第六話 無理です
俊彰は、手元のノートに描かれた《煉獄獣グランヴァル》を改めて見つめた。
魔力値、五十三万。
炎属性の攻撃を吸収。
通常の剣では傷つかない強靱な外皮。
十四歳の自分が、当時の頭の中で思いつく限りの「強そう」を詰め込んだ魔獣だった。
それだけでも十分に面倒なのに、現実では三千年かけて勝手に成長し、推定魔力値は五百万を超えているという。
「…………」
俊彰は静かに、パタンとノートを閉じた。
「無理です」
「トシアキ様」
「いや、無理でしょ」
エリシアが何か言いかけるより先に、俊彰はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「だって、こいつ五十三万だったんですよ?」
「はい」
「それでも当時の俺は『最強の魔獣』くらいの勢いで書いてるんです。それが今は五百万超えって」
自分で言っていて猛烈に嫌になってきた。
そもそも何を基準に五十三万なのかも分からない。その十倍という数字が具体的にどれほど強いのかも、まったく見当がつかない。
ただ一つ、はっきりと分かるのは。
「俺、さっき初めて剣出した人間ですよ?」
それだけだった。
俊彰は剣士ではない。
魔術師でもない。
異世界へ飛ばされてから、まだ一日すら経っていないのだ。
四十四歳のただの会社員に、魔力値五百万超えの化け物をどうにかしろと言われても困る。
「申し訳ありません」
エリシアは拒絶されても気分を害することなく、静かに頭を下げた。
「無理を承知でお願いしております」
「いや……」
「ですが、我々にはもう、有効な手段がありません」
責めるような言い方では決してなかった。
だからこそ、俊彰には少し――いや、大いに困った。
もっと高圧的だったり、強引に頼まれたりすれば、「無理なものは無理だ」と突っぱねることもできる。
だが、エリシアは申し訳なさそうにするだけで、それ以上は何も言わなかった。
「…………」
ひんやりとした地下室に、妙な沈黙が落ちる。
俊彰は居心地の悪さから逃れるように、何となく脇に抱えたノートへ視線を落とした。
表紙には、相変わらず銀色の文字が妖しく輝いている。
《漆黒零式改MarkⅡ》
三十年前。
十四歳の自分が、本気で考えた世界。
その中に、自分の手でノリノリで生み出した魔獣。
そして今、その魔獣が本当にこの世界の人間を襲っている。
「……さっき」
俊彰はぽつりと口を開いた。
「十二人が怪我したって言ってましたよね」
「はい」
「重傷が三人」
「はい」
「第二陣は?」
エリシアがわずかに悲しげに表情を曇らせた。
「現在も現地におります」
「……まだ戦ってるんですか?」
「グランヴァルが街道を越えれば、その先には村があります」
俊彰は顔を上げた。
「村?」
「人口百名ほどの、小さな村です」
「避難は?」
「進めております。しかし、老人や幼い子供も多く、全員の避難には時間が必要です」
「…………」
聞かなければよかった。
本気でそう思った。
知らなければ、自分には関係ないと突っぱねて終われた。
この世界の騎士がどうなろうと。
見たこともない、知らない村がどうなろうと。
少なくとも、自分の責任ではないと断言できたはずだった。
だが。
俊彰はもう一度、苦い気持ちでノートを開いた。
《煉獄獣グランヴァル》
黒い獣の横には、十四歳の自分が描いた炎のラインが何本も伸びている。
妙に力の入った二本の角。
無駄に鋭い牙。
尻尾の先だけ赤いという、どうでもいいこだわり。
「…………俺が考えたんだよな、こいつ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
もちろん、三千年間のことまで全部自分の責任だとは思わない。
この世界には、この世界が歩んできた歴史がある。
グランヴァルだって、自分の知っている設定から大きく変わってしまっている。
それでも。
元を辿れば、この面倒くさい化け物をノートの上に生み出したのは、十四歳の岡島俊彰だった。
「……ったく」
俊彰は頭をガシガシと掻きむしった。
三十年前の自分に今さら文句を言っても、始まりはしない。
なら。
自分で描いた妄想くらい、自分で責任を取るしかない。
「エリシアさん」
「はい」
「その街道」
俊彰は腹を括って、ノートをパタンと閉じた。
「ここから、どれくらいかかります?」
エリシアが驚きに目を見開いた。
「トシアキ様、それは――」
「勘違いしないでください」
俊彰はすぐに手をかざして言葉を遮った。
「倒せるなんて言ってませんからね」
「……はい」
「見て、無理そうなら逃げます」
「はい」
「あと俺、馬とか乗れません」
「承知しました」
「それと」
俊彰は一度だけ、大きく息を吐き出した。
「俺を始祖様って呼ぶのもなしで」
エリシアは少しだけ黙り、彼の顔を見つめた。
そして。
「……善処いたします」
「そこは約束してよ」
エリシアが、緊張の解けた顔でほんの少しだけ可憐に笑った。
俊彰はその眩しい笑顔から逃げるように、慌てて視線を逸らす。
「それで」
黒いノートをしっかりと小脇に抱え直した。
「場所、どこですか?」
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