5. 二年前のお茶
昼の裏庭で、林檎の蕾がふくらんでいる。枝の間から落ちる日が、卓に小さな光の丸を作っていた。祖母の小さな杯と、低い台の花。母が茶の缶を開けると、甘い香りが流れてくる。私は椅子を揃え、揃っている杯の向きまで直した。門から、エルワンが商人夫婦を案内してくる。
「こちらです。窓の花と同じように、庭の花も低い所にあります。木の下は、日差しもやわらかいです。娘さんの席は、そちらでよいですか?」
二つに結った黒い髪が、卓へ駆けてくる。商人の妻が娘の椅子に手を添え、私の寄せた小さな杯を見る。その取っ手へ目を細め、声を弾ませた。
「娘はポムと申します。自分の杯があると知ったら、道でも、そのお話ばかりしていましたの。大人と同じように、取っ手を持って飲みたがっております」
母は茶器を盆に載せて、卓へ来る。商人が妻の隣に座り、エルワンも椅子を引いた。母の指が、小さな杯の取っ手を外へ向ける。
「ようこそ。ポムのお茶は、この杯ね。取っ手に指を掛けてごらんなさい。大人と同じお茶を、少しだけ薄くするわね」
花を見るポムの黒い目が、台の縁から私へ動く。座っても、野の花の向こうに顔が見える。花と私を見比べて、ポムはぱっと笑い掛けた。
「お花が、とってもキレイ!」
母が淹れる茶は、商人夫婦には濃いめに蜂蜜。ポムの杯は薄めて、茶匙で蜂蜜を落とす。とろりと沈む色を、ポムが身を乗り出して追った。商人の皿には肉桂の焼き菓子を三つ、ポムの皿には杏の焼き菓子。私が置くと、母が子の顔の高さへ屈む。
「杯が熱いから、お皿に戻して、少し冷ましてからね。お茶は逃げないわ。甘さは、このくらいでいいかしら?」
「甘いの! ポムのお茶なの! お花も、ここに座ったまま見えるの!」
商人がひと口飲んで、杯を置かずに止まる。母の盆へ向く目を見ながら、私は花の台の脚を確かめた。子の指が伸びても、ぐらつかない。
ポムが杯を皿へ戻し、私を見上げる。私が少しかがむと、花の向こうからポムが顔を寄せた。
「お花の人は、だあれ?」
「私ですわ。窓の花も、このお花も、私が活けました。ポムのお顔が、お花の向こうに見える高さですわ」
「ポムも、お花の人になる! ポムの杯のお花は、ポムが活けるの!」
母が空いた盆を抱え、私の隣へ来る。ポムは椅子に膝立ちになり、卓に顎が届く小さな体を伸ばした。林檎のような頬が花に寄るのを見て、母が笑う。
「あら、じゃあ私は、お茶の人ね。お花の人が増えたら、お茶の人も忙しくなるわ」
ポムは焼き菓子を持ち、母を指してから私へ向き直る。
「お茶の人のお茶、甘い! お花の人の菓子も甘いの! ポム、どっちの人にもなる!」
「菓子を焼いたのも、お茶の人ですわ。私のお仕事は、食べられませんわ」
「じゃあ、ポム、お茶の人になる!」
「……お花の人は、もうおしまいですの?」
ポムは焼き菓子を持つ手を、大きく振った。
「やだ! 食べ終わったら、またなる!」
「ふふ。では、お花とお待ちしておりますわ。ポムのお席から、よく見える所で」
ポムは花の名前より先に、活けた人の居場所を覚えてくれる。水を足す杯が、手の中で少し傾いた。慌てて持ち直しても、口の端はゆるんだままだ。ポムの笑う声に、枝の上の小鳥が首をかしげる。
◇
門から父の声がする。商人が杯を卓へ置き、門まで出ていく。エルワンと母と私も続いた。妻とポムは、花のある卓の向こうにいる。門の外で、父が商人へ声を掛ける。
「商人殿、明日、我が家の茶会へ。商人殿のために席を設ける。取引の話もある」
