2. 背の低い子にも見えるように
朝の台所は、焦げたパンの匂いがする。窓から差す光の中で、煙が細くほどけた。母の茶の缶の隣には、札がある。夜明けに一人で裁き所へ行ってきたという。
〈離縁の申し立て 受けた 三十日目に裁く〉。壁には、祖母の花鋏が掛かっている。パンを焼くのも初めての母は、黒くなった耳を皿に載せた。茶の染みた指先から、今度は焦げを払う。
「夫婦で署名すれば済むのだけれど、あの人は書かないわ。だから、申し立ててきたわ。夜明けの通りを、一人で歩いてきたわよ。私も初めてですもの」
母の杯を寄せ、焦げたパンをもう一枚取った。耳を割ると、ぱきりと鳴る。口に入れると苦いのに、指に残る温かさまで捨てる気にはなれない。
「三十日目までは、夫の家へ戻ると言ったら、申し立てが消えてしまうのよね? ……お母様、パンは私が見ていればよかったわ」
「ええ。茶を淹れるつもりで待ったら、黒くなったわ。パンって、色が変わってからが早いわね。茶なら匂いで分かるのに、今朝は煙で教えてもらったわ」
「煙のお知らせは、明日はいらないわ。お母様、パンまで家を出ようとしているわよ。煙になって」
皿にこぼれた焦げを指で集める。茶の湯気だけは、いつもと同じ匂いだ。母は笑いながら、焼き菓子の粉の袋を引き寄せた。
「あはは。パンにはここに残ってもらうわ。お茶会の焼き菓子も作ってみるわね。ねえ、全部残ったらどうしましょう? 予約の紙を貼っても、来る方がいなかったら?」
母と私が、そろって口の端を噛む。困ったときの癖まで、同じだ。私はパンの皿を自分のほうへ寄せた。
「二人で食べましょ? 黒い所は私が先に取るから、お母様は食べられる所を綺麗にしてね。売れたら、その分、お客様の目の高さに花を増やしましょ?」
「はははっ、それなら、成功でも失敗でも楽しみね」
母の笑い声で、焦げの匂いまで軽くなる。
焦げたパンの山の横で、私は窓に貼る紙を広げた。〈お茶会 ご予約の方だけ〉。その下の、名を書く所で筆が止まる。花鋏の柄なら、握り方に迷わないのに。筆先の墨が丸くふくらみ、落ちずに震えている。
「お母様、お店の名は? この空いた所に書けば、通りの方にも、どんなお茶会か分かるでしょう?」
筆先が紙に触れないうちに、母はパンの耳をかじり、粉の袋へ目を移した。
「知らないわ。あなたが貼る紙ですもの。お茶なら選べるのだけれど。私は、次のパンを黒くしないように見ているわね」
名の所を空けたまま、紙を窓に貼る。窓台の林檎の枝と野の花は、通りを歩く子の目の高さに揃えた。固い蕾の間から、花の顔が通りを向く。粉の袋を抱え直す母の肩は、いつもどおりふっくらしている。台所へ戻るその背に、私のために家を出たのかとは訊けない。
◇
昼、門の外に馬車が止まる。馬の蹄が、通りの土を蹴る。父とアリスティードだ。母の手にはパンの耳、私の手には、窓の花から切った茎がある。父は格子戸の外で、角ばった顎を上げた。
「今日は我が家の茶会だぞ。客は九人だ。戻って支度をしろ。月に一度の席を、空けるわけにはいかん」
母が格子戸の内側へ来る。家令は、父の後ろに控えた。厚い胸の上で金の鎖を揺らし、父が懐中時計を見る。
「一言でいい。戻ると言え。客を迎えるのは伯爵家だ。お前の淹れる茶だけで、客が集まるわけではない」
「戻るなんて言わないわ。茶の缶は、ここの棚よ? 今朝は、この家でパンも焼いたんですもの」
「オディル!」
茎を持ったまま、もう片方の手を挙げた。汗ばんだ手のひらを、父から見える高さで止める。昨夜より、父の口髭も、その下の口元もはっきり見えた。茎の切り口が、残したほうの手を濡らしている。
「お父様、私たち、ここでお茶会を開くのです。窓の紙を見て、予約をくださった方をお迎えしますわ」
「は? お茶会だと? ふんっ! 名の無い女二人の茶を、誰が飲みに来る?」
アリスティードの面長の顔が下がる。痩せた長身が折れ、眉間の深い皺ごと、母にだけ頭を下げた。馬車へ向きかけた父の横で、通りの男が窓の前に屈む。
首の後ろで括った濃い茶の髪が、林檎の枝の下に見える。男は背を低くして、花と高さを揃えた。それから門の私たちへ声を掛ける。
「この花、背の低い子にも見えるように飾ったんですね」
父が振り向いた。男の琥珀色の目が、窓の花から私へ上がる。
「これは、どなたが?」
答える前に、母の顔を見てしまう。母はパンの耳をかじり、林檎の木のほうを見た。答えは、そちらには置いていない。私は、茎を握っていた手を自分のほうへ引き寄せる。
「……私です。私が、活けました」
切った茎を持つ指が、少し開く。七年、伯爵家の卓の花を見ても、誰も活けた人を訊かなかった。訊かれただけで、指の先まで熱い。切り口の湿り気では、冷めてくれない。男は私の答えを聞いてから立ち上がる。
広い肩が窓の上へ出る。まくった袖の下に、日に焼けた腕がある。
「渡し場亭のエルワンです。五日後の昼、四人でお茶を頂きたいです。南の国の商人のご夫婦と、六つの娘さんと、私です。お子さんも一緒で、大丈夫ですか?」
母は茶の缶を指して、ひと息で言う。客の話になると、パンを持つ手も止まった。
「南の国のお客様なら、お昼は濃いめに蜂蜜。小さなお嬢さんには、酸っぱくない焼き菓子ね。甘さを控えすぎないほうが、お茶も楽しめるわ」
エルワンが、母の手元へ目を丸くする。
「……よく、ご存じですね。お茶のお好みまで、すぐにお分かりになるんですね」
祖母の棚の杏の瓶が浮かぶ。小さな杯もある。あの杯の縁なら、小さな指でも持てる。エルワンは門越しに、私へ向き直った。
「ご夫婦にも、ゆっくりお茶を飲んで頂きたいです。あなたは、どう思います? 六つの子を連れた客を、この家で迎えられますか?」
「迎えられますわ。卓の花も、窓の花と同じように。エルワンさん、お子様が座ってから、茎の長さを確かめます。花の向こうのご家族と、目が合う高さにしますわ」
日に焼けた顔の右の頬に、えくぼが出来る。今度は彼が屈まなくても、目だけは私の高さまで下りてくる。エルワンが、白いままの紙を見た。
「それでお願いします。前金も持ってきます。花を活ける方にも、お会いできてよかったです。私の客は、宿の窓からも外をよく見ます。こちらの窓を見たら、きっと足を止めますね。お茶だけでなく、この花も楽しみにしています」
「……はい。窓の花も、喜びますわ。背伸びをしなくても見えるように、しておきます」
紙の角を押さえる指に力が入る。指に移った茎の水で、紙が少し湿った。父の声が門の外から来る。
「……勝手にしろ。今日の客は、私が迎える」
父が馬車へ戻った。戸を閉める前に、アリスティードが窓の花を一度見る。母は門の内側で、パンの耳を食べきる。私の手にはまだ切った茎がある。隠すように握り込んでいた指を、ほどいた。掌に残った茎の跡まで、窓の光が届く。
窓の紙には予約の人が出来て、名を書く所だけが、まだ白い。




