1. 私も離婚するわ
「返品された娘は、お前が引き取れ」
夜の伯爵家の玄関の広間で、お父様はお母様にそう言った。燭台の火が揺れている。蝋の匂いに、袖に残る侯爵家の庭の花の匂い。昼、その庭の茶会で、ディディエ様は「君の花は地味だ」と婚約を解いた。返さなくていいという指輪が、握った手の中にある。馬車で温めても、石だけは冷たいままだ。
大階段の下で父が振り返る。白髪まじりの赤茶の髪の向こう、階段の上には侍女たちがいる。家令のアリスティードは短く刈った白い髪を伏せ、銀盆を捧げて立っていた。
盆の上には、侯爵家の使いが先に届けた手紙。〈婚約を解く。娘御はお返しする〉。盆の空いた縁に、私の亜麻色の三つ編みと若草色の目が映る。十九の娘を返すには、小さな紙だ。
階段を降りてきた母は、白い筋の混じった亜麻色の髪を低くまとめている。隣で私の手を握ると、自分の結婚指輪を抜いた。指輪の下だけ、指が白い。私と同じ若草色の目が、こちらを見る。
「ええ。娘は引き取ります。指輪もお返しします」
指輪が手紙の上で鳴った。アリスティードの茶色の目がそこへ下がる。盆を持つ手は動かない。父の声だけが広間を渡る。
「何を言っている? お前に娘を任せると言っているんだ。婚約を解かれた娘を、母親が引き取るのは当然だろう?」
母は指輪を置いた手をひらひらさせる。もう一方の手は、私の手を握ったまま。指先にだけ茶の匂いがある。その温かさへ縋りかけた私の隣で、母は笑った。
「私も離婚するわ」
「待って、お母様。私を庇うために、離婚までしなくても!」
「あなたには幸せになってほしいのに、私が不幸な結婚を我慢していては、説得力がないでしょう?」
伯爵家の茶会が王都で評判だったのは、母が客の好みを一人残らず覚えて茶を選び、私が客の目の高さに花を活けていたからだ。
母は二十年、茶を淹れ、私は七年、花を活けてきた。母の茶の隣に私の花がある。その前に立ち、客を迎えるのは父だ。
「伯爵家の名があったから客が来たんだ。お前たちの茶も花も、この家の広間があってこそだぞ」
「そうね。最初の一年は。次にも同じ茶を、とおっしゃる方が増えて、嬉しかったわ」
母の返事に、父が私を見る。握っていた指輪の石が、手のひらへ食い込む。
「花を挿すしか能のない娘を、侯爵家が返してきたんだぞ。地味な花では、あちらの卓に合わん。お前も母も、家を出れば好きなだけ茶や花を揃えられると思うのか?」
口の端を噛んだ。私の花は、地味じゃない。そのひと言が、どうしても言えない。下がり眉を持ち上げた私の前で、父は私の目をのぞきこむ。
「ガランス、お前から母を止めろ。今夜の腹立ちで家を出て、明日からどうするつもりだ?」
答える前に、母の顔を見てしまった。母は指輪のない指を開き、私の手をそっとほどく。
「あなたの好きになさい。私の指輪は、もうそこに置いたわ」
母の指輪の隣に、私の婚約指輪を置いた。小さく触れ合う音がする。抜いたあとの白い跡を、母も隠さない。私も、指の形に曲がった手を開く。
「……お父様。これも、お返しします。お父様が決めた婚約でしたもの。花は、座ってくださる方のお顔が見える高さに活けますわ」
父の黒い目が私を見下ろす。時計を持つ手が止まった。
「ガランス! お前まで、家を出ると言うのか?」
母は茶の缶を抱えるように、両手を丸くする。
「離婚なんて、私も初めてですもの。荷物は少なくていいわね。持って行くのは、私の茶の缶と、ガランスの花鋏だけ。あはは。これじゃ、離婚の荷物か、お茶会の荷物か分からないわ」
階段の上で、侍女たちが顔を見合わせた。銀盆には、指輪が二つ残っている。母の指先が、今度は私の袖に触れる。
◇
