第五話 聖王女エリシア
最深部の扉が、静かに開いた。
最初に姿を見せたのは、二人の騎士だった。
揃いの銀甲冑に身を包み、扉の左右へ分かれる。その洗練された無駄のない動きには一切の隙がなく、ガルドたちとはまた違った張りつめた緊張感があった。
そして、その間を一人の女性が歩いてくる。
「…………」
俊彰は思わず口を閉ざし、言葉を失った。
年齢は二十代半ばほどだろうか。
陽光を溶かし込んだような淡い銀色の長い髪。
白を基調とした上質な衣装には、光の加減で浮かび上がる金糸の細かな刺繍が施されている。過度な華美さはない。それでも、一目で自分とは住んでいる世界が違うと分かる程度には上品で上等だった。
何より。
美人だった。
三十年前、実家の自室でこんな設定を書いていた自分とは、文字通り次元の違う――ものすごい美人だった。
ガルドが即座に甲冑を鳴らして片膝をつく。
「聖王女殿下」
大司教オルフェンも深々と頭を下げた。
「エリシア殿下」
「…………」
俊彰は左右の二人を見る。
歩み寄ってくる女性を見る。
もう一度、ひれ伏す二人を見る。
とりあえず。
自分も頭くらい下げておいた方がいい気がする。
四十四年間で培ってきた社会人としての危機管理能力が、そう告げていた。
「あ、どうも」
ぺこり。
取引先の役員に会ったときのように、普通に頭を下げた。
「始祖様!?」
ガルドが慌てて顔を上げた。
「何?」
「始祖様が頭を下げられては――」
「いや、俺会社員だから。自分より偉い人に会ったら頭くらい下げるよ」
「カイシャインとは、そのような高い身分なのですか?」
「そういう話じゃない」
どこまで行っても話が噛み合わない。
そんな俊彰たちの押し問答を見て、女性の整った口元がほんの少し緩んだ。
「お顔をお上げください」
涼やかな、鈴の音のように澄んだ声だった。
俊彰がゆっくりと顔を上げる。
女性は数歩進み、俊彰の真正面で足を止めた。
「初めてお目にかかります。エリシア・アルディオンと申します」
「岡島俊彰です」
「トシアキ様」
「はい」
ここまでは至極普通だ。
異世界に来てから数時間、ようやくまともに会話と自己紹介ができる相手が現れた。
そうホッとした直後。
エリシアは静かに、優雅な動作で膝を折った。
「ちょっ――」
そのまま俊彰の前で、深々と頭を垂れる。
「お会いできる日を、ずっとお待ちしておりました」
猛烈な嫌な予感がした。本日何度目か分からない冷や汗が背中を伝う。
「我らが始祖様」
「やっぱりそれか」
やっぱり、まともではなかった。
「殿下まで……」
俊彰は頭が痛そうに右手で額を押さえた。
「だから、俺は始祖じゃないって」
「ですが、《魔装剣》を顕現されたと伺っております」
「一回だけね」
「そして、《始原の聖典》と同じ書をお持ちだとも」
「それについては俺も説明してほしい側なんだけど」
エリシアがゆっくりと顔を上げる。
その表情には、先ほどまでの柔らかな微笑みは消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、退かない意思を秘めた真剣な眼差しだった。
「では、トシアキ様」
「はい」
「始祖様とお呼びすることは、ひとまず控えます」
「助かります」
初めて話の通じる、理知的な人間がいた。
俊彰は胸をなでおろし、少しだけ安心した。
エリシアは立ち上がる。
そして、真正面からまっすぐに俊彰の目を見つめた。
「そのうえで、一人の人間としてお願いがございます」
「……お願い?」
「どうか、私たちにお力をお貸しください」
「…………」
俊彰は黙り込んだ。
来た。
異世界へ突然飛ばされて。
自分でもわけの分からない力を使えるようになって。
国の偉い人から「力を貸してください」。
十四歳の頃の自分なら、ここで目を輝かせて二つ返事で引き受けていただろう。
むしろ、そのお約束の展開をずっと待っていたはずだ。
だが。
現在、四十四歳。
しがない会社員。
剣道経験なし。運動も得意ではない。
魔法経験、本日たったの一回。
体力に至っては、さっき魔獣から数分逃げ回っただけで死にそうに息が上がったのだ。
「いや……」
俊彰は困ったようにボリボリと頭を掻いた。
「そういうの、俺には無理だと思います」
エリシアは何も言わず、ただ静かに彼の言葉を待った。
「さっきの剣だって、たまたま偶然出せただけだし。俺、昨日まで普通に会社員やってた人間なんで」
「承知しております」
「いや、たぶん承知してないと思う」
俊彰は困惑から引きつった苦笑を浮かべる。
「世界を救えとか、魔王を倒せとか言われても困りますよ。俺、そういう英雄になれるような人間じゃないんで」
「世界を救っていただきたい、とは申しません」
「え?」
「ただ――」
エリシアが一瞬、言葉を区切った。
「話だけでも、聞いていただけませんか」
「…………」
澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめられる。
吸い込まれるような、とても綺麗な顔だった。
非常に、猛烈に困る。
俊彰はたじろいで、ふっと視線を逸らした。
「…………話だけなら」
ひれ伏していたガルドがぱっと顔を上げた。
オルフェンも期待を込めた目線で俊彰を見る。
