第7話 こんなデカく描いてないぞ、俺
三度目の咆哮は、もう音というより腹を直接揺さぶる衝撃波だった。
大気が激しく震え、街道脇の密林から鳥たちが羽音を立てて一斉に飛び立つ。恐怖に狂った馬が前脚を大きく上げ、御者が必死の形相で手綱を強く引いた。
「馬車を下げろ! 負傷者を王都へ!」
ガルドの怒号のような指示が飛ぶ。騎士たちが即座に動く中、俊彰も揺れる馬車から地面へ降り立った。
そして。
「…………」
俊彰は一瞬で、猛烈に後悔した。
いや。
猛烈どころか、死ぬほど後悔した。
本当に来るんじゃなかった。
薄暗い森の奥。鬱蒼とした木々の隙間に、禍々しい赤い光が見えた。
一つ。
二つ。
最初は何かが燃えているのかと思った。
違う。
眼だ。
「……デカくない?」
漆黒の巨体が、木々をなぎ倒しながらゆっくりと姿を現した。
四本の太い脚が地面を踏みしめるたび、湿った土がドスンと深く沈み込む。全身を覆う黒い外皮は巨大な岩石のように硬く隆起し、額から斜め上へ伸びた二本の角は、俊彰がノートに描いたへたっぴなイラストより遥かに太く鋭い。
そして、ゆらゆらと揺れる尻尾の先。
赤熱した溶岩のような不気味な光が、闇の中で怪しく輝いていた。
間違いない。
《煉獄獣グランヴァル》。
十四歳の岡島俊彰が痛い頭で考え出した魔獣だった。
「いや……」
俊彰は手持ちのノートと、目の前で蠢く化け物を交互に見比べた。
「こんなデカく描いてないぞ、俺」
ノートの端に描かれているグランヴァルは、せいぜい人間の二〜三倍程度の設定だったはずだ。しかし目の前のそれは、四足で立っているにもかかわらず、下手な二階建ての家より遥かに大きい。
三千年。
どうやら魔力値だけではなく、身体のサイズまで順調すぎるほど育ってしまったらしい。
「トシアキ様!」
エリシアの切迫した声が飛ぶ。
グランヴァルが、ゆっくりとこちらを捉えた。
「――――ッ!」
咆哮。
今度は近い。
あまりにも近すぎる。
俊彰の身体が本能的な恐怖で勝手に一歩後ろへ下がる。
怖い。
そんなの当たり前だった。テレビ画面の中でもなければ、ノートの上のラクガキでもない。自分より遥かに巨大な怪物が、殺意をむき出しにして明確な敵意を向けているのだ。
逃げたい。
今すぐ全部放り出して走りたい。
その感覚だけは、異世界へ放り出されても実にまっとうで正常だった。
だが、自分の背後には血を流す負傷した騎士たちがいる。さらにその先には、老人や子供のいる無防備な村があるのだ。
「…………ったく」
俊彰は震える右手をすっと前へ突き出した。
昨日までなら。
いや、数時間前の自分なら。
こんな漫画みたいな真似をする自分など絶対に想像もできなかった。
それでも、口はもうその呪文の感覚を覚えていた。
「――エンチャント!!」
ガコンと空間が鳴り、黒赤い激しい炎が爆ぜた。猛烈な熱風が街道をまっすぐ駆け抜ける。
何もなかった右手の中に圧倒的な熱量の炎が集まり、重厚な黒い刀身を形作っていく。
《魔装剣・焔》。
ガルドたちが息を呑む気配が伝わってきた。だが俊彰は、そちらを振り返る余裕すら一切なかった。
今は。
少しだけ。
それどころではなかった。
グランヴァルが地響きとともに頭部を低く沈めた。
「来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。
次の瞬間。
目の前の巨体が、嘘のように消えた。
「は?」
いや。
消えたのではない。
速い。
あれだけの巨大な質量が、一瞬で間合いを詰めてきたのだ。
「ちょっ――」
頭で考えるより先に、俊彰はがむしゃらに横へ飛んだ。
直後。
丸太のように太い前脚が、さっきまで俊彰が立っていた場所を無残に叩き潰した。
凄まじい轟音。
土と破片が爆発したように弾け飛ぶ。
「うおおおおっ!?」
俊彰は無様に土埃の中を転がった。
肩が痛い。
腰も痛い。
両膝まで激しく痛む。
「四十四歳にやらせる動きじゃねえだろ!」
全身の痛みに悲鳴を上げながら、必死で立ち上がる。
グランヴァルが地響きを立てて巨体を反転させた。俊彰は回転する頭の中で、必死にノートの記述を思い出す。
外皮は硬い。
炎は吸収される。
通常の剣は通らない。
ただし――
「腹!」
そこだけ外皮が薄い。
俊彰は右手の《魔装剣・焔》の柄を力任せに握り直した。
問題は、どうやってあの化け物の懐まで潜り込むかだ。
グランヴァルが再び突進のために身体を低く沈める。
その瞬間。
さっき馬車の中で見つけたノートのページが、鮮明に脳裏へ浮かび上がった。
《Lost Step》。
「…………」
マジか。
いきなりぶっつけ本番の実戦で?
安全な練習なし?
失敗したら、たぶん一瞬で潰されて死ぬ。
だが、熟考している猶予などどこにもなかった。
グランヴァルが地面を鋭く蹴り飛ばす。
俊彰は両脚にぐっと全身の力を込めた。
魔力を脚部へ集中する。
どうやるのかなんて理屈は知らない。ただ、十四歳の自分がノートにそう書いているのだ。
なら。
今はあの痛い自分を信じるしかない。
「――Lost Step」
世界が。
一瞬で、後ろへ激しく吹き飛んだ。
End_is_Zéro_Project




