第八話 これ、使うのかよ
グランヴァルが、低く不気味に唸った。
縦横無尽に消える俊彰を追うことを、ピタリとやめた。
「……ん?」
地響きを立てて巨体がその場に止まり、ゆっくりと頭を巡らせる。
赤く光る凶悪な双眸が向いた先。
「まずい!」
ガルドが悲痛な叫びを上げた。
そこには、負傷した仲間を馬へ乗せようと必死になっている騎士たちがいる。
俊彰がちょこまかと周りを飛び回っていたからこそ、避難する時間を稼げていたのだ。
だが。
この化け物も決して頭の悪い馬鹿ではなかった。
「おい! こっちだ!」
俊彰が喉を潰さんばかりの声で叫ぶ。
だが、グランヴァルは一切反応しない。
「俺だって! さっきからお前のこと斬ってるだろ!」
それでもグランヴァルは俊彰を完全に無視し、丸腰の騎士たちへ巨体を向けた。
「無視すんなよ……!」
俊彰は柄を握る両手に力を込め、《魔装剣・焔》を握り直す。
走る。
普通の足で、必死に土を蹴って走る。
《Lost Step》を使えば一瞬で追いつける。
だが、脚が鉛のように重い。さっきから連続で使いすぎたのだ。膝の奥がじんじんと痛んで悲鳴を上げ、荒くなった呼吸も全く戻っていない。
「くそっ……!」
グランヴァルの巨大な首筋が、カッと鮮烈に赤く光った。
炎が来る。
見ていた俊彰には一目で分かった。
「ガルド!」
「総員、退避!」
ガルドの指示で騎士たちが咄嗟に動く。
だが、負傷者を抱えたままでの動きは絶望的なまでに遅い。
絶対に間に合わない。
「――Lost Step!」
悲鳴を上げる脚へ無理やり魔力を叩き込む。
一瞬で景色が後ろへ吹き飛んだ。
俊彰の身体が、グランヴァルと背後の騎士たちの間へ滑り込む。
着地。
ズキンと右膝に激しい痛みが走った。
「っ……!」
痛みに構っている余裕なんてなかった。
俊彰は無我夢中で《魔装剣・焔》を地面へ深く突き立てる。
黒赤い炎が巨大な壁となって前面へ噴き上がった。
直後。
グランヴァルが放った濁流のような火炎が激突する。
「ぐっ……!」
圧倒的な熱。
全身を叩きつける凄まじい衝撃。
柄を強く握る両腕がガクガクと激しく震えた。
先ほどより遥かに強い。
地面に踏ん張った靴底が、少しずつ後ろへずるずると押されていく。
「トシアキ様!」
「いいから下がって!」
叫んだ瞬間、呼吸が乱れた。
目の前の炎の壁が、フッと大きく揺らぐ。
「っ……!」
まずい。
崩れる。
俊彰は奥歯が痛むほど歯を食いしばった。
格好いいとか。
憧れの異世界だとか。
凄い魔法が使えるとか。
そんな能天気な考えは、とっくに頭から吹き飛んでいた。
ただ必死だった。
もしここを自分が退けば。
後ろにいる生身の人間たちが焼き尽くされる。
「……終われっ!」
俊彰が渾身の力で剣を振り抜いた。
黒赤い炎が横へ勢いよく弾け、グランヴァルの火炎を強引に押し散らす。凄まじい爆風が街道を駆け抜けていった。
「はぁっ……はぁっ……!」
俊彰は剣を杖代わりに地面へ突き、どうにか膝を折らずに立っていた。
両腕が重い。
両脚も重い。
肺が酸素を求めて、焼き切れるように痛い。
対して。
グランヴァルは、相変わらずそこに立っている。
何事もなかったかのように。
「……冗談だろ」
攻撃は避けられる。
吐き出された炎を防ぐこともできる。
だが。
倒せない。
それでは何の意味もないのだ。
このまま不毛な消耗戦を続ければ、先に自分の四十四歳の肉体が限界を迎えて動かなくなる。
俊彰は震える左手で小脇のノートを掴み上げた。
「何か……」
汗の垂れる手で必死にページをめくる。
「何かあるだろ……!」
《魔装剣》。
違う。
《Lost Step》。
これも違う。
もっと。
今、目の前にいるあいつを完全に止められるもの。
炎を吸収されようが。