父の目が、商人から母へ移った。厚い胸の前で、金の鎖が光る。盆を抱えた母を見たまま、父が言葉を継ぐ。
「お前も、商人殿の前だぞ。戻れ。明日の茶を淹れるのは、お前の仕事だ」
母の顔を見てしまった。戻る、とその小さな口が言えば、卓の花の隣が空いてしまう。盆の縁に並ぶ、茶の染みた指。息を吸ったまま、うまく吐けない。母は盆を抱え直し、口を開く。
「お客様の前よ、イポリット」
握っていた水の杯を、門の内側の台へ置いた。水が静まっても、指が離れない。お客様の卓へ戻る道は、私の後ろにある。杯の縁から指をほどき、私は顔を上げる。
「お父様。いまは、お客様のお茶会の最中ですわ。お話でしたら、お客様がお帰りになってから、門の外でお願いします」
商人が母の盆を見る。その盆から顔へと視線を上げ、お父様へ向き直った。
「伯爵。二年前、あなたの家で飲んだお茶は、この方のお茶でしたね」
父が懐中時計を出して見る。すぐにしまうと、金の鎖が小さく鳴った。母は何も足さない。商人が、家のほうへ目を戻す。
「お茶なら、ここで飲みます。明日のお招きはお受けしません。娘も、自分の杯を置いて待っていますので。せっかくのお茶を、温かいうちにいただきたい。家族でゆっくり飲める、この席が気に入りました」
父の目が逸れる。門の外から馬車へ戻る足音を聞きながら、私も卓へ歩きだした。卓の小さな杯を見つけて、噛んでいた口の端を離す。ポムが、その杯の前で焼き菓子を割っている。
「お花の人、半分あげる!」
「ありがとうございます。お花の人は、半分がいちばん好きですわ。いただきます」
商人の妻が卓に紙を広げ、筆を取る。低い花の台を動かさず、その脇で字を書いてから、私へ顔を向けた。
「取引相手にも、このお茶を飲んでもらいたいのです。お茶を飲みながらなら、話もゆっくりできそうですし。十日後の昼、十人でお願いできますか?」
〈十日後 昼 十人〉。母が商人の杯に茶を足す。書き終えた商人の妻が、低い台の花から私へ目を上げた。
「十人の卓の花も、座ってお顔が見える高さでお願いしたいわ。花のことは、どなたにお願いすればよいのでしょう?」
空いた手を挙げる。低い台の茎の先から、庭の空いた所まで目で測った。今度の紙に書く仕事は、私の分だ。
「では、私が。裏庭に卓を並べて、お顔の見える高さに活けますわ。お茶の淹れ手は、母です」
エルワンが残りの銀貨六枚を卓に置く。前金と合わせて、品書きの値になった。母の指が、銀貨を卓の端へ揃える。その隣に、私も荒れた手を添える。お茶と花に触れていた手の間で、銀色が光っている。私は卓へ身を寄せる。
「お母様、見て! お茶の分も、お花の分も、ここにあるわ。ちゃんと、両方よ。窓の紙を見た方が、座って飲んでくださったわ」
「売り上げなんて、私も初めてですもの。あはは、手がふさがって嬉しいわ。数えてくるわね。私、茶の缶の隣に置きたいわ」
母はふっくらした肩を弾ませ、銀貨を持って家へ入った。エルワンの前には、予約の紙と空いた杯。私が指の腹で紙の端を押さえると、エルワンがその手元へ目を落とす。
「あなたは、どう思います? 十人の卓は、この庭に置けそうですか?」
「裏庭に、卓を三つ。林檎の木の下に置けますわ。花は、お席ごとに低く。お隣の方のお顔も、その向こうのお花も見える高さにしたいですわ」
エルワンの右の頬にえくぼが浮かんだ。小さな杯の底に、林檎の蕾の影が揺れている。私の指は、予約の紙の端を押さえたままだ。
窓越しに銀貨を数える母の背へ、私とここへ来たことを後悔していないかとは、まだ訊けない。