エリシアは、ほんの少しだけ緊張を解くように安堵の微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
エリシアは、凛とした表情を少しだけ引き締めた。
「王都より北へ、馬で半日ほどの場所に《ルーデン街道》という道があります」
「街道?」
「はい。北部の村々と聖王都を結ぶ、重要な道です」
俊彰は脇に抱えていたノートを開いた。
ペラペラと乾いた音を立ててページをめくる。
「ルーデン、ルーデン……」
地名だけなら、このノートには山ほど書いてある。
十四歳の自分は、学校の地理や歴史の勉強にはここまで熱心ではなかったはずだ。どれだけノートを無駄遣いしていたのか。
「あった」
指がピタリと止まる。
《ルーデン街道》
余白には、定規を使って描いた簡単な地図まで残っていた。
「……あるな」
「やはり、聖典にも?」
「聖典じゃなくて俺のノートだけどね」
「失礼いたしました」
エリシアは気分を害することもなく、素直に頭を下げる。
俊彰はノートに描かれた地図を眺めながら首を傾げた。
「それで、この街道がどうしたんです?」
「三日前から、魔獣が出没しております」
「魔獣……」
つい数時間前、森で味わった恐怖が鮮明に蘇る。
暗い森。
巨大な牙。
生きた心地のしなかった全力疾走。
そして、悲鳴を上げた腰。
「……それ、騎士団の仕事じゃないの?」
「無論です。すでに討伐隊を派遣しております」
「じゃあ問題ないんじゃ」
言いかけて、俊彰はエリシアの表情がわずかに曇ったのを見て口を閉じた。
「昨日、第一陣が交戦しました」
静かだが、重い声だった。
「騎士十二名が負傷。そのうち三名が重傷です」
「……十二人?」
「はい」
俊彰はノートから顔を上げた。
そばに控えるガルドも、先ほどまでの困惑した様子とは違う、騎士としての険しい表情になっている。
「本日早朝、増援を加えた第二陣を派遣しました。しかし――」
エリシアが、くっきりと赤い唇を結ぶ。
「討伐には至っておりません」
「そんなに強いの?」
「通常の魔獣ではありません」
重々しく答えたのはガルドだった。
「炎をまとった巨大な四足獣です。剣は皮膚を通さず、魔術による攻撃もほとんど効果がありません」
「炎……」
俊彰の指が止まった。
脳裏のどこかで、何かが引っかかった。
「角は?」
ガルドが驚きに目を見開く。
「……ございます」
「二本?」
「はい」
「身体は黒い?」
「漆黒です」
「尻尾の先だけ、赤く光ってる?」
「なぜ、それを……」
「ちょっと待って」
俊彰は記憶の引き出しを必死にひっくり返しながら、勢いよくページをめくった。
違う。
これでもない。
「どこだ……」
三十年前の記憶の奥底に、妙な罪悪感とともに引っかかっている。
確か。
作った。
絶対に作った。
十四歳の自分が「最強の魔獣」とか何とか痛いことを考えながら、ノリノリでやたら細かく設定した奴がいたのだ。
「……あった」
ページをめくる手がピタリと止まった。
見開きには、黒いボールペンで描かれた獣の絵が鎮座していた。
四本の太い脚。
頭部にそびえる二本の角。
全身を覆う、メラメラとした炎の描画。
そして尻尾の先だけを赤鉛筆で塗った、無駄に細かいデザイン。
「…………」
俊彰は黙って、ページ上部を見つめた。
そこには、これ見よがしに名前が書いてある。
しかも。
やっぱり十四歳らしく、無駄に格好をつけてあるのだ。
「トシアキ様?」
「いや……」
できれば声に出して読みたくない。
大人としての尊厳が死ぬ。
だが、エリシアもガルドも藁にもすがるような目で見つめている。
俊彰は観念した。
「……こいつ、名前あるよ」
「名前?」
「ああ」
俊彰は十四歳の自分が力強く書いた文字を見つめたまま、深く重い息を吐いた。
「《煉獄獣グランヴァル》」
一瞬、地下室に冷ややかな静寂が落ちた。
ガルドの顔色が、はっきりと変わる。
「……グランヴァル」
「知ってるの?」
「その名は、古い文献にのみ残されております」
「マジかよ……」
俊彰は頭を抱えそうになりながら、再びページへ目を落とした。
絵の下には、能力や特徴までびっしりと痛々しい字で書き込まれていた。
炎を操る。
硬い外皮を持つ。
通常の剣では傷つかない。
炎属性の攻撃を吸収する。
そして。
俊彰の目が、一番下の余白に書かれた一行で止まった。
《魔力値――五十三万》
「…………またお前か」
「はい?」
「いや、こっちの話」
十四歳の自分は、どれだけ五十三万という数字を気に入っていたのだろう。
俊彰は社会人特有の強烈な嫌な予感を覚えながら、エリシアへ視線を戻した。
「ちなみに……今出てる奴の魔力値って、分かります?」
「正確な測定はできておりません。ただ、現地の魔術師によれば――」
エリシアが真剣な面持ちで答える。
「推定、五百万を超えると」
「…………」
俊彰は手元のノートを見る。
五十三万。
エリシアを見る。
五百万以上。
もう一度ノートを見る。
「育つなよ……」
思わず、悲痛な本音が漏れ出た。
「いや、聞くだけだからね?」
「はい」
「本当に聞くだけだから」
「承知しております」
「…………」
その返事。
会社で無理難題な案件を振られるとき、営業や上司から何度も聞いたことがある。
だいたい、「聞くだけ」では絶対に終わらないやつだった。
End_is_Zéro_Project




