6. 我が家の別館
朝の客間で、祖母の茶器の横に紙を広げる。今日の客は三人の令夫人だ。二日前、年かさの令夫人の御者が窓の紙を見て予約し、前金の銀貨六枚を置いていった。
伯爵家の月に一度の茶会に、十年通った方たち。紙の端を押さえ、初めての受け取りを書く。筆先が私の名に届くと、指に力が入った。墨の匂いが、朝の茶の湯気に混じる。
〈受け取り 銀貨十二枚 淹れ手 オディル 活け手 ガランス〉
同じ文面の控えも書き、祖母の茶器の棚の箱に入れた。受け取りには書ける名が、窓の紙では白いままだ。小さな紙の上で、母の名と私の名は、指一本ぶんしか離れていない。母は杯を並べながら、ひと息で言う。
「年かさの奥様は砂糖なし、若い奥様は乳を多め。もうお一方は熱いのが苦手だから、少し冷ましてからね。杯の順を間違えなければ、盆も慌てなくていいわ。お好みを尋ねるために、おしゃべりを止めなくても済むもの」
私は受け取りの墨を乾かしながら、母の盆を見る。
「お母様、杯には名を書かないのに、全部分かるなんてすごいわ。私、紙に書いても順を確かめてしまう。お客様より、淹れる人のほうが楽しそう。ふふっ」
母は茶の缶を抱えて笑った。
「知っている奥様方を、お客様としてお迎えするなんて、私も初めてですもの。ふふふっ、今度は私が戸を開けるのよ。お茶を出してから、私も皆様のお顔を見たいわ。盆の上ばかり見ていたら、もったいないもの」
私は筆を置く。母は伏せた杯を一つ、窓の光へかざす。縁の向こうで、目尻の笑い皺が深くなる。
羽根飾りの帽子を思い出し、その装いを邪魔しない花を選んで卓の端へ低く寄せた。
◇
昼、令夫人たちの馬車のすぐ後ろに、父の馬車が止まった。蹄の音が、通りの土を続けて打つ。母と門へ出ると、年かさの令夫人が帽子を押さえて父に会釈する。父は懐中時計の金の鎖に指をかける。
「ここは、我が家の別館だ。妻と娘に、気の置けない客をもてなさせている」
年かさの令夫人が、門の内側の母へ目を移す。
「まあ、別館。それで奥様がこちらに。窓にご予約の紙まであって、本当のお店のようですわね。お茶のために伺える場所が増えて、嬉しいこと」
格子の向こうで、父が金の鎖を撫でた。
「代は要らん。伯爵家のもてなしだ。お前も、客を迎えたら戻ると言え。次の茶会の支度がある」
令夫人たちを通し、私は格子戸の前に立つ。母の盆は、もう家のほうを向いている。朝の水撒きで湿った格子は、手のひらに冷たい。父の金の鎖は、その向こうで乾いて光る。私は格子越しに父の顔を見上げた。
「お父様のご予約は、承っておりませんわ。こちらは、ご予約のお客様をお迎えする家ですの」
客間へ戻ると、母は誰にも訊かずに淹れ分ける。砂糖なし、乳を多め、少し冷ました茶。茶の香りが広がる中、年かさの令夫人が、自分の杯の底を覗いた。
「伯爵家でも、私の杯だけ、いつも砂糖が入っていなかったわ。十年、一度も訊かれなかったのに、いつも私の好きなお茶だったのよ。奥様が、ずっと淹れてくださっていたの?」
母は砂糖入れを卓の端に置く。
「ええ。最初の茶会で、匙に砂糖を残しておいででしたもの。そのままのお茶がお好きなのね、と。お好きなほうで召し上がっていただければ、私も嬉しいわ」
年かさの令夫人が、取っ手を握り直した。杯から母の手へ、ゆっくり目が上がる。母の指も、盆の縁で止まった。お茶はもう淹れ終えているのに、母はまだ、そこに立っている。若い令夫人は花越しに向かいの顔を見て、帽子の羽根を揺らす。
「このお花は、わたくしの帽子に合っていて嬉しいですわ」
私は卓の端の枝へ、指を添えた。
「ありがとうございます。帽子の羽根飾りが映えるように活けておりますわ」
年かさの令夫人が、杯を持ったまま笑う。花の向こうに、母の顔と令夫人たちの顔が並んでいる。枝に添えた指を離すと、私の肩も少しだけ下がった。
◇
帰り際、父はまだ門の外にいる。年かさの令夫人が巾着を取り出し、私に向ける。
「伯爵様は、お代は要らないとおっしゃったけれど……お代は、どちらへ?」
答える前に、母の顔を見てしまった。母は焼き菓子の残りを口へ運ぶ。
「知らないわ」
受け取りを持つ手とは逆の手を挙げた。
「では、私が」
私は受け取りを巾着の前へ広げる。
「お代は、淹れた者と活けた者に、お支払いくださいませ」
残りの銀貨六枚を受け、紙を渡した。銀貨には令夫人の手の温みが残り、受け取りを放した指先だけが、急に軽い。年かさの令夫人は名の所を指で押さえ、門の外の父へ向き直る。
「伯爵様。受け取りに、伯爵家のお名前がございませんわ」
父の目が紙へ下がった。
「別館だと言っている。妻と娘の手間は、伯爵家の手間だ。皆様がここへおいでなのも、伯爵家の名があったからだ」
年かさの令夫人が、帽子の羽根を揺らす。
「では、伯爵様は、どうして門の外にいらっしゃるの? 私たちは、窓の紙を見てお願いしたのですけれど」
格子の向こうで、父が声を張った。
「……オディル!」
私は受け取りを渡した手を、体の横へ戻す。
「お父様。ご予約でしたら、承りますわ。お席をご用意して、お迎えいたします」
父は懐中時計を出した。
「は? ふんっ! 父に予約を取らせるのか?」
「はい。お父様も、ご予約をお願いしますわ」
「父だぞ、ガランス!」
指先が、手のひらへ食い込む。私はその手をほどいた。
「お父様でも、です! お茶も花も、お代を頂きますわ」
若い令夫人が扇で口元を隠す。
「まあ。次もこちらへお支払いするなら、この紙は大事にしなくては。淹れ手と活け手、両方のお名前ですものね」
父は時計を見て、馬車へ戻った。年かさの令夫人は受け取りを折る。折り目に私の名が隠れるまで、私はその手元を見ていた。紙は巾着に収まり、馬車が出たあと、母は茶器を下げに家へ入る。
もう一度見たくなって、棚の箱から朝の控えを取り出した。それを持って門へ戻ると、通りから来たエルワンが足を止める。まくった袖の先で、侯爵家の方角を示す。
「三日後の宴へ、宿の荷車を出します。花の桶も運べます。積む場所は空けておきますから、朝、こちらの門へ来ればいいですか?」
「お願いしますわ。水を入れた桶ですから、ゆっくり運んでいただけると助かります。枝を折りたくありませんの。積むときには、私にもお声をかけてくださいませ」
エルワンの目が、私の持つ控えで止まった。
「受け取りには、お二人の名を書くんですね。これなら、花をお願いする相手もすぐ分かります。窓の紙の白い所は……あなたは、どう思います?」
紙の名を指でなぞる。朝には動いた指が、名の最後で止まった。窓へ向けるには、まだ指が離れない。
「……まだ、決められませんの。こちらには、書けましたのに」
エルワンはそれ以上訊かず、窓の前を空けた。
「決まったら、教えてください。三日後の荷車は、朝に来ます。花は、あなたに見てもらってから積みます」
窓の紙の白い所に、昼の光が当たっている。