馬車の戸を押さえるアリスティードは、痩せた長身を折って頭を下げた。面長の顔の眉間に、深い皺が寄っている。戸が閉まり、母のふっくらした肩が私に寄る。私は指輪のなくなった手を、その肩へ伸ばす。
「お母様、寒くない? こちらへ、もう少し寄って」
「あなたの手のほうが冷たいわ。ずっと指輪を握っていたもの。もう、あの石を温めなくていいのよ」
「もう、握るものがないもの」
「あら。花鋏があるじゃない。指輪より、ずっと使い慣れているわよ」
「もう、お母様。指にはめられないでしょう?」
母は茶の缶を抱えたまま、肩を揺らす。
「ふふ。花鋏をはめて暮らす娘なら、さすがに私も止めるわよ」
馬車が揺れ、膝の上で花鋏が鳴った。母は茶の缶を抱え直す。
「お祖母様の家があるの。五年、私のお小遣いで手入れをしてきたのよ。あなたの花を置ける窓もあるわ。見てから、置き場所を決めてね」
花鋏の柄を、膝の上で握り直した。石の角とは違う丸みが、手のひらに収まる。
「お母様、それ、お父様はご存じなの? お家の手入れのお金まで、ずっとお一人で?」
「訊かれたことが、ないもの。お祖母様が私の名で遺してくれた家ですものね」
訊かれたことがないなら、父はその五年を知らない。私も、知らない。花鋏の柄を撫でる指が、止まった。
王都の外れ、渡し場へ下る通りの角で馬車が止まる。木の格子戸を抜け、林檎の木の家へ入った。埃と、乾いた木の匂い。裏庭の枝には、まだ固い蕾がある。
茶の色の染みた母の指先が、灯をともす。棚には祖母の茶器が、縁の欠けた杯まで拭いて伏せてある。指を滑らせると、埃はつかなかった。母が通ってきた五年が、ここにある。私は花鋏を持ち直す。
「ここで、お茶会を開きたいわ。予約のお客様だけをお迎えする、小さなお茶会を。お母様のお茶と、私の花で」
「悪くないわね。ふふ。茶器は揃っているし、あなたの花鋏もあるわ。二人とも、手は空いているもの」
「お母様、笑いごとじゃないわ。お客様をお迎えして、茶も花も、二人で間に合うかしら?」
「知らないわ。まだ、開いていないもの」
母は棚へ目を戻し、茶の缶を載せた。花鋏のために空いた隣へ、私も手を伸ばす。
「もう。お茶は、お願いね。小さいほうが、いいわ。座った方のお顔が、遠くならないもの」
「ふふ。お茶なら任せて。広間がなくても、淹れる手まで置いてきてはいないわ」
まだ、柄から手が離れない。母の指に残る白い輪まで、私がここへ連れてきてしまった。灯の火が、母の髷の白い筋を照らす。空いた場所へ、花鋏をそっと置く。
◇
格子戸の音が夜に響く。夜風が格子の間を抜けて、三つ編みの先を揺らした。別の馬車で来た父が、門の外に立っている。厚い胸の金の鎖が灯に光り、背は格子戸より高い。角ばった顎の上で、口髭が動く。
「明日の茶会はどうする!」
二階の窓が開いた。灯に母の目尻の笑い皺が浮かぶ。父の後ろには、手綱を持った御者。母は窓へ身を寄せる。
「主催者はあなたでしょう?」
「我が家の茶会には、女主人が要る。開けろ。妻の家は、夫の家だ」
私は門の内側まで下りていた。格子に掛けた荒れた手が、木の冷たさを拾う。小柄な肩は、父の金の鎖にも届かない。二階の窓から、母の声が降りてくる。
「この家は、母が私に遺した家よ」
格子から手を離し、その手を挙げた。空っぽの手が、灯の下に出る。花を高く挿す必要はない。私はこの高さから、父の顔を見る。
「では、私が。お父様、この門は、今夜はもう開きませんわ」
父が懐中時計を見た。格子戸は閉じたままだ。
「私はお前の父だ。父が娘の居る家に入るのに、何が要ると言うんだ?」
時計の金の鎖の向こうで、御者も顔を上げる。私は父の顔を見上げた。
「お父様。お客様としてなら、予約をお願いします」




