3. 活け手の名前
朝の客間で、品書きの上に筆を置く。窓から入る光が、紙の白を淡く染めている。一卓四人まで銀貨十二枚、前金は半分。淹れ手と活け手の手間賃の欄も作った。窓の花の下では、母が茶器を並べている。
「私の分は、書かなくていいわ。茶を淹れるのは私の仕事ですもの。あなたの花の分を書いておけばいいのよ。私の分まで引いたら、あなたの取り分が減ってしまうわ」
淹れ手の空欄を指で押さえた。杯を伏せる母の指には、茶の色が染みついている。紙の上には、その指の居場所がない。
「お母様は無料なの?」
「家族ですもの。お茶を淹れただけでもらうなんて、変でしょう?」
筆の先を紙から上げた。家族、の所で線を引けば、私の花も欄の外へこぼれてしまう。
「私も一生、ただ働きでいいの?」
母の指が杯の底で止まった。私も筆を下ろせない。母は、淹れ手の空欄を見つめている。
「……あら。それは嫌だわ。あなたの花まで、ただでいいなんて。……ただ働きって良くないわね」
「二十年、お茶を淹れて一枚ももらっていないのよ。淹れ手がいなければ、お客様の杯は空のまま。だから、お母様の分も書くわ」
欄に筆を下ろした。母の茶の分と、私の花の分。並んだ文字を見て、母が目尻に笑い皺を寄せる。
「お給料なんて、私も初めてですもの。あはは。離婚は申し立ててみるものね。こんな楽しみまでついてくるなんて」
「離婚の手間賃も貰いたいわね、ふふふっ」
◇
昼、格子戸の外に父が立ち、その後ろから金の巻き毛が現れる。ディディエ様だ。あの庭で婚約を解いた人が、こちらの返事を待っている。母が格子戸に手をかけた。
「侯爵家のお客様なら、お入りくださいな。お連れの方も、ご一緒に」
開いた門の前で、父の口髭が動く。言葉にはならない。二人を客間へ通すと、戸口にはエルワンが立っていた。品書きを書き終えた頃に、前金を持って来たのだ。父の目は品書きにある。
「一昨日の茶会は、客が杯を半分残した。……それはいい。侯爵家の祝いの花を用意しろ。卓は二十だ。お前の婚約が解けた詫びと、新しい婚約の祝いだ。侯爵夫人は伯爵家の茶会と同じ手の花を望んでいる。あちらには、もう約束してある」
私は卓に白い紙を広げた。母の指は茶の缶の蓋にある。父は紙を見ず、ディディエ様へ言う。
「我が家の祝いだ。娘の花くらい、くれてやる」
ディディエ様も、窓の花へ目を向ける。
「君の花は地味だが、母上が君の花でなければ嫌だと言うんだ」
答える前に、母の顔を見てしまう。母は茶を注ぎながら、私にだけ低い声で言った。筆にも、客にも手は出さない。
「侯爵夫人は、卓に白い花しか置かせない方よ」
白い花なら、茎と水の分が見える。私は手を挙げて、筆を取った。花の向こうで顔が見える高さも、私の手で決める。
「では、私が。ディディエ様、白で二十卓、承りますわ。花を揃える分と、活ける手間の分を、見積書に書きます」
〈卓の花 二十卓 白 銀貨四十枚 活け手の手間 銀貨二十枚 活け手 ガランス〉。
最後の欄で、筆が引っかかった。七年で初めて、花の隣に自分の名を書く。書き慣れた字なのに、最後を結ぶ指が動かない。持ち直した筆で書き終えると、墨が乾くより先に、手の震えが止まった。
見積書を読むディディエ様の水色の目が、最後の欄まで下りてくる。花の値と同じ大きさで、私の名がそこにある。私は紙の端から指をどける。
「活け手の欄に、私の名がございます」
父が懐中時計を見る。前髪を払いかけたディディエ様の指が止まり、声が裏返った。
「話が違う! 只だと聞いた! 花の代だけならともかく、君が活ける分まで、僕が払うのか?」
父は時計の蓋を閉じ、私を見ずに言う。
「あの茶会は伯爵家の名で客を呼んだ。娘の手間賃など、私の約束には入っていない」
紙の端から手を引いた。私は見積書を父のほうへ動かさない。
「お父様のお花ではございませんもの。私が茎を切って、私が活けます。ここに、その手間を書きましたわ」
空いた手で花鋏の柄を押さえる。見積書をつまむディディエ様の指が、値の欄で止まった。
「地味な花に、銀貨六十枚? 母上の祝いだよ。君も、喜んで用意すると思ったのに。祝いの席へ花を贈るくらい、できるだろう?」
「侯爵夫人がお望みなのは、その地味な花ですわ。お客様同士のお顔を隠さずに、白で揃えます。お贈りするお約束は、しておりません」
椅子は空いたままだ。細身のディディエ様は、肩の詰め物の多い派手な上着を着て立つ。口の端だけで笑い、細い顎を上げた。
「……母上には、逆らえない。花だけは同じ手で、と言われているんだ。別の者の花では、嫌だそうだよ。僕には、ただの白い花なのに……ふんっ!」
花鋏の柄のくぼみに、指が収まる。私は見積書を指した。
「前金は半分、銀貨三十枚でお願いします。白い花を揃えますので。お支払いのあとで、この紙をお持ちくださいませ」
銀貨が卓に触れる音がする。私の名があるまま、前金が並んだ。父の目が紙から逸れる。見積書を取ったディディエ様は、父へ向き直る。
「伯爵、只の約束は、聞かなかったことにします。母上には、この見積書を見せるよ。僕から、只でとはもう言えない」
父は懐中時計を見て、ディディエ様と出ていった。エルワンが道を空ける。侯爵夫人が私の花を望んだ。そのことを母に言いたいのに、柄を握る手だけが緩む。嬉しいと言えば、あの庭の昼まで許してしまいそうで、口が動かない。
母が茶器を下げ、台所へ入る。エルワンは卓に銀貨六枚を置いた。見積書のあった所から、私へ目を上げる。
「あの方の宴に、あなたの花が並ぶんですね。あなたは、どう思います?」
「見積書の値なら、活けますわ。花に罪はございませんし、座った方の目の高さは、見てから決めたいですもの。お客様のお顔は、隠さないように」
エルワンは銀貨を品書きの横へ寄せる。私は花鋏から手を離した。握っていた所だけが温かい。エルワンが、淹れ手と活け手の欄を確かめる。
「それなら、私の客の分も、あなたの値で。五日後とお願いした、あの昼の席です。お茶も、花も、品書きどおりにお願いします。残りは当日、お持ちします」
「ありがとうございます。お子様の花は、こちらの低い台に置きますわ。大人の方と同じ高さでは、お花を見上げてしまいますもの。当日、お顔が隠れない高さを確かめます」
台所で杯の触れ合う音がした。その合間に、母の声が届く。
「悪くないわね」




