてね!」
水差しの取っ手が、指に食い込む。持ち上げたままの肘が、うまく下りない。
七年、誰も呼ばなかった活け手の名が、婚約を解かれたその庭で、人前で呼ばれた。
ディディエ様は口の端だけの笑いも作れず、黙っている。二人に言うつもりの「おめでとうございます」は、口から出なかった。水差しの取っ手を、何度も撫でる。二人を祝う花は、ちゃんと、きれいに活けられている。
◇
空の桶を母と荷車へ戻す。花を運んだときより軽いのに、取っ手を握る指がすぐにはほどけない。母が桶の底を叩いて、からんと鳴らした。
「あの庭、今日はいい匂いだったわね。ふふ、空の桶はよく鳴るわ。お水をみんな使ってもらえるのも、悪くないわね」
私は桶の縁の水滴を指で払う。白い花はもう荷車にない。湿った板から、枝の匂いだけが薄く上がる。
「……ええ。雪柳の匂いよ、お母様」
そこへ、侯爵夫人が裏門まで来た。まっすぐな細い背は、歩いても曲がらない。ディディエ様と同じ細い顎が、荷車の板へ下がった。
残りの銀貨三十枚を、その板の上に侯爵夫人が置く。私は板に紙を広げ、受け取りと控えを書く。筆の先が、花鋏を握った指の間で少し揺れた。
〈受け取り 銀貨六十枚 活け手 ガランス〉
受け取りを渡すと、侯爵夫人は薄い唇を動かす。
「伯爵の約束ではなく、この紙の値で払ったわ。次も、この名で頼むかもしれないわね」
控えの名を確かめ、私は頭を下げた。
「ありがとうございます。次のお席も、座られる方のお顔を見て、活けさせていただきますわ」
侯爵夫人が庭へ戻る。控えを畳むと、母が桶の中をのぞいた。エルワンは手綱を持って待っている。私は控えを手に、母の隣へ寄る。
「お母様、空の桶を、一緒に数えて」