三千年かけて外皮が硬くなっていようが。
そんな厄介な設定を全部まとめて無視して――
確実に終わらせられるもの。
「……頼むぞ、十四歳の俺」
祈るようにページをめくる指が、ピタリと止まった。
「…………あ?」
見覚えがあった。
完全に忘れていた。
いや。
黒歴史すぎて、自らの脳から消し去ろうとしていたのかもしれない。
見開き二ページ。
他の雑な設定とは明らかに雰囲気が違う。
黒いボールペンで何重もの四角い枠が描かれ、その中央に誇らしげに巨大な文字が記されている。
十四歳の自分が痛い頭で本気で考えた。
最終奥義。
俊彰の口が、呆然とゆっくり開いた。
「…………お前」
その文字の下に書かれた解説文を必死で読む。
一行。
二行。
読み進めるほどに、俊彰の顔が引きつっていった。
「ちょっと待て」
もう一度しっかりと読む。
見間違いでも読み間違いでもない。
「こんなの……」
俊彰は引きつった顔をゆっくりと上げた。
目の前には、三度目となる炎を口元へ集め始めたグランヴァル。
背後には、まだ避難しきれていない傷だらけの騎士たち。
そして手元には。
三十年前。
十四歳の岡島俊彰が、全力でノリノリで考えた最強の技。
ページの中央。
そこには、力強い文字で大きくこう書かれていた。
《End is Zero》
「…………これ、使うのかよ」
俊彰は、もう一度だけ信じたくない気持ちでノートのページへ目を落とした。
その文字の下には、十四歳の自分が無駄に達筆な字で書いた説明が続いている。
《終焉すら零へ還す、究極にして最後の術式》
「…………」
嫌な予感しかしない。
嫌な予感しか、本当にしない。
おそるおそるさらに読み進める。
《あらゆる物質、魔力、術式を消滅させる》
「おい」
次。
《発動範囲内に存在するすべてを零へ還す》
「おいおい」
そして最後。
妙に力強い字で、ご丁寧に赤の二重線まで引いてあった。
《ただし本気で使うと世界がヤバいので普段は使わない》
「これかよ!!」
思わず街道に響き渡る大声で叫んだ。
三十年前の自分を正座させて胸ぐらを掴みたい。
当時「なんか世界レベルのスケールっぽくて格好いいから」という軽いノリで書いたであろう、たった一行の痛い文章。
それが今、この現実の異世界では冗談や洒落にならないのだ。
「何が『世界がヤバい』だ! ちゃんと書けよ! どうヤバいんだよ!」
当然、時空を超えたノートから返事などあるはずもない。
十四歳の俊彰は、三十年後の四十四歳になった自分が実際にこの技を使用することなど、一ミリだって考えていないのだから。
俊彰は冷や汗を流しながら、ページの隅々まで確認する。
発動条件。
術式構成。
期待される効果。
それらしい専門用語や英単語はいくつも並んでいる。
だが。
「範囲が書いてねえ……」
俊彰の頬が引きつった。
一体どこまで消えるんだ。
十メートルか。
百メートルか。
山一つ丸ごと消し飛ぶのか。
それとも、本当に言葉通り――
世界そのものが終わるのか。
「使えるわけないだろ、こんなの……」
俊彰は顔を上げた。
グランヴァルの巨大な口元で、極大の炎が不気味に膨れ上がっていた。首筋を走る血管のような赤い光が、先ほどまでよりも明らかに強く発光している。
来る。
最大級の一撃が来る。
「全員下がれ!」
ガルドの必死の怒号が響く。
騎士たちが負傷者を肩で支えながら、必死に走って距離を取ろうとする。
だが。
あまりにも遅い。
俊彰はガリッと歯を食いしばった。
「――Lost Step!」
悲鳴を上げる脚で一瞬にして間合いを詰める。
狙うのは分厚い腹ではない。
頭部。
顔面だ。
「こっち見ろ!」
《魔装剣・焔》を全身の力で振り抜いた。
黒い刀身がグランヴァルの頬を力任せに叩く。
刃を包む炎が即座に吸収される。
傷らしい傷もつきはしない。
それでも。
凶悪に赤く光る双眸が、はっきりと俊彰一人へ向いた。
「そう、それでいい」
直後。
丸太のように太い巨大な前脚が、凄まじい風切り音とともに飛んできた。
「――っ!」
俊彰は突き出された太い爪を剣で受け止めた。
金属同士を力任せにぶつけたような鋭い爆音と衝撃が、両腕を駆け抜ける。
そのまま身体がふっと浮いた。
「うおっ!?」
直撃の威力に抗えず、俊彰の身体は数メートル後ろの土の上へ激しく叩きつけられた。
全身を襲う打撃。
肺からすべての空気が一瞬で抜ける。
「がっ……!」
痛い。
背中が信じられないくらい痛い。
剣を握っていた両腕が激しく痺れている。
必死に起き上がろうとしても、すぐには自分の身体が言うことを聞かなかった。
「トシアキ様!」
遠くでエリシアの悲鳴のような声が聞こえる。
グランヴァルが地響きを立てて近づいてくる。
一歩。
また一歩。
湿った地面から全身へ伝わる振動が、どんどん大きく、強くなっていく。
「……マジで」
俊彰はプルプルと震える両腕で、どうにか身体を起こした。
「俺、ただの会社員なんだけどな……」
こんな命がけで化け物と戦うために四十四年間生きてきたわけではない。
剣なんて今まで握ったこともなかった。
魔法だって今日この世界に来て初めて使ったのだ。
今ここで一人で逃げ出したって、誰も文句は言えないはずだ。
少なくとも俊彰自身は、強くそう思う。
それでも。
霞む視界の端に、血を流して倒れている騎士の姿が見えた。
さらに、その向こう。
まっすぐに続く街道。
この先には、何の情報も知らない民たちが住む村がある。
「…………」
俊彰は泥に汚れた手元のノートを見つめた。
馬鹿げた名前。
馬鹿げた超能力。
馬鹿げた設定。
だが全部、自分自身がノリノリで書いたものだ。
「……責任取れってことかよ」
俊彰はふらつきながらも、しっかりと両足で立ち上がった。
右手には漆黒の《魔装剣・焔》。
左手には、三十年前の黒いノート。
目の前のグランヴァルが天に向かって狂暴に咆哮する。
「でも、全力はなしだ」
誰に言い聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
世界がヤバい。
十四歳の自分が痛い頭でそう書いたのなら。
今は、その設定を信じるしかない。
ならば。
「……小さく」
俊彰は目の前で牙を剥くグランヴァルを凝視する。
「こいつ一匹だけ」
そんな微調整ができるかどうかは分からない。
だが《Lost Step》だって、使いながら感覚で範囲や距離を調整できたのだ。
なら。
魔法だって同じかもしれない。
俊彰は《魔装剣・焔》の柄をぐっと強く握り直した。
頭の中で強く意識する。
範囲を広げるな。
絶対に広げるな。
グランヴァルだけ。
目の前の一頭だけを、術式の唯一の対象にする。
世界でも。
この街道でも。
周囲の広大な森でもない。
「……頼むぞ」
一体誰に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。
三十年前の幼い自分か。
それとも、この異世界そのものか。
あるいは、今、自分の中で渦巻いている謎の力そのものに向かってか。
グランヴァルが地響きとともに地面を鋭く蹴り飛ばした。
俊彰は今度は逃げなかった。
迫り来る黒い巨体。
次の瞬間、右手に握っていた《魔装剣・焔》から、激しかった炎がすっと消えた。
「え?」
それだけではない。
金属のような黒い刀身そのものすら、溶けるように消え去っていく。
代わりに。
俊彰の何もなくなった右手の中へ、すべてを呑み込むような漆黒の光が集まり始めた。
End_is_Zéro Project




